第二章

第7話 あの日の出来事

 まるで悪夢のような日だった。


 あれは中学一年生の時だった。その日は体育祭があって、僕はその運営委員会に有志として参加していた。まだ一年生ということと男子ということもあって、やることは基本的に力仕事だったけれど。


 それで、僕は皆んなが帰った後もテントや飾り付けの後片付けに追われていた。もうだいぶ日も暮れ始めていて、ちょっとの気怠さと面倒くささを感じながら、ずっと「早く終わらないかなあ」などと考えながら作業をしていた。自分から有志したくせに、我ながら勝手な奴だなと思ったもんだ。


「た、但木くん……ちょっといいかな?」


 そんなときに、背後から僕の名前を呼ぶ女子の声が聞こえた。その声はとても澄んでいて、透明感があって、そして鈴の音のような、そんな心地の良い声だった。


「はい、なんでしょう、か……!?」


 振り返って声の主――鈴の音の声を持った女子を見て驚いた。いや、見惚れてしまった。呼吸をするのも忘れてしまうくらいに。


 その女子はとても可愛く、美しく、子供と大人の雰囲気が入り混じった、不思議な魅力に溢れる女子だった。夕日が彼女の艷やかな黒髪を金色に輝かせ、それが余計に彼女の幻想的なまでの美しさを引き立たせている。


 まるで、夕日が彼女を演出するために存在しているかのように。


「あ、あのね、但木くん、ちょっとお時間もらってもいい、かな……」


 顔を紅潮させ、恥ずかしげにそう言った彼女。声が若干震えていて、緊張しているのが伝わってきた。僕もこんなに可愛いく美しい女子と言葉を交わすのは初めての経験で、同じように緊張せざるを得ず。思春期真っ只中の当時の僕にとって、むしろ緊張するなと言う方が難しかった。


 その緊張のあまり、僕は「う、うん」としか言葉を返すことができず、歩き出した彼女の背中を見ながら黙ってついていく。たまに僕を確認するように後ろを振り返るたび、夕日に照らされた彼女の横顔はいっそう魅力的に映り、僕の瞳を釘付けにする。彼女の容姿はまさに奇跡だった。


 彼女は歩みを止め、くるりとこちらを向いた。そこは校舎の裏側で、全く人気のない静かな場所。聞こえるのは虫の鳴き声だけ。


「と、突然でごめんなさい」


「い、いや、とんでもないでござる……」


 緊張しすぎて武士みたいな返事をしてしまった。ござるってなんだよ。


「じ、じ、実はね、私……あの……但木くんのことが……」


 夕日に照らされ、彼女はより幻想的に、神秘的に、僕の目に映し出される。そして顔をいっそう紅潮させながら、恥ずかしいのか少し俯き加減で、僕に話を切り出した。鈍い僕でも確信した。これは愛の告白に違いないと。


「ぼ、僕のことが……な、なんでござろう」


 もうほんとなんなんだよ! 緊張しすぎると人間って武士みたいに喋るのがデフォルトだったっけ? そんなわけがないじゃん! そんな奴がいたら色んな意味で希少種だろ! と、今なら冷静に思えるけど、そのときの僕にはそんな心の余裕はなかった。頭の中ではこれから僕は告白されて、そしてお付き合いをして、デートをして、幸せな学園生活を送ることになるんだ。そんな妄想で、僕の頭の中はいっぱいになっていた。希望、夢、期待、喜び。様々な感情が僕の中で混じり合う。


 そして、彼女は言葉にする。勇気を絞り出すように。ありったけの気持ちを言葉に乗せるように。真っ直ぐ僕の心に届かせようとするように。


「に、入学式のときにお見かけしてから、ずっと、ずっと、但木くんのことが好きでした! 一目惚れでした! 私と、お、お付き合いしてくれませんか!」


 生まれて初めて、僕は女の子に告白された。嬉しい。しかも一目惚れだったなんて、喜ぶなと言う方が無理がある。ついに、僕にも恋人ができるんだ。しかもこんなにも美しい女の子が、僕に好きだと言ってくれた。胸に秘めた想いを伝えてくれた。しかも真っ直ぐに、僕の心に届くように。


 だから僕も、その気持をしっかりと受け止め、そして告白の返事をしなければならない。臆病になんかなっていられない。


 僕の名前は但木勇気。その名に恥じぬよう、勇気を出すんだ。心の中でそう呟き、自分を奮い立たせた。彼女は僕の返事を待っているんだ。


 今度は、僕が勇気を出す番だ。


「こ、こちらこそ! よろしくお願いします!」


 気弱な僕だけれど、自分でも驚くくらいに大きく声を張り上げた。そして深々と頭を下げ、彼女の反応を待つ。


 だけれど、彼女からの反応はいつまで経っても返ってこなかった。不思議に思うと同時に、僕は人の気配を感じた。一人じゃない、これは恐らく複数人。何か嫌な予感がして、僕は頭を上げてぐるりを見渡した。


 嫌な予感は、的中してしまった。


「あはは! バッカじゃねえーの、但木。お前なんかに告白するような奴がいるわけないじゃん。なのに本気で返事してるし。しかもなんだよ、ござるって。超ウケるんですけど。お前、武士かよ。まあ笑わせてもらったわ」


 声で分かった。いつも僕を馬鹿にしてくる同じクラスの女子だ。どこかに隠れてずっと僕の様子を見ていたようだ。しかも、その取り巻きの数人と一緒に。


 僕は咄嗟に、告白をしてくれた女の子を見やる。とても申し訳なさそうな、今にも泣き出しそうな、そんな悲痛な表情を浮かべていた。


凜花りんかー、罰ゲームお疲れ。もういいぜ、さっさと帰ろう。あー、面白かった。だから言っただろ? こいつ単純だからすぐに騙されるって」


 それを聞いて、取り巻きの女子達も大笑いを始めた。とても美しい女の子――凜花さんはずっと顔を曇らせたまま俯いていた。


「ごめん、なさい……」


 凜花さんは憂いがいっぱいに詰まった声で、僕に謝る。罰ゲーム。凜花さんはコイツらに罰ゲームをやらされていたんだ。


 凜花さんの表情と声から感じる、強い罪悪感。まるで、彼女の心の中の悲鳴が聞こえてくるようだった。


 そして凜花さんはクラスの奴らに連れられて僕から遠ざかっていく。でも、そのときに凜花さんは振り返って僕を見た。さっきまでの凜花さんとはまるで別人のように、その美しい瞳は完全に光を失っていた。


 あのときの凜花さんの寂しげな後ろ姿は、今でも忘れられない。


 この出来事以来なんだ、僕は女性恐怖症になってしまったのは――。


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「うわああーーーー!!!!」


 叫び声を上げ、起き上がる。僕はベッドの上にいた。夢だったのか……。しかもここまで鮮明な夢を見るだなんて。というか、悪夢のような出来事と言ったけれど本当に悪夢じゃないか! 寝汗が半端じゃないんですけど。


 あ、これ駄目なやつだ。


 僕はもう恒例の儀式の如く、枕に何度も何度も頭を打ち付けた。もう嫌だ……なんで朝からこんな思いをしなきゃならないんだよ。


「ねえ、お母さん。お兄ちゃんまた変なことしてるよ?」


「本当にどうしちゃったんだろうね。全く理由を話そうとしてくれないし」


「もしかして趣味なんじゃない? 頭打ち付けるのが」


 部屋のドアの隙間から聞こえてくる、妹と母さんの話し声。ひそひそ話してるつもりだろうけど全部丸聞こえだっていうの! 特に妹よ、頭を打ち付けるのが趣味とか、そんなわけないだろ! そんなマゾみたいな趣味を持ってる変態体質の人間がいると思うなよ!


 ――え? 時計を見てビックリ。ヤバい、もうこんな時間だったなんて。学校に遅刻してしまう。僕は素早く寝巻きを脱ぎ捨てて制服に着替え始めた。せっかくここまで無遅刻無欠席だったんだ、遅刻だけは絶対にしないぞ!

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