1-16 今はまだ


冷たい夜風が、桜の木を揺らす。

背後に佇む廃病院と相反するように風に舞う花びらが、月明かりでより一層華やかに視界に映る。

辺りは真っ暗で街灯一つ見当たらないのに、今日の月はやけに明るい。


祐は病院の玄関前で立ったまま、ふと夜空を見上げる。

今日は満月だった。



「…………………」


月を。

特に満月を見ると、よくあの人を思い出す。

別に、彼と月に何か特別な関係や因果があるわけではない。

むしろ、彼との思い出はほぼ記憶になかった。


だが、ひとつだけ。

たった一つだけ鮮明に思い出せる記憶がある。


…………なんで、あんな日のことをこうも鮮明に覚えているのだろう。

あれは、ただの雑談だったはずだ。

本当にどうでもいい、ごく普通の家庭でもあるような日常会話。


あれは確か、5年前。

祐が、まだ10歳だった頃の話だ。


あの日は今日と同じ満月の夜だった。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






秋。

長野にある水無月の本拠。

古風な平家屋敷。


一人の少年と一人の男が、満月を写す庭園の池をぼんやりと眺めていた。


その庭園は、視界いっぱいに広がっていて、まるでお伽話の中にでも入ったかのような壮麗さを感じる。


儚く散っていく紅葉。

道を形作る飛石。

一刻一刻を奏でるように鳴り響く、鹿威しの音。


そんな哀愁漂う風景の中、僕は隣に座っている男の顔を見上げる。

その男は背が高く、見上げるとその背景に夜空が映る。

いつもはただ暗かっただけの夜空が、今日は満月の光で少し紺がかった黒色に見えて、とても綺麗だった。


そして、その綺麗な夜空の色とほぼ同化する様な………自分と同じ髪色のその男は、見上げた僕を見て、目を合わせる。


「うん?どうした、祐」

「父さん、今日疲れた?」

「なんでそう思う」

「それは、疲れたような顔してる気がして」


父さんは少し驚いた顔をして、自分の顔を撫でるように触る。


「そう見えたか?」

「いや………ごめん、何となく言っただけ。ずっと何も喋らないの、あれかなと思って」


すると、父さんはガハハと中年代表の様な笑い方をする。


「いっちょ前に子供が変な気をつかうな!」

「別に気を使ったわけじゃないんだけど」

「うーん、だけど、そうだな。たしかに今日は疲れた」

「疲れたんだ。仕事?」

「そう。毎日毎日くっだらない仕事が大量大量。まぁ今日はって言うより今日もだけどな」

「今日は、何で疲れたの?」



父さんは、う〜む、と少し考え込み、人差し指をピンと上に突き立てる。


「今日は、あれだな。長月家とちょっと揉めた」

「長月……って、あの、偉いおうち?」

「ああそうだ。父さんの家の方が偉いけどな!」


そう言って父さんは、またガハハと笑う。


父さんのこの笑い方は、昔からの癖だ。

そして祐は父さんの笑う姿が好きだった。

いつも楽しそうに生きている父さんが、好きだった。


「父さんの方が偉いなら、長月家に勝った?」

「うーん、勝ち負けとかじゃないんだけど、無理矢理勝ち負けを決めるんなら、負けちゃったな」


今思うと子供の浅はかな勘違いだったのだが、その言葉を聞いて、僕は血の気を引いたような気分になる。

きっと僕は父さんから見てもわかるほど、顔が青ざめていた。


「え………じゃあ、僕達もうすぐ死ぬの?」

「え?おいおい!なんでそうなる。戦争じゃないんだから、別に負けたからって死にはしないよ。あーー、というか負けっていう言葉は強引に使っただけであって実際負けではないというか……」


父さんは僕の様子を見てオロオロと戸惑っている。

それを見て僕は、安心する。

僕を心配するってことは、僕が勘違いをしていたってことだ。

誰も死んだりしない。

ならよかった。


でも、父さんは僕が安心していることに気づいていないようで、


「そうだなぁー、えーっと、詳しく説明するなら、負けたってより困ってるに近い」

「困ってる?」

「なんでも、長月の奴らが今俺達水無月の変な噂をばら撒いてるみたいなんだ。長月の当主が「目つきが悪い」ってだけの理由でうちのやつらに殴る蹴るの暴行を受けたとか」

「え、何だよそれ!あの人達、そんなことしないよ!」


あの人達というのは、水無月に仕えてくれている部下達。

そして夏越家や三伏みふく家、春雛すのひな家などを始めとした、水無月に帰属する傘下の家の人たちのことだ。


「そりゃそうさ。たしかにあいつらは外との揉め事になると意地張ってちょっと口が悪くなることがあったり、仕事上残酷なことに手を染めなきゃいけない時もあるが、理不尽な理由で他の家をけなしたりなんかしない。なんせ、俺がこの目で見て天尚から引き抜いた優秀なやつばっかりだからな。このクソみたいな噂も、どうせ長月の狂言だよ」

「………きょうげん?」


よく分からない言葉に僕は首を傾げる。

父さんは子供の自分相手でもたまに難しい言葉を使う。

大人にとっては当たり前に使う言葉なのかもしれないけど、きっと父さんはわざと自分に対してこういう言葉を使うのだ。

そうやって大人の会話や立ち振る舞いを経験として覚えさせる。

いずれ自分が水無月を背負う人間になった時、年上の部下も沢山できるだろう。

その時に舐められないようにするためだ。

たかが言葉。でもきっとそういう小さなことが教育において大切なのだろう。


「自作自演ってことだ。長月の奴ら、当主のプライドを売ってまでこっちの評判を落としに来るなんて、堕ちたもんだな」

「へえ。それで、なんで父さんは負けたの?」

「いやあ、負けたっていうか……最初はどうやって濡れ衣を脱ごうか考えてたんだけど、途中でめんどくさくなって、諦めた」

「諦めたから、負け?」

「負けってより、降参だな。まあ、負けたところでどうでもいいが。どうせただの悪あがきだ」

「………………ふーん」


気まずくて話を振って何となく仕事の話になってしまったが、正直僕は、父さんの仕事にあまり興味がなかった。


父さんは、仕事をしている姿を僕に見せない。

同じ家で働いているはずなのに、なぜかいつも父さんの姿は見えない。

かくいう自分も毎日終日まで訓練と勉強の繰り返しなので、わざわざ父さんを探したりはしないのだが。

とにかく、何をしているのか分からない父さんの仕事に関心を示すはずもなかった。


無意識につまらなそうな返事をしてしまった僕を見て、父さんは声を上げる。


「あーもう、やめやめ!仕事の話なんて仕事の時しかしたくない!違う話をしよう」

「でも、僕もうそろそろ寝なきゃ」

「え!?いや、いいだろちょっとくらい。もうちょっと話そう」

「いや………時間内に寝ないと明日の訓練が……」

「いいよ1日くらい。俺が指導担当に言っとく」

「…………父さん、本当に水無月の当主なんだよね」

「もち」

「……………何、もちって」

「うん?最近の若者はもちろんのことをもちって言わないのか?」

「……周りに若い人あんまりいないから、分かんないよ」

「あ、言ったな!それみんなに言っとこー!指導担当とー、教育係とー、あ!後この前来た帝王学の派遣の先生に……」

「いいから、話すなら、早く話そうよ」

「こういうのでいいんだよ。こういうくだらない話がいいんだ。お前だって、訓練なんかよりよっぽど面白いだろう?」

「………訓練をサボるほど面白いとは思わないけど」

「うーん、そうか。じゃあ違う話をしよう。祐、俺を呼んでくれ」

「…………え?」


突然話が変わり、訳がわからない僕は父さんを二度見する。


「俺を呼ぶんだ。いつも呼んでるみたいに」

「え………えっと、父さん」

「ほら、それ。ちょっと嫌だな」

「嫌って、何が」

「カッコ悪い。いや、カッコ悪くはないんだが、『親父』の方がかっこいい」

「なんだよそれ」

「もしお前にこだわりがないんなら親父って呼んでくれ」

「でも、母さんと前に似たような話した時、『お袋って呼ばれるのはなんかやだ』って言ってたよ」

「それは俺も同意だ。『お袋』はなんか『お袋って呼んでる俺イケてる』みたいに見えてやだ。特にその歳で言っていたら老けて見えるぞ」

「よく分かんない。お袋はダメで親父はいいの?」

「ああ。かっこいい」

「……やっぱ、分かんない」

「分かんなくていいんだよ。呼んでくれれば。母さんを呼ぶときは母さんのままでいいから。あ!「母さん」だけに「まま」ってか!」

「面白い。あと、親父はやだよ。なんか大人っぽいから」

「………無駄にスルースキルが高くなったな。母さんの入れ知恵か」

「母さんと父さんが話してるの、よく見るから」

「見て学ぶなよ。まあ、いい。それより………大人っぽいからいやだってのはどういうことだ。大人になるのは、駄目か?」

「え?………あ………………えっと」

「……………………」


祐は何かを言おうとするが、黙って下を向く。

この時の自分の感情は、正直よく分からなかった。

祐はずっと、強くなりたいと思って勉学や訓練に励んできた。

そして、祐の周りの大人は、みんな強い。

強くて、祐に霊術を教えてくれる。

それを見て祐は、大人になりたいと思った。

でも、それは大人を見せたいということではない。


たかが親の呼び方だが、今思えば「親父」という呼び方を嫌がっていたのは、大人じゃないのに必死に大人に見せようとするみたいに感じていたからかもしれない。


「…………………」


黙ったままの僕を父さんはじっと見る。

そして、優しく微笑んで、言った。


「そうだな。呼び方は、強制するもんじゃない。押し付けるような言い方をして、悪かった。だから………祐。もし、自分が大人になれたと思ったら「親父」って呼んでくれ。返事は、いらないから」

「……………」

「うん、あーーー、えっと、違う話するか!」


あまりに下手すぎる話題の転換に祐は思わず吹いてしまう。

そして、笑いを堪えるように言う。


「ご……ごめん、僕が変なこと言ったから……」

「いやいやいいって、この話、終わり!そうだなあ……」

「と……父さん、本当に僕寝ないと……」

「あ!そういえば今日ふと思ったんだが」


父さんは自分の話をまるで聞いていない。

どうも父さんはシリアスというか、気まずい雰囲気が苦手なようだった。


不器用な父を見て、祐は逆に余裕が出てくる。

とりあえず、今はこの人の話を聞こう、と思った。


「祐は、『下らない』っていう言葉を、どう思う?」

「下らない?」

「ああ、よく言うだろう?今の俺たちの会話みたいな、どうでもいいことを『下らない』って」

「いや、言葉の意味はわかるけど………」

「父さん、この『下らない』って言葉が侮蔑の意味を込めて作られたんだとしたら、この言葉を作った奴は頭が悪いと思うんだ」


祐は、侮蔑という言葉を初めて聞いたような気がしたが、感じの悪い言葉なのだろうということは察することができた。


「なんで、そう思うの」

「だって、楽しいだろう?今」

「…………」

「なんで何も言わないんだよ」

「明日の訓練のこと考えると……焦りの方が大きいっていうか……」

「じゃあもし明日訓練がなかったら?」

「それは………楽しい、かも」

「そうだろう。でも、みんなこの言葉を悪口だったり嘲笑だったり、悪〜い意味で使う。俺は、それがなんとなくいただけない」

「……ちょうしょう?」

嘲笑あざけわらうと書いて、嘲笑」

「嘲笑う?」

「そこからか」

「うーん、でも、悪い笑い方なんだね」

「そうだ」

「………………」

「人生なんて、下らなくていい。下らないほど良いんだ。じゃあなんで人はそれを否定するのか。それは、下らないものを手に入れるには、下らないものを避けなきゃいけないからだ」

「え………それって、矛盾って言うんじゃないの」

「おお、よく知ってるな。その言葉」

「うん、最近教育係の人に教えてもらった。言葉の成り立ちが面白くて」

「あー、たしかに。でも、これは矛盾じゃないぞ。下らない事の為に、下らなくないことを頑張る、それだけだ。それができない人間の人生なんて、ただの無だ」

「…………うーん、なんかよく分かんないけど、分かった」

「そういうのを矛盾と言うんだ」

「あ…………そっか。じゃあ………分からないけど、この会話は楽しいよ」

「………なんか複雑だな」


楽しい。

確かに、今僕は楽しいと思っている。

いつも訓練ばっかりで、父さんは仕事ばっかりだから、今みたいにゆっくりと話す時間はあまりないので、とても貴重だ。

こんな貴重な時間に下らない話をするのはどうかと思うが、楽しいからやめられない。


もし、下らないという言葉が悪い意味にしか当てはまらないのなら、この下らなさを楽しいと言ってしまうのは矛盾になってしまうだろう。


………………それにしても。


下らない。

下らない…………か。


………………………………。


………………………………。



「……………でも」

「うん?」

「『下らない』っていうのが……侮蔑?の意味で作った人は、頭悪くないと思う」

「お、意見が分かれた。喧嘩だな。なんでそう思う?」


父さんは拳を構えて腰を低くして左右に揺れ出す。

本当に、こんなおちゃらけた人が化け物みたいに強いと言われている水無月の当主なのだろうか。


その無邪気さに心の中だけ、笑っておく。

そして祐は言葉を続ける。


「だって父さん、さっき言ってた」

「え?なんか言ったか、俺?」

「『くっだらない仕事』って」

「!!」

「あれは、………侮蔑みたいだったよ。侮蔑が、よく分からないけど」


父さんは喧嘩腰をピタッと止め、自分を見上げる祐を優しく撫でる。


「お前は、頭がいいな」

「本当?頭いい?」

「ああ、父さんの次にな」

「え……でも、今父さん、驚いた顔してたよ!」

「ははは、演技に決まっているだろう。こんなのも見破れない様じゃまだまだだな祐!」

「え………あ、そうなのか。うーん、父さん、ほんとっぽく驚くの上手だね。全然分かんない」

「そうだろう!でも、祐。いずれ分かるよ。お前はそれぐらい頭が良くなって、強くなる」

「そう………かな」

「ああ。でもその分、『下らない』ということの尊さを忘れているだろう。だから、そんな時は俺の言葉を思い出せ」


父さんの言葉の意味が、僕には分からなかった。

でもきっと、分からなくていい。

今の言葉はきっと、未来の僕に当てた言葉だろうから。


だから、今は…………


「うーん。…………よく分かんないけど…………分かった。かもしれない」

「言い換えると?」

「…………楽しい」

「よし、それでいい」


そう言うと父さんは優しく笑い、僕の頭を撫でてくれた。




そして。


カコーンと、鹿威しの音が鳴る。

木々が揺れる音。

母さんがもうそろそろ仕舞おうと言っていた風鈴の音色。

綺麗に剪定された庭園に風流な自然の奏が響き、まるで夢のような時間に感じる。




その時は、ずっとこのままでいられると思っていた。


この笑顔は、いつまで経っても……………

………せめて、自分が大人になる頃までは、見れると思っていた。


…………そして、未だに俺は……………………






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜






祐は、月から視線を落とすと、華麗に舞う桜の花びらが視界に映る。

こうも季節が違うと言うのに、月を見ただけであの人を思い出してしまうなんて、何か未練があったのだろうか。


「…………………………」


だが、未練があるにしては、本当にどうでもいい会話。

何か特別な意味があったとは思えない。

もはや、この記憶を忘れる代わりにもっと大事なことを思い出すべきなのでは、とさえ思う。


だが、それでもあの人の顔を思い出すことができる、唯一の思い出だ。

どうでもいい会話という意味では、懐かしむにはちょうどいいくらいの、思い出。


「……………下らない、か」


あの時。

父を言い負かしたような空気になったが、実際はただ父の言葉の揚げ足を取っただけ。

下らないという言葉の『意味』ではなく、下らないという言葉を『何に対して使うのか』という論点に自然とすり替えていた。

それだけだ。


父は頭が良いと褒めてくれたけど、あの時の俺は父が言っていた事の本当の意味に全く気付けていなかった。


「……………………」


下らない事のために、生きる。


今までの俺はどうだっただろうか。

意味もなく水無月の名を背負い、ただ特訓に明け暮れていた幼少時代。

大切な友との別れを境に、世界の平和を目指そうとした、少年時代。


……………そして、去年。


「…………………………」


まさか、両親が行方不明になるだなんて、誰が予想できただろうか。

両親の行方不明事件。そして、それと同時に起きた、日天子アドウェルサの厄災。

その真相は未だ謎に包まれたままだ。


両親が自らの意思で消えたのか、何者かの陰謀なのかさえも分からない。


だが………………あの日から、俺は一体なんの為に………




 

「……………はあ、疲れるな、色々」


祐は、思い出すようにまた月を見上げる。









…………………………………。



…………………………………。





「どこいるんだよ、母さん……………



自分と、父さんと同じ髪色の。

あの日と変わらない夜空を見つめ、祐は物寂しげに呟いた。







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