「ふんふんふーん」

 自分の家から目的地まではそこまで遠くはない。

 俺はスラムの街並みを見ながら、軽くジョギングして向かっていく。

「邪魔するぜ」

 スラムにある家々なんてほとんどが半壊状態だ。

 ここに来るまでのそんなスラムの道中で唯一、まだ天井と壁が完全に揃って家と呼べるような代物の中へと俺は入っていく。

「……っ!?」

 その中にいたのは二人の男。

 一人は線が細くて髪が腰にかかるまで長く、何処か不気味な気配を持った男。

 そして、もう一人は顔面に大きな切り傷のあるスキンヘッドで強面、それでいて背丈も2mを超える巨漢の上に筋肉ダルマという実に大柄な男だ。

「よぉ、久しぶりだなぁ」

 こちらへと振り返ってくると共に驚愕の表情を浮かべる二人へと俺は軽く手を上げる。

「てめぇっ……何で、ここにいやがる?」

 そのうちの一人、強面の方が俺への隠しきれない恐怖を感じさせる声色で口を開く。

「い、今更……俺に何の用だ?」

 この強面の男こそが俺と喧嘩をした末、無様に敗北して己の家を奪われたここら一帯のボスたる男である。

 そんな男はまだ、僕と戦った時のトラウマが残っているのか、体を震わせながら、ただそれでもこちらへと敵意を見せて凄んでくる。

「何、今日は喧嘩しに来たわけじゃねぇ。家を帰しに来たんだ」

「……ぁ?」

 僕の言葉に男は理解できないとばかりに疑問の声をあげる。

「ちょっと女のおっぱいを揉むためにここを離れることにしてな。もうあそこはいらなくなったんだよ」

「どういうことだ……?」

「契約したんだよ。俺が女の身を守る代わりに、それを成し遂げた暁には女の胸を揉めるっていうな」

「なるほどなぁ」

 男はその表情に理解できないとばかりの感情をありありと浮かべながら頷く……いや、何がわからないんだ?一体何処か理解できなくてそんな表情を?

「別に、女なぁ」

「うるせぇ」

 俺が首を傾げている間にも、強面の男の隣で言葉を告げようとしたロン毛ガリ。

 その言葉を強面の男が腹へと肘内することで強引に止めてしまう。

 いや、いきなりぶっそうだなぁ……こいつらは何か、唐突に暴力行為に及び出すからヤバいんだよなぁ。今はしていないようだが、普段はここで薬とかも作っているからな。

 星歌を近づけていい場所じゃない……まぁ、スラムで女が居着いていい場所なんて教会くらいしかないが。

「お前さんがわざわざ返してくれるならこっちとしては万々歳だ」

「明日の夜までにはいなくなっているだろうから、あとはご自由に……あぁ、だが、あそこで薬を作るなよ?あそこに変なにおいがつくのは嫌だ。俺が帰ってくることもあるだろうしな」

 星歌との旅で自分じゃどうにもならないような事態になる可能性だってあろうだろうしなっ!

 そん時には遠慮なくあいつを捨てて、こっちの方に戻ってくるつもりだ。

 戻ってきたときにはちゃんと家を返してもらわないと。

「帰ってくんなっ!?」

「帰ってきたときに俺から三倍ボコボコにされたくはないだろう?」

「クソがぁ」

「へっ。俺の暴君ぶりを忘れたとは言わせねぇぜ?」

「……ったく。従ってやらぁ。別にお前へとかしずこうとも誰も俺を舐めはしねぇだろうからよぉ」

 かつて、俺が物心ついたばかりの頃。

 スラムにいる大量のゴロツキ並びに、ここら一帯のボスとして幅を利かせていたこの男まで。その悉くをフルボッコにして回って、家や水瓶など、必要なものを集めていた時期があった。

 その頃に、ここら一帯の人間が覚えたことは俺がやべぇってことであり、それ以来。俺の手でボコボコにされた奴がいてもそいつの名誉は傷付かないっていう不文律が出来たのだ。

 この不文律のおがげで無様に俺の前で地べたを這ったこの強面の男も未だにここら一帯のボスをやれているのである。

「それでこそ弱者だ」

「クソがっ」

 強面の男はこちらを睨みつけ、歯ぎしりながら捨て台詞を吐くが、それ以上は何もしてこない。

「んじゃぁな」

 俺はそんな男の様子に満足し、悠然とした足取りでこの場を後にする。

 一応、よくわからんペグは貰ったが、それでも完全に安全とも言えないだろうよ。出来るだけ早く帰った方がいいだろう。

「……ぁ?」

 周りの影響が出ないよう、軽くジョギングしながら自分の家に帰ろうとしたところ、何か上空の方から鋭い視線と共に、こちらの背筋を殺意を感じて俺は足を止める。

「おっと」

 そして、それは正しかった。

 俺の上空から一筋の閃光のように一人の人間が突っ込んでくる。

「ぶっねぇな、おい」

 上空から高低差による位置エネルギーまで利用してこちらへと突進してきた一人の人間、今度は和服をその身に着こなしていた男を俺は後方へと一歩で大きく下がることにより、回避する。

「はぁぁっ!」

 和服の男は俺のいない地に着地すると共にここの地面に大きくヒビを入れ、ここら一帯に僅かな揺れを生じさせる。

 そんな男はそれだけの勢いで地面に突撃しながらも、その姿勢は一斉崩しておらず、すぐさま後方へと下がっていた俺に向かって手刀を構えながら突っ込んでくる。

「あぶねぇ」

 俺は自分の方へと向けられた手刀を掴み、そのまま流れるように攻撃の態勢へと移っていた和服の男のもう片方の腕もガッチリと掴んでやる。

「何者だっ?お前」

 相手の動きを完全に止めてやった俺はその態勢のまま、何とか逃れようとする和服の男へと疑問の声を投げかける。

「お前に語ることなど、ない」

「そうか。間抜け野郎」

 自分の疑問に対して何も告げない和服の男を俺は容赦なく侮蔑の言葉で呼ぶ。

「……壱と呼べ」

 それが嫌だったのか、すっごい表情を歪める和服の男は簡潔に自分の呼称を口にする。

「はっはっは!そうか、そうか。ならばそう呼んでやろう。語ることはないと告げた壱さんよぉ」

「ちっ」

「けけけ……んでぇ?隠しきれないその殺意。星歌の野郎を殺しに来た奴だなぁ?」

「当然だ。あの女は実の母を殺した裏切り者だからな」

 ペラペラ喋るじゃねぇか。

 存外、動かしやすい。

「あの女は裏切られた、と言っていたか?」

「で、あろうな……だが、私は明菜様の命によって動くのみ」

「んだぁ?」

 実母を殺すような女に全幅の信頼を寄せるとかどんな奴だぁ?こいつは。

「ふんっ」

 俺があっさりと星歌の裏切りが嘘であると認めた壱を前に困惑していた時、自分の腹へといきなり強い衝撃が走り、思わず彼を掴んでいた手を放してしまう。

「……っ?!」

 おそらくは壱が何かを、……何の予備動作もない陰陽術を発動させたか何かをしたのだろう。

 完全に不意打ちを受けた俺ではあるが、所詮ダメージとしてはびっくりする程度で大した問題はない。

 俺はすぐさま自分の態勢を立て直し、己へと再び手刀を放とうとしてくる壱へと向き直る。

「まぁ、殺すか」

 ずいぶんと相手の動きは遅い。

 俺は一切迷うことなく自分の足を持ち上げて、横に振り抜く。

「あぁぁぁっ!?」

 それで狙うは自分へと向けられる手刀を伴った壱の腕だ。

 壱の腕は俺の横蹴りを受けて大きくひしゃげ、そのまま彼は大きな悲鳴を上げて態勢を大きく崩す。

「ほぁら」

 戦いの中で、相手の前で態勢を崩すことほど無様なことはない。

 俺は一切の容赦なく足を持ち上げて壱の腹へと叩きつけてやる。

「ごほっ」

 俺の蹴りを受けて地面から数メートルほど持ち上がった壱はそのまま地面へと降りると共に体を崩れさせ、その口から血を大量に吐きだす。

「げっほ、げほっ」

 殺す、つもりで蹴ったのだが……まだ生きているのか。

 ならば、だ。

「おい」

 有効活用してやろうじゃないか。

 俺は地べたを這いずっている壱の髪を掴んで持ち上げ、その痛みで歪んで苦しそうな彼の表情へと視線を送る。

「その……誰だっけか?あぁ、そうだ。お前の言っていた明菜だ。それについて語れ」

「こ、断る……っ!」

 俺の要求に対し、壱は気丈な表情で否定の言葉をこちらへと吐き捨ててくる。

「これに答えればお前を生かしてやるよ。ほら、答えろよ」

「ほざけっ……誰がそんな言葉で聞くか?」

 命を助けてやる。

 それを告げてもなお、壱はこちらへと反感を見せてくる。

「あっ?」

 こんなところで己の命を費やしてどうするんだ?こいつは。

「命が助かるんだぞ?大人しく喋っておくのが身のためだ。変な強がりな要らん」

 自分の命より何か別のものを上に置く?まるで理解……否、そんな人間がいるわけないだろう。

 壱が強がっているだけだと切り捨てた俺はそのまま彼を更に問い詰めていく。

「……は、はは!お前には理解できないだろうよぉっ!」

 そんな俺の前で、ペラペラと壱は気丈に話し始める。

「こんな何もないスラムで生まれたお前に何か、自分の命を懸けていいと思うようなものなんて出来やしないさっ!私は知っているのさ、自分を震わす感動という奴を。己の人生を変えてしまうような奴をな」

「……」

「私はお前のような空っぽで、何もないやつとは違うんだよ。私には、自分という存在を、自分の生を輝かせてくれる大切なものがあるんだっ!お前とは違う……さぁ、俺を殺すといい。空っぽでみすぼらしい強者よ」

「そうか……ならば、死ね」

 自分の前で壊れたように笑う壱の髪を掴んでいた手を首にまでずらし、そのままゆっくりと締め上げる。

「私は笑いながら死に、それを殺すおま───」

 最後の時はすぐに来た。

 俺の手が壱の首をひねりつぶす。

「……クソが」

 目の前の、壱は確実に雑魚であった。

 そして、死に際であってもよくわからなぬ言葉をのうのうと言い放ち続けていた。

 だが、そうであっても何かに駆り立てられるかのように、己から沸き立っている謎の感覚が理解出来ない俺は捨てぜりを吐きながら、星歌の待つ自分の家へと今度こそ帰るのだった。

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