第5話 繰り返しの法則
「合わせ鏡」
や、
「マトリョシカ人形」
のようなものが、
「どんどんと小さくなっていく」
という、
「限りなくゼロに近い」
ということで、
「無限」
という発想があるということを、前章で話をしたのだが、それだけのことではないようだった。
最近、考えることとして、前述の、
「加算法」
と
「減算法」
というものが、その発想になってくるのであるが、最初の章では、
「将棋と囲碁」
の発想で見てきた。
しかし、これを、もし、
「犯罪であったり、殺人トリックというものとを組み合わせたら、どうなるだろうか?」
ということも考えたりするのだ。
それが、
「交換殺人を中心とした。種々のトリックといえるのだ」
元々、
「交換殺人」
というのは、殺人トリックではなく、
「殺人のシチュエーション」
ということである。
だから、
「何かのトリックと組み合わせないと、成立しない」
ということを考える人がいるかも知れない。
ただ、交換殺人というのは、普通に考えて、
「犯行というものをカモフラージュするトリックなどというものは、なくてもいい」
といえるであろう。
というもは、そもそも、心理的な部分以外では、理論的には、
「完全犯罪」
なのである。
なぜかというと、
「一番怪しまれるであろう犯人には、
「完璧なアリバイ」
というものを作るからである。
そして、実行犯は、
「被害者と、まったく接点のない人間なのだから、疑われることもない」
ということである。
疑われるはずの人間に、完璧なアリバイがあり、実行犯は、どこからも、捜査線上に浮かんでこないからである。
ただ、これも、
「理論上」
ということであり、なぜなら、実際に被害者が殺される場面が、防犯カメラや、今であれば、ドライブレコーダーに映っていないとも限らないのだ。
実際に、今であれば、
「犯行が不可能だ」
と呼ばれるものは結構ある、
「アリバイトリック」
「死体損壊トリック」
などがそれであり、
「アリバイトリック」
というのは、今書いたような、
「防犯カメラ」
「ドライブレコーダー」
などが、証拠となって立ちふさがるからである。
また、死体損壊トリックにしても、いくら死体を傷つけていたとしても、被害者に心当たりがあれば、
「DNA鑑定を使って、ハッキリさせることもできる」
というものであった。
だから、
「科学や医学の発展が、今の時代の完全犯罪と、限りなくゼロに近づけているのかも知れない」
ただ、この発想も、前述のように、
「無限性のあるもの」
であり、しかも、
「絶対にゼロにはならない」
というものであるのだ。
それを考えると、
無限であったり、
「限りなくゼロに近づく」
という発想も、
「犯罪にも結び付いてくる」
ということになる。
さらに、
「限りなくゼロに近い」
という発想は。もう一つの仮説を作り上げることができる。
それはどういうことなのかというと、
「限りなあくゼロに近い」
ということは、
「ゼロを否定している」
ということでもあり、限りなく近いというだけで、ゼロと誤認してしまうところで、どこかに結界のようなもおのがあることで、それが、
「二つを隔てているのかも知れない」
といえるだろう。
そういう意味で、
「真ん中に媒体があることで、結界のようなものがある」
と考えると、それは、鏡という発想が生まれてくる。
そう、鏡というと、
「合わせ鏡」
がまさにそうではないか。
しかも、この話で、
「合わせ鏡」
というのは、その発想が当然のようみ結びついてくる。
それは、まるで、
「一周回って戻ってきた」
ということであり、その発想が、他のことにも言えるもかも知れない。
それを考えると、
鏡というのは、何か恐ろしさを感じさせる」
ということである。
昔から童話などに出てくる鏡としては、
「魔女のおばあさん」
というのが、鏡の精に向かって、
「この世で、一番美しいのは誰?」
と聞いて、本来であれば、自分でなければいけないのに、鏡が正直なのかいじわるなのか、他の女性を名指しした。
しかし。それは、嫉妬と妬みを生むもので、その人は、
「命の危険に晒される」
ということになるのだ。
命の危険に晒されるということは、ひょっとすると、
「鏡の精」
というものが、本当は、
「その女性に恨みがあったのかも知れない」
そもそも鏡の精というのが、
「その鏡の中だけに宿っているとは限らないのではないだろうか」
というのは、
「女性に対して恨みがあるというのは、よく分かる。女性の方が鏡を見る可能性は高いのであり、鏡の精が、男であれば、相手の女性に恋をするということだってあるのではないだろうか?」
それを考えると、
「私たちは、鏡の精なんかに恋はしないわよ。どんなに格好よくても、表に出てくることってないでしょう?」
ということであった。
もし、それを言われたとすれば、鏡の精が、女性不振に陥って、特にきれいなあ女性であれば、恨みに思って。
「心にもないこと」
を口走ったとしても、無理もないことであろう。
だから、その名指しされた女性を、鏡の精は好きになって、告白したにも関わらず、手厳しくはねつけられたのだとすれば、恨みに思うというのも、当然のことなのかも知れない。 それを考えると、
「鏡の精」
といっても、人間であれば、
「聖人君子」
ということもないだろう。
つまりは、鏡の精というものがいかに。考えるかということで、そのお話の中での、
「正義が悪」
に、あるいは、
「悪が正義にもなる」
というものである。
それが一人の人間の中に共存しているのであれば、
「ジキル博士とハイド氏」
というような、
「二重人格」
いや、
「多重人格性」
というものを醸し出すのであろうが、この場合であれば、
「二重人格」
というものに、限定してもいいだろう。
それが、
「性格による、双極性」
といってもいいのではないだろうか?
「双極性」
というものがどのようなものかというと、
「ちょうど、波のようになったカーブのその両端にあるようなもの」
といってもいいだろう、
そして、それが、いわゆる、
「バイオリズムのバーブ」
と似ているのだろう。
バイオリズムというと、確か3本の線のようなもおのが、少しずつずれていて、それが重なる時というのは、
「あまりいいことがないといわれる時」
ではなかっただろうか?
さらに、これはアニメの世界での空想物語なのかも知れないが、
「ワープというものがあって、それが、波になって、蛇行しているものを、
「蛇行した道を通る」
のではなく、
「点から点に飛び移る」
というもので、
「時空を飛び越える」
というものだということであった。
それを考えると、
「時空の歪みであったり、時空の繰り返しなどという発想は、まんざらありえないものだ」
とは言えないものであろう。
そんな、カーブを描く時、プラスとマイナスで、最大限に行ける場所というのは、実際にはなく、逆にいえば、
「このカーブは無限に続くものだ」
と考えれば、
「絶えず変わらない」
といってもいいだろう。
それこそ、
「人間の呼吸は止まってしまえば、その瞬間に息絶えてしまう」
ということと同じことになるであろう。
凍級が止まって死んでしまうのは、人間だけではない。動物だって、植物だって呼吸をするのだ。
ただ、植物の場合は、
「光合成」
もするので、
「プラスマイナスゼロ」
といってもいいかも知れない。
何しろ、
「光合成というものは、二酸化炭素を吸って、酸素を吐き出すものだ」
ということだからである。
結局。
「呼吸と光合成で、プラマイゼロだ」
といえるのではないだろうか?
そんな光合成をする植物が、吸い込むものと吐き出すもの。例えば酸素を取れば、同じ量なのだろうか?
正直、よくは分からない。
だが、なるべくなら。
「吐き出す方が多い方がいい」
と思うのは、呼吸で、酸素を吸い込むからであろうか。
それを考えると、
「曲線カーブのグラフにおける、上限と下限の直線は、やはり、プラマイゼロになるとすると、最後には同じところにおさまることになる」
といえるのではないだろうか。
そんなカーブは、やはり、規則正しく静かな営みがないと、呼吸の音のように、
「ドクンドクン」
と脈を打っているのを感じると、どうしても、血しぶきを見ているようにい思うのは、心臓の鼓動が、
「手術室を思わせる」
というのが、何かの恐怖を醸し出しているようだった。
また、
「双極性」
ということばを聞くと、
「双極性障害」
ということを思い出す人も少なくないだろう。
特に最近は、精神疾患を患っている人が多く。その精神疾患の多くが、
「双極性障害」
というものであることは、否定できない。
いわゆる、ちょっと前であれば、
「躁鬱症」
と言われていたものだった。
それが、どういう理由で、そう呼ばれるようになったのか分からないが、
「双極性障害」
という病気は、その特性からか、
「うつ状態の時と同じだと思うと大間違いである」
ということだ。
双極性障害のうつ状態は、完全な病気であり、絶えず薬を飲んでおかないと、どんどんひどくなっていくというものだ。
双極性障害には、1型と2型があり、
「躁状態の大きさによって、型が違う」
というのが、
「双極性障害」
というものである。
要するに、
「うつ病」
と呼ばれるものは、広義の意味ということで、
「病気の場合もあるが、それ以外の場合もある」
ということで、それは、
「病気以外の何か他の原因があり、その原因は、パワハラであったり、セクハラなどと理由はあまり違わないとしても、その積み重ねが、精神疾患という形で、病気認定される場合もあるが、それ以外に、それらの原因だけで直接うつ状態になったものは、病的症状という言葉で表せるのではないだろうか?」
それを思うと、
「本当に、病気というものが、原因からだけで、結果に結びつくものではない」
ということで、中には、うつ状態が原因で精神疾患となる」
ということになり、精神疾患が、今度は脳に障害を与えるものとなることで、
「脳の病気」
と言われる、
「双極性障害」
というものになるのではないだろうか?
医者ではないので詳しいことは分からないが、少なくとも双極性障害というのは、
「脳の病気」
ということなので、あくまでも、
「薬を投与していなければ、症状が悪化する」
と言われている。
だから、双極性障害というのは、普通の、
「うつ病」
と違い、最初から、躁状態というのは、付きまとっているもので、いわゆる、
「表裏の関係にある」
といってもいい。
うつ状態から抜けると、一定期間の、うつ状態と、躁状態が共存しているといってもいい、
「混合状態」
と呼ばれる時期があるのだった。
実は、この頃が、
「一番危ない」
と言われる時期であった。
それはどういうことかというと、まずは、まわりから、
「治ったのではないか?」
と誤認されることであった。
本人は、分かっているのだろうが、まわりの人は、そうは思わない。何しろ、
「大鬱状態」
と言われるような、人を近づけないほどの、うつ状態であった人が、少しでも、その状態を脱すれば、相当、明るくなったかのように錯覚するだろう。
しかも、大鬱状態から、混同状態となり、さらに、躁状態へと変わっていくのだから、
「双極性障害」
というものを、
「脳の病気だ」
という認識がない人が、
「もう治ったんじゃないか?」
とかんがえたりするのだった。
しかし、実際には、この
「双極性障害」
というものを、うつの状態の時だけ見て、
「ああ、これはうつ病ですね」
と医者が簡単に判断を下すという、
「誤診」
というものが、医者の間でもあっているという、それだけこの
「双極性障害」
という病気はややこしいものだといえるのではないだろうか。
実際に双極性障害というものを、
「医者でも誤診するくらい」
と言われているのに、誰が、素人にそんな大それた判断ができるというものか。
これらのことは、実に難しい発想ということであり、
「病気を甘く見ると、大変なことになりかねない」
といえるだろう。
また、躁状態への入り口で、
「危ない」
と言われることの一つとして、実はこの時期というのが、
「一番自殺したくなる衝動に駆られる」
ということであった。
本人も、まわりに言われてからなのか、独自の判断によるものなのか、躁状態に入ると、自分の中で勝手に、
「治った」
と思い込む人も多いという。
いくら医者に、
「自分で判断しないで、薬は飲み続けてください」
と言われていたとしても、本人は、どうしても、今までの世間の目の冷たさなどを味わってきたので、その理不尽さゆえに、
「治ったのなら、健常者としてふるまってもいいのではないか?」
ということで、ただでさえ、きつい副作用のある薬を、
「気持ち悪かったり、苦い思いをして飲まなければいけないのか?」
と考えると、
「治ったのなら、飲みたくない」
というのは当たり前であり、その薬の中で、精神状態を安定させるものがあったとして、薬をやめることで、いかに、抑えてきたモノを吐き出すことになるかということで、考え方が、どんどん悪い方に向かうということで、
「うつ病が激しくなった」
という状態から、
「自殺願望」
というものが、膨れ上がってくるというのも当たり前だといってもいいだろう。
「双極性障害」
というものだけに限らず、
「精神疾患」
というものを知らない人は、一番危ないといってもいいだろう。
確かに、双極性障害というものだけに限らず、世間一般の人は、
「精神疾患にもいろいろある」
ということを知らずに、
「十把ひとからげ」
という状態であるかのように、すべてを、
「精神疾患」
という言葉で片付けようとする。
「その方が楽だ」
ということからなのかも知れないが。
考えてみれば、それは、
「精神疾患になったことがない」
ということから、楽な方がいいと考えるからだろう。
実際に、精神疾患というものがどれほどの種類があり、それを一つ一つ、精神内科の先生が、
「患者の数だけ病気の種類がある」
という形で、個別に対応しているのだから、
「それは大変なことだ」
ということになるだろう。
しかも、昔、小学校の中に、
「特殊学級」
と呼ばれるような、
「障害者を集めた人を一つのクラスに入れる」
ということをしていたのだが、健常者の家族の中には、その特殊学級というクラスを、そう呼ばずに、放送禁止用語としての、
「肉体的特徴」
をとらえて口にしていたほど、差別的な発言をしていた時代があり、それこそ、
「あからさまな差別問題だった」
といえるだろう。
そんな時代において、
「自分の子供にも、精神病が伝染したら困る」
とでもいいたいのか、
「あんなクラスの近くによったり、あのクラスの人と話をすることも許しません」
といって、子供を恫喝し、それで自分の子供を守っているつもりでいても、まったくそんなことはなく、ただ、
「障害者というものに、言葉の迫害を浴びせているだけだ」
ということになるのである。
実際には。
「精神疾患」
というものが、人に伝染するという話を聞いたことはない。
「遺伝というものは、しょうがない」
ということなのかも知れないが、少なくとも、
「空気感染」
であったり、
「飛沫感染」
というような、ひどいものはないといってもいいだろう。
これはあくまでも、
「菌やウイルス」
と言った、
「パンデミックに繋がる」
というものであった。
だが、
「勉強もしないくせに、頭から、精神疾患を精神病という言葉で、人に移りかねないという病気だ」
と思っている以上、
「特殊学級」
というものを、まるで、伝染病における、
「隔離施設のようなものだ」
ということで、
「サナトリウム」
を思わせることになるだろう。
サナトリウムというと、昔でいうところの、
「結核病棟」
のことである。
戦前までの、
「ストレプトマイシン」
のような特効薬ができるまでは、
「不治の病だった」
と言われる時代があり、
「サナトリウムが必要だった」
ということなのだろうが、今の時代は、もちろん、その進行度にもよるのだが、
「手術をしなくても、投薬だけで治る」
と言われた時代があったりしたのだ。
それを考えると、
サナトリウムというのは、
「今の人がどういう意識で見ているのか分からない」
ということであるが、
「伝染病なのだから、それも当たり前のことだ」
といってもいいだろう。
だから、当時のサナトリウムというのは、
「不治の病」
として苦しんでいる人を、さらに隔離するということで、
「これほど理不尽なこともないだろう」
といえるに違いない。
そうなると、
「サナトリウムというものの存在」
というのは、どうしても、疾患のある人間でも、伝染性のあるものであれば、
「罹った人は罪悪だ」
というレッテルを貼られかねないといえるであろう。
結核病棟としてのサナトリウムというのは、どうも暗いイメージしかない。
そんな結核病棟も、
「結核が不治の病ではない」
ということになると、
「サナトリウムの存在意義」
というものなくなってくるだろう。
中には、相当数のサナトリウムが取り壊されることになるだろうが、何といっても、
「助からない人」
というものを、
「他の人に伝染しないため」
ということで作った施設なのだから、金をかけているはずもない。
実に、
「人間というのは、むごいものだ」
といえるだろう。
「同じ人種なのに、なんてことを?」
と思うだろうが、
「だったら、人種が違えばいいということか?」
ということで、それこそ、ナチスドイツが行った、
「ホロコースト」
なるものであれば、
「世界から、囂々たる非難を受ける」
ということになるだろう。
だが、それよりも昔は、いや、今も燻っているのだろうが、
「色が黒い」
というだけで差別対象になったり、奴隷として扱われていた時代があったことと、どう違うというのか。
「ナチスだけを批判」
というのが、本当に正しいことなのか?
それを考えると、結局は、
「勝てば官軍」」
ということである。
だから、人間というのは、
「人種」
であったり、
「肌の色」
というもので差別するというのは、
「それぞれに理由とすべき大義名分のようなものがあるから、主張できるのであって、
「結核患者に対しての差別」
というのは、人種が同じだからこそ、
「却って近づけることができない」
という発想に結び付けていいものなのだろうか?
そんなことを考えてみると、
「結核病棟」
というものが、どんどんなくなってくることで、そもそも、そのサナトリウムというものは、一種の、
「負の遺産」
ということで、資料館などとして、文科省によって、保存されているところもあるかも知れない。
政府がかかわらなくても、ひょっとすると、民間に買い下げられ、そこを資料館のようにして、
「サナトリウムというものの実態」
を、保存しているのかも知れない。
そもそも、
「世界文化遺産」
というものに、世界的な、
「負の遺産」
というものが残っているところもある。
「空襲が襲って、廃墟になった村」
であったり。その極めつけが、広島の、
「原爆ドーム」
ではないだろうか?
未来に対して、過去の恐ろしい教訓として、それらを遺産として残す。それによって、世界平和に貢献できるのであれば、
「負の遺産」
としての、保護を最大目的とする形での、
「世界遺産登録」
ということになったのだろう。
「世界遺産」
というものは、そういう負の遺産というものもあって、こちらは特に、
「未来への教訓」
として、保存を目的とすることが、大切だということになるだろう。
「人類で、一番忘れてはいけない」
ということが、一番、保存を必要とする。
それこそが、
「世界遺産」
というものの、
「意義の一つ」
といえるだろう。
では、
「サナトリウム」
というのは、どうなのだろう?
伝染病であり、不治の病であった結核を、他の市民から守るということでは、必要なものだったといえるだろう。
そうなると、今も残っている、
「不治の病」
と呼ばれるもので、たぶん、伝染病というものは、今は、そこまでひどくはない。
今から、数十年くらい前に、言われるようになった
「不治の病」
として。
「HIV感染」
いわゆる、
「エイズと呼ばれるものがあった。
出てきた時は、その致死率の高さには、驚愕たるものがあったが、それ以上に、エイズに関しては、
「潜伏期間の長さ」
というものに、驚愕を通り越して、恐怖が感じられたのだ。
というのは、このウイルスの潜伏期間は、
「5~10年」
と言われているのだ。
しかも、感染経路としては、
「血液感染」
「体液感染」
ということで、
「ゴムをつけない性行為」
であったり、
「注射針の遣いまわし」
などによる感染が大きかったのだ。
最近は、エイズは、
「不治の病ではない」
と言われる。
これは。感染しても、
「健常者とほとんど同じ生活ができる」
ということで、完全治癒というわけではないので、ウイル氏が消えるわけではないが、少なくとも、
「不治の病ではない」
ということだ。
ということになると、エイズというのは、
「限りなくゼロに近い」
という状態に持っていけるということになるのである。
要するに時代というものは、いろいろな問題点であったり、注目点というものが、循環することで、まるで、
「わらしべ状態」
という。
昔の桜井市の長谷寺が、発祥だという、
「わらしべ長者」
というお話になぞらえるような、最後には、幸せになるということであるが、戻ってくるという発想もあっていいのではないだろうか?
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