状況
自分たちの足取りを完全に掴めないようにするため、スラムを彷徨い歩くこと一週間ほど。
僕と星歌は最初に自分たちがいたところからかなり遠くの位置にまでやってきていた。
「……うぅ」
ただ、その間に星歌の顔つきはどんどんと悪くなっていき、体調が悪化しているように見えた。
「大丈夫?」
外的要因とは関係なく死なれると僕はもうどうしようもない……何とか復活してしないかなぁ、と思いながら今。地面にへたり込んで座っている星歌の方へと声をかける。
「……大丈夫よ。ただ、気持ち的に辛くてね……知識として、このスラムがあるということは知っていたのよ。でも、ここまでとは知らなかったから」
「んっ」
「……少し、現実が冷たいのよ」
「……そっか」
僕にとっては見慣れた光景だ。
道に転がる死体も。
夢も、希望もなく薬を吸って意識を飛ばして屍のようになっている奴も。
食がなく栄養失調でこれ以上ないほどにガリガリになっている餓鬼も。
この死体の腐敗臭と何処からか香ってくる薬の匂いが混ざり合った醜悪な匂いも……こここそが、これこそがスラムなのだ。
「……未来、ある。これからだって言う赤ん坊が……あんな、あんな形で死んでしまうなんて」
星歌が言及していること。
それはついさっき見かけたゴロツキどもたちに足蹴りされてこと切れている赤ん坊のことだろう。
「あの子は、これから多くの人の優しさに支えられながら……成長していく、はずだったのに」
星歌の語る光景だった別に見る光景だ。
赤ん坊が殺されるなど、別にない話じゃない。
「そうかな?」
そして、それを見て僕はその赤ん坊の未来が潰されたとは特に思わない。
「……えっ?」
「このスラムで生まれた人間に将来的な希望なんてほとんどないよ。別に戯れで殺されていなくとも、どうせ野垂れ死んでいたさ。赤ん坊ならなおさら。乳を与える存在もまともにいやしないのだから」
このスラムで赤ん坊から大きくなった者などほとんどいないだろう。
「……っごく」
「まぁ、そもそもとしてここに新生児がいること自体稀なんだけどね」
不貞の子を捨てたか、それとも攫われた女が産んだか。
どういう経緯でまともに女もいないスラムで赤ん坊が迷い込んだのは知らないが、それでもその理由がまともであるはずもなく、それと同様にそんな子がまともな人生を歩めないのも決まり切っている。
「赤ん坊だけが例外じゃない。ここにいる人間は他人の優しさなんて生涯の一度たりとも受けずに死ぬ奴らがほとんどで、他人とのつながりなんてなく、一人勝手に野垂れ死ぬ奴らがほとんどなのさ」
「……そんなことは」
「別にそんなことあるさ。僕だって誰かから優しさを受けた記憶ないしな」
物心ついたときから自分の手ですべてを勝ち取ってきた僕の記憶に他人から助けられた記憶も、優しくされた記憶もない。
スラムのゴロツキたちも、自分を正義と思い込んで優越感を覚えたいだけの傲慢無知な連中も、そのすべてが僕の味方ではない。
「このスラムで生きるというのはそういうことだよ。下手な希望なんて描くものじゃない。これが、上の繁栄の下にあるものだよ」
「……」
僕が語るのは素直な気持ちであり、自分がここについて思っていることそのものだ。
本当にここはそういう場所なのだ。
別に、不必要に星歌を脅かせたいわけでもない。
ただ、それでもこの世の絶望でも知ったかのような表情を浮かべている星歌を見れば、それが僕の思惑と外れたインパクトを彼女に与えたことがわかるだろう。
思わず、口にしちゃったけど、迂闊だったよね。
ただでさえ、既に気持ち悪そうなのに更に、彼女を脅かす必要はなかった。
「まぁ、スラムの話はこれで終わりにしようよ。そもそもとして、もう既に一週間はここら一帯を歩いているんだし、既に元の目標であった足取りを消すってのは成功していると思うよ」
「……そう、ね」
僕の言葉に星歌は白い表情で、震えた声でうなづく。
「よし」
もう限界そうだが……それでも、頷いてくれた星歌に満足した僕はそのまますぐに移動しようと動き始める。
「ほら、行くよ」
そして、星歌の男と変装したことでずいぶんと大きくなったその体を強引に引っ張りながら進みだそうとする。
「待って」
だけど、そんなタイミングで急に星歌が僕に逆らってその場で足を止める。
「あそこの……あそこにいる人を、ちょっと助けてきていいかしら?」
そして、そんな星歌はゆっくりと一つの方を手で指し示しながら僕へと己の願いを告げる。
「……」
そこにいたのは一人の男。
一生懸命頑張って割れてしまっている水瓶を直そうとしている男だった。
「助けるって……一体何をするつもりなの?」
「私の持っている道具を使えば、あれくらいならすぐに直せるわよ」
「……その、道具も僅かに陰陽術の痕跡を残すんでしょう?なら、やるべきじゃないよ。ここの連中に優しさを分け与えたって無駄だよ。ここらの連中は僕を含め、優しさを感じた人間なんていやしない。当然、優しさを受けての返し方だってわからないよ」
時折、教育を垂れ流しにしている飛行船から聞こえてくる人々の道徳に関するあれこれ。
助け合いなさいなんていう教え。
そんなものはこのスラムに根付いていない。
星歌に今、助けられても相手は何も思わないだろうし、むしろ、逆に金目の盗まれるかするだけ。
なればこそ、星歌の行動は無駄だ……無駄で、なくてはならない。
「そんなの、わからないじゃない」
だからこその僕の言葉に対して、星歌は少しばかり声を震わせながら気丈に告げる。
その声に重なっているのは自分の知らない世界に対する吐き気と恐怖。そして、それでも確かに見せている優しさの心であった。
本当に、ずいぶんと甘いことで。
「僕は生まれた時よりここにいるんだよ?だから、わかる。無駄だよ。ここは、優しさなんてもので溶かせるほど柔なところじゃない」
何か、何かもやもやする。
自分の前にいる星歌、その彼女が話す言葉に。
一体、自分で自分が何に対してイラついているのかわからないが、それでも何か否定しなくてはいけない。
そんな思いに駆られて僕は口を開く。
「確かに、無駄かもしれないわね」
「なら……」
「それでも、この一つの優しさでそれを受けて人の人生が変わって、それでその人が私と同じように誰かを助けたら……それが鼠算式に増えていったらきっと、世界は変わると思わない?」
……。
…………。
「あまり、そうは思えないけどね。ただの、綺麗ごとにしか思えない」
そんなことで変わるなら、何で最初からそれをしなかったの?
「きれいごとだってのはわかっているわ。でも、行動しなきゃ何も変わらないわ。いつだって、世界を変えるのは理想を信じて動き出したものよ」
「……」
自分の目の前で、キラキラとした瞳を携えながら告げる星歌の言葉に僕は口を閉ざす。
確かに、確かにその通りだ。
でも、つい最近までスラムになんて足を踏み入れず、少しここの雰囲気に当てられただけで気持ち悪くなっていた人が一体何を……。
「あげるわ、これ」
「はむっ!?」
何てことを考えていた僕の口元へと何かを星歌が投げ込んでくる。
「んっ、おいし」
口元に入ってきた何かわからぬ食べ物。
それは噛むとぐにゃりとする嫌な触感だったが、噛めば口の中に甘みが広がっていく。
「貴方にだって、私は優しさを向けてあげるわ」
「んっ?」
「優しさを受けたことがない、っていうあなたにも私は優しさをうんと上げて見せるわよ」
「……」
「ふふっ。今はもう複雑そうな顔をしているけど……ねっ?」
「……別に、僕は君のおっぱいを揉むだけで十分だけど」
そんな優しさなんていう目に見えないものよりも、おっぱいという目に見えるものの方がいい。
「……まぁ、今はそれでいいわよ。それで、お願い。私に彼を助けさせてほしいの」
随分と切実な様子で僕へと懇願の言葉を口にする星歌を前に。
「……はぁー」
僕は深々とため息を吐く。
「……いや、僕がやるよ。水瓶を直したりであれば、僕の方が慣れているからね。陰陽術なんて使わなくとも直せるよ」
そして、星歌を押しのけて一歩、前に出る。
ここまで粘っている相手を前に、抵抗していても上手くいくわけがないだろう。
ここは僕が折れるべき場面だと思う。星歌の腹のうちはもう決まってしまっているだろう。
別に、そこまで大した労力でもないだろうからね……むしろ、何で僕がこんなにもあいつを助けようとしているのを止めようとしていたのか疑問なほどだ。
あれくらいならすぐに終わる。さっさと終わらせてしまおう。
何故か、まだ残っている星歌に対するもやもや。それを感じなかったことにする僕は迷いなく水瓶を直そうとし、それでも失敗し続けている男の方へと近づいていくのだった。
結局、自分に助けられた男はこちらへの感謝の気持ちを告げた後、いそいそと治った水瓶を抱えていそいそと半壊している家へと戻っていった。
……。
…………何なのだ。
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