禍世

 鉄の扉の向こう側。

 そこには広がっていたのは異世界であった。

 空も、地面もすべては黒と赤に塗りつぶされ、自分が辺りを見渡せばそこに広がっているのは廃墟となった街並みであった。

 既に半壊状態のスラムはほとんど変わらないが、市街地や一等地の方にある高層ビルなどの荒れ果て具合は相当なものだった。

 また、いったいどうなっているのか。

 宙に大きな岩やら壊れた建物の破片などが浮かび上がっており、それらが僕に違和感を与えてくる。

「……ずいぶんと」

 遠くから鳴り響いている落雷の音と、自分の鼻孔をくすぐる嗅いだことのない不愉快な匂いを前に僕は自分の鼻を抑える。

「いたっ!?」

「あっ……」

 結果、星歌が地面へと無様に落ちて悲鳴を上げる。

 そういえば、僕は自分の腕に星歌を抱いていたんだったね……完全にそのことを忘れて鼻を抑えに行ったせいで彼女が落ちてしまったのだ。

「い、いたた……な、何するのさっ!」

「ごめん」

 頭を押さえながら立ち上がり、こちらへの怒りの声をあらわにしてくる星歌へと僕は素直に謝罪の言葉を口にする。

「……」

「……」

「……ねぇ」

「何?」

「今更、何のつもり……っ。一度、私のことを裏切っておきながらぁ」

 ギリギリ、という歯ぎしりの音がこちらにまで聞こえてくるような、そんな表情を浮かべる星歌が僕へと言葉のほどを叩きつけてくる。

「何で僕が星歌の為に命を張る必要があるのさ」

 そんな星歌の言葉に僕は淡々と答える。

「それで逃げていたら、護衛にならないじゃない……っ!」

「それは僕が対処できるところまでだよね」

「何でよっ!?助けてくれてもいいじゃないっ!」

「別に僕は君に忠誠を誓っているわけじゃない。あくまで契約関係だ。命を懸けるほどじゃないよ」

「……っ!……こ、のっ……うぅ」

 何処までも淡々と答えていく僕を前に、星歌の口から口数がどんどんと減っていく。

「……」

「……」

「……何でぇ、そんなことを」

 そして、僅かな沈黙の果てに、星歌は泣きそうになりそうな声を上げながらこちらへと体を預けてくる。

「……」

 そんな彼女を前にして、自分の胸のうちがかき混ぜられるような、不思議な感覚を感じながら。

 僕はゆっくりと自分へと縋りついている星歌の背中に手を置こうとして……だが、その手を僕は途中で下げてしまう。

「私は、信用していたのにぃ」

 そんな僕の前で、星歌は震える声でつぶやく。

「……そう、言ってくれるのは嬉しいけどね」

 そんな星歌を前にして……何も思わないかと言われれば嘘に、なると思う。

 僕はこれまでまともに対人関係を築いたことがない人間で、たった一週間とはいえ、既にもう星歌は自分にとって最も人生で時を共にした他人だと思う。

 そんな人間に対して、何の感情も湧いてこないはずがない……あまり、自分でも、わかっていないけど。僕が星歌のことをどう思っているのかなんて。

 だけど、何の感情も持っていないなんてことは絶対にない、はずだ。

「それでも、僕は自分の命の方が大事だよ」

 ただ、けれども、僕の中での優先順位は揺らいでいない。

 星歌の為に命は懸けられない。

「……わかっている、わかっているわよぉ、私が、求めすぎなことくらいっ。私たちはあくまで契約関係に、過ぎないって……でも、でもぉ」

「……」

「……お願い。もう少し、このままにさせて。私だって、わかっているから」

「うん」

 僕は星歌の言葉に頷き、そのままゆっくりと彼女の背中の上に自分の手をのせる。

「……うぅん」

 それからしばらくして。

 長いことジッとしていた星歌が体を震わせ、そのままゆっくりと僕の方から離れていく。

「……大丈夫?」

 そんな彼女へと僕は何処か、他人事のような形で疑問の声を投げかけてしまう。

「えぇ、大丈夫よ。もう、ね。まだ会ったばかりの子に自分の命を懸けなさいという方が無理な話よね。ごめんね、心配かけちゃって」

「いや、そんなことはないから大丈夫だよ」

「ありがとうね……それで、よ」

 僕の言葉に、少しばかり儚げな様子を携えた笑みを浮かべた星歌はその後、ゆっくりとあたりを見渡し始める。

「あの、混沌とした状況だったからある程度は仕方ないとは言え、思い切ったところに逃げたわね」

「そうなの?というか、僕は割と感覚でここに逃げ込んだだけだから、ここが何処かもよくわかっていないのだけど」

「えっ……?よくわからずしてここに来たの?」

「うん」

「え、えぇ……えっとね。ここは禍世。魔たちが住む世界よ」

「ほむ……ごめん、僕ってばまるで魔について知らないんだよね。まず、空でいつも流されている教育に魔に関するものってほとんどないから」

「なるほどね……それじゃあ、魔についての説明を行った方がいいわよね?」

「そうしてくれると助かるかな」

 魔と関わることなんて僕は自分の人生でないって思っていたからね。

 そんな僕が今では魔が住んでいるらしい禍世にいるのだから、人生何があるのかはわからないね。

「えーっとね」

「うん」

「……」

「……」

「ちょっと、口で説明するの難しいわね……紙にまとめるわね」

 口で説明しようとして失敗した星歌は何もない虚空へと手を伸ばし、何もなかった場所からメモ帳とペンを取り出して魔についての説明を書き始める。

「わ、わかった」

 えっ?何処から取り出したの?それ、というツッコミをぐっと飲みこんだ僕は星歌の言葉に頷く。

「……そういえば、貴方。あいつらの前では普通に俺、とか使っていたわね。そっちの方が楽なら、それでいいわよ?」

 確かに、こちらの口調よりも普段の口調の方が自分の中で慣れているし、そっちの方が楽ではあるが……それでも、今じゃもう星歌の前だけはこっちの方がいいかな。

 なんかしっくりくる。

「そう?それならいいけど……」

「うん、大丈夫。それよりも、僕の理解力の方を心配してほしいね。ちゃんとまともに教育を受けていない僕でもわかれるような形で書いてよ?」

「理解力あるほうだから大丈夫だと思うけど……わかったわ」

 星歌はペンを走らせ、説明をしっかりと書き記していく。

「出来たわ」

 それからしばらく。

 魔についての説明を書き終えた星歌が満足げに頷き、こちらへとメモ帳を渡してくる。

「おー、ありがとう」

「わからないところがあったら教えてちょうだい」

「うん、わかった」

 僕はメモ帳を受け取って、その中身へと目を通していく。

 1.魔とは紀元前より存在する敵であり、各個体が一つの特殊能力を所有している。

 2.魔は禍世に住んでいる。

 3.魔の生態系としては生物の生命力を吸うことによって成長し、強くなっていく。

 4.魔の強さのレベルは等級によって分けられており、下から五級・四級・三級・二級・一級・王級・神級となる。

 5.魔は己が強くなるために禍世よりも多く、多種多様な生命が多くいる私たちのいる現世への強い執着をもっており、禍世から常に出ようとしている。

 6.人類はそんな魔を禍世に押し込め続けるような戦いを続けていたが、最近になって負けてしまい、地上にも魔が出てきてしまうようになった。

 7.それでも人類は魔の侵攻に抵抗し、都市などは魔の攻撃を受けないよう防備を固めている。なので、スラムとはいえ都市の中に魔が出てきたさっきの光景は異常。

 8.魔が簡単に通ることは出来ない壁が禍世と現世に存在している。

 9.魔は暴力でもって壁に穴を開けることで現世にやってくる。

 10.禍世に存在している生命は魔だけであり、魔はここで日夜、同族同士で戦い続けている。

 うーん、わかりやすいっ!

 すべてに目を通し終えた僕は魔についてある程度を理解する。

 これがすべてというわけではないが……基本的な知識はこれで補充出来たのではないだろうか。

「なんか、スラムで魔は普通に扉を通ってやってきてなかった?」

 ある程度は理解出来たうえで、浮かんできた自分の疑問を星歌へと尋ねる。

「あれって、力で開けた扱いなの?」

「いいえ、違うわ。あの扉は私たち陰陽師が壁を通り抜けるのに使うものよ。魔が現世に来るときのものじゃないわね」

「およ?」

「もしかしたら、あまり認めたくはないけど、裏切り者がいるのかもしれないわね……でも、あの扉を魔は通ることが出来ないはずなのに」

「……」

 おっと、これはちょっと面倒事に片足を突っ込んでしまっているかも……というか、これ。最悪の場合は星歌が魔を都市へと送り込んだことにされないかな?

 いや、されたとしても状況次第ではまだ全然勝てるからいいけどぉ。

「まぁ、今、考えていてもしょうがないでしょ。考えるべきはこれからじゃないかな?」

「そうね……問題は、私たちが今、禍世にいるということだものね。迂闊に、悠長なことをしていたら普通に殺されかねないわ」

「そうかも、ね?」

 魔がどれだけ強いのかをあまり理解出来ていない僕は少しばかり曖昧になりながら彼女の言葉に頷く。

「ねぇ、星歌」

「んっ?」

「何か、前も言ったような気がするけど、本格的に陰陽術について教えてくれない?僕の実力が上がっていけば自分で解決できる範囲も広がるから、星歌にも得があると思うよ」

 前にも陰陽術を教えて、と言った気がするけど、その時はまだ星歌にかけられている封印が強固でまともに術を使えない時期だったこともあって、ほとんど何も行わずに流れてしまったのだ。

 別にそこまで本気での発言でもなかったからその時の僕は特に気にもしていなかったけど、今になってその必要性が出てきたように思う。

 こんな物騒なところにいるのだし。

「確かにそうね、私もある程度はもう使えるようになっているし……いいかもしれないわね。それじゃあ、教えていこうかしら」

「うん、お願い」

「それじゃあ、もう早速やっていくわ。禍世にいたら住居探しとか言えるような状況じゃないし、やることもない……何よりも致命的なことに私は今、現世に戻るための術が使えないからね」

「えっ……?」

「申夜が現世に戻るための陰陽術を使えるようになってもらわないと一生ここで暮らすことになるし」

「えっ!?」

「んっ?どうかしたかしら?」

「いや……」

 待って、帰れないの?

 それは聞いていない。

 何処か遠くから聞こえてくる荒々しい雷の音に、魔たちの悍ましい叫び声を聞きながら、僕は驚愕と共に呆然とするのだった。

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