第2話 結婚?
ウィルも私も豪華な宮廷には圧倒されてしまう。庭園には何百もの噴水があった。
馬車から降りると、目の前に水色のネモフィラの花畑が広がっている。思わず見惚れてしまった。
「きれい……」
感嘆の言葉をもらす。
「気に入ったか?」
皇帝がたずねた。
「ええ、こんなの生まれて初めて見ました……一体どうやって……?」
なぜ皇帝は私たちをここに連れてきたのだろう?何百人もの使用人たちや、迷路のような庭園や、屋上の浴場、貴族やら紫の絹のドレスやらで溢れかえる場所なんかに。
私たちは場違いだった。
愛人なんかになるのは真っ平だ。どうやらイヴリンは皇帝の愛人だったらしい。
イヴリンは一体どこに行ったのだろう?それに皇帝の思惑はいまだ不明だった。
彼は続いて、寝室に案内した。天井の高い素敵な部屋だ。天蓋付きベッドのボルドー色のカーテンや、バラの柄の肘掛け椅子。マホガニーの書見台、ベッドの上にはふかふかの枕が三つ、そして、エメラルドグリーンのサテン生地のドレスが置いてあった。
「君は昔から花が好きだったな。バルコニーからネモフィラ畑が見れる。季節ごとに寝室に変えればいい。いつでも部屋から季節の花が見れるように」
季節ごとに寝室を変えればいい?ものすごく贅沢な話だけれど、季節ごとって私、そんなに長く宮廷に滞在するのだろうか。早く離れたいのに。こういう雲の上の世界の人たちと関わったらロクなことにならない。
とにかく、バルコニーから見た景色は美しかった。ネモフィラ畑だけでなく、遠くに白い円形の噴水や大理石の彫像までが見える。
「陛下、こんなふうに私のことを目にかけてくださってありがとうございます。この宮殿の何もかもが素晴らしいですわ。いつまでも、こうしていられたら、どれほど喜ばしいことでしょう。
でも子を持つ母親として、あまり長くここにいるわけにはいきません。息子には平和な暮らしを与えてやりたいのです。華美なものではなくて、質素で堅実なものを」
「イヴリン、あの修道院に戻りたいって本気で言ってるのか?お前は華やかで愉快なことが大好きだったのに。庭園で笑いながら走り回っていたお前が……」
たしかにイヴリンは存在したのだろう。私を見る彼の瞳の中に、イヴリンが垣間見えた。陽気で純真無垢なイヴリン。うら若く、私にそっくりだという女。以前、皇帝を愛し、楽しませ、忘れられない女となった……
悲しくなった。イヴリンにあった健全で幸福な青春は、私にはない。ウィリアムが生まれる前には暗い思い出しかないのだ。そうして、そのイヴリンも皇帝のもとを去ってしまったのだ。ひょっとしたら彼女も今は暗い絶望の中を生きているのではないか。
「私はイヴリンではありませんわ。気の毒ですけれど。ウィリアムも同じです」
私は慎重に言った。
この人を怒らせたくなかった。怒ったら極端なことをするのではないか。彼は権力のある人だった。私たちは権力の前では無力だ。
皇帝はジッとウィリアムを見ていた。深く考え込むような、意味深長な目つきだ。ウィリアムも負けじと見つめ返す。聡明で勇敢な子だ。息子のことが誇らしくなった。
「ウィリアム、庭で遊んでくるといい。馬に乗ってもいい」
彼が突然、ウィルに話しかける。
「はい、陛下」
ウィルはチラリとこちらを見た。私はさっと笑顔を浮かべてうなずく。
ウィリアムはすぐに部屋を出ていった。
「では、あの子の父親は誰なんだ?」
彼が鋭い目つきで私を見る。威圧的な口調だ。
暗い気持ちになった。夜明けのこない冬の夜のよう。
「あの子の父親は重要ではありません」
私が答える。
「重要ではない?どの子どもにも父親の存在は大切だ。父親は誰なんだ?」
皇帝が繰り返したずねた。
「陛下、言えません。どうか赦してください」
できるだけ平静をたもとうとしながら言う。
「わかったよ。そこまでして私との過去を消したいのだな」
彼は激しい口調で言った。
「私にも考えがある。お前は私と結婚するんだ」
「なんですって?陛下、結婚はできません」
声がうわずる。
そんな無茶苦茶な話、受け入れられるはずがない!
「いや、結婚しなければウィリアムには二度と会えない。ウィリアムは私の部下が離れた場所に連れていった。安全な場所にだ。私の血筋の者にふさわしい教育を受けさせる。だが、君は結婚を承諾しない限り、監視つきで宮廷を去ることはできない」
皇帝はほとんど冷徹だった。従わなければ容赦しない。私の気持ちなど、微塵も気にかけないだろう。
また騙されたんだ。彼の思い通りにしなければならない。あの人たちの思い通りに。
私は諦念と悲しみの入り混じった気持ちでちょっと考えた。こういうのは初めてではない。前よりはましだ。
結婚を拒んだどころで、私に何かできるだろうか?母子共に不幸になるだけだ。
求婚を受け入れるのにはリスクがある。もし本物のイヴリンが現れたら?ウィルが皇帝の息子として権力争いに巻き込まれるなんて考えたくもない。まだ子どもなのに。
それでも、監視付きでは何もできない。この状況をなんとかするために、まず必要なのは自由と皇帝からの信用だ。
「結婚を承諾するなら、今夜そのドレスを着て夕食に来るんだ」
皇帝はそう言うと、部屋から出ていった。
呆然として、エメラルドグリーンのドレスに触れる。艶やかだ。美しくて、高価で、傲慢な肌触りだった。
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