第4話 限りなくゼロに近い

「限りなくゼロに近い」

 というものを考えた時、それが、

「無限」

 というものと、対称だといってもいいのではないだろうか?

 例えば、

「合わせ鏡」

 や、

「マトリョシカ人形」

 などが、その、

「最たる例だ」

 といってもいいだろう。

 昔の特撮番組のタイトルに、

「無限へのパスポート」

 というものがあった。

 まだまだ子供だったので、タイトルの意味など分かるわけもない、しかし、

「何か印象深いタイトルだな」

 ということで、タイトルだけでも、その話の内容が分かるような気がしてくるのも不思議なことだった。

 無限へのパスポートということは、無限というものが、どこか他にあって、その世界に入るための、

「交通手形」

 のようなものだということだ。

 それは目に見えるのではなく、まったく見えないものをいかに見えるかのように感じるという、一種の錯視といえるのではないだろうか?

「錯視」

 と呼ばれるもので、一番ピンとくるものとしては、

「サッチャー錯視」

 というものであろうか、

 この現象は、

「上下を反転させた倒立顔において、局所的特徴の変化の検出が困難になる現象である」

 と言われている。

 要するに、

「上下逆さ」

 というところが、錯視の原因なのだろうが、考えてみれば、前述の鏡に映る姿を考えた時、

「上下は、どうして反転しないのだ?」

 ということがあったが、まさにその通りであった。

 これは、いろいろな理由が提唱されているが、これも、

「帯に短したすきに長し」

 ということで、決定的な結論はないのである。

 考えてみれば、

「左右が反転するのに、上下が反転しないのは、当たり前じゃないか?」

 と思っていた。

「何をそんなに慌てているんだ?」

 というくらいに不思議な感覚になるのだった。

 確かに、

「左右が反転する」

 というのは、

「こちらを向いているのだから、左右がそれぞれ一番近くに映っている方が、映っている」

 という意味で。

「こちらを向いているのだから」

 という理由で正解なのだ。

 もっといえば、

「鏡に映る現象が間違っているわけではなく、反転しているという考えが間違っているのではないか?」

 ということが、そもそも間違いなのではないか?

 ということである。

 だが、上下が反転していないのは、

「実際に映っていることも、映っているということに間違いがない」

 ということも、どちらも満たしているからではないだろうか?

 物事には、二つの段階があり、その両方が満たされなければ、ほとんどのものは、

「疑わしいもの」

 ということになるだろう。

 しかも、その、

「疑わしいもの」

 というのは、かなりの数を占めているのである。

 だから、曖昧なものが多すぎるので、都市伝説と普通の伝説の境目もなくなってきて。本来であれば、

「曖昧なもの」

 ということだけで済ませられるものも、結局は、

「都市伝説だ」

 というところまで考えなければいけないのではないだろうか?

 それを考えると、

「都市伝説と言われそうなものがどれほどあるだろうか?」

「限りなくゼロに近い」

 といってもいい、

「無限」

 という発想も、実際には、

「曖昧なもの」

 というだけで、その考えがどこまで信憑性があるものなのかということになる。

 そういう意味で、

「曖昧なもの」

 と、

「都市伝説」

 というものは似ているといわれるのだろうが、実は、双極的なものだといえるのではないだろうか?

 それは、ゼロから見た時、まったく同じ距離で、

「折りたたんでしまえば、同じ位置になる」

 ということになるのであろう。

 折りたたんだ畳み方による」

 ということであるが、それは、

「絶対に、その箇所が存在する」

 ということの裏返しでもあるのだ。

 つまり、

「曖昧なもの」

 を、そのまま、

「都市伝説だ」

 と考えるのは、本当に浅はかな考えであろうか?

「都市伝説というものを、冒涜しているのではないだろうか?」

 と考えるが、その根拠というべき、

「曖昧さ」

 というものには、失礼はないのである。

 これは、

「曖昧さ」

 というものが、

「人間が何かできるレベルのものではない」

 ということになるのであろう。

 もし、そのレベルであれば、

「都市伝説」

 と、

「曖昧さ」

 というのは、二つに分かれることなどなかったのだ。

 一つのものが、たくさん細胞分裂することで、成長し、次第に大きくなっていくものが、

「菌」

 というものであり。

「単細胞なので、分裂ができないことで、自分が生きていくために、

「変異を繰り返す」

 という、

「ウイルス」

 というものの存在として、

「いわゆる伝染病には種類があるわけで、どっちがどっちということもない」

 伝染病が流行った時に初めて、

「菌というのは、細胞分裂を繰り返すもので、ウイスるは、変異を繰り返すものだ」

 ということを思い知らされるのである。

 特に、数年前から、世界で大流行している、

「世界的なパンデミック」

 というものを引き起こした。あのウイルスである。

 陰謀論が、かなり、プンプンと世間を賑わしているが、それは、

「ワクチン接種」

 の時に、特に言われるようになったのだ。

 とにかく、最初から、

「曰く付き」

 だったワクチンである。

 伝染病が流行ってから、一年で

「某国の製薬会社が作ったワクチン」

 だったのだが、

「本当に大丈夫なのか?」

 ということが、世間で言われるようになった。

 しかも、のワクチン接種を、国は、

「なるべくたくさんの人に打ってもらおう」

 ということで、

「何かあったら、国が保証する」

 といって、打たせたのだ。

 その結果、亡くなった人がいたのだが、遺族が、

「保障を」

 といって、国にいったのだが、国は、

「因果関係が認められない」

 ということで、保障を突っぱねたという。

「お前たち政府が、保障するとかいうから、しょうがないので打ってやったんじゃないか」

 と、言いたいところを、必死にこらえたのだ。

 だが、それを政府は知ってか知らずか。実際に、

「保障する」

 と言った言葉をそっくりひっくり返したのだ。

 そんなものを見せられて。

「これじゃあ、政府のいうことなど誰が聞くか」

 ということになる。

 それはそうだろう。

 遺族だって、

「保障をもらったって、本人、つまり、死んだ人間が帰ってくるわけではないんだ」

 ということである。

 ただ、政府に少しでも誠意があるのであれば、何も文句を言ったりはしない。

 そう、

「できないなら、するなんて言わなければいいんだ」

 ということであり、

「これじゃあ、完全な詐欺ではないか?」

 ということである。

「詐欺というものが、どこまで詐欺といってもいいのかということであろうが、余りあるくらいの詐欺行為に、当事者だけではなく、世間が騒ぎ出すと、実際に何も言われていない、ワクチンの効用まで、騒がれるようになる」

 ということである。

「詐欺というものが、いかにひどいものなのか?」

 ということであるが、実際に見えていること以上に、叫ばれているということになるのではないだろうか?

 それが、

「国家ぐるみ」

 というか、

「国家そのものが行っている」

 ということで、どうしようもないことだということであろう。

 政府の、そんな露骨な態度をみてしまうと、

「パンデミックに対しては、政府は一切機能しないし、さらに、露骨に保身に走る」

 ということが分かった。

 要するに、

「自分の命は自分で守る」

 ということを考えないといけないということであろうか?

 これが戦争などになると、もっとひどいことになる。

 これは、わが国のことではないが、他の国で戦争が起こった時、その国が、さらに第三国から攻め込まれたその時、市民を守るべき軍部が、

「勝ち目がない」

 と思うとさっさと、対岸に逃げ去ってしまい、しかも、まだ、向こうには、逃げ遅れた市民がたくさんいるにも関わらず、平気で橋を落としてしまう軍がいたりした。

 さらには、別の国の場合であるが、

「攻め込まれたら、敗走を繰り返し、どんどん、相手を奥地に誘い込む」

 というような作戦を取っていたのだが、その軍が、駐留していた村では、当然、

「自国の軍」

 ということで、相当なもてなしを行っていたようだが、攻め込まれてしまいそうになると、さっさとその村を見捨てて、奥地に逃げてしまうのだ。

 しかも、それだけなら、まだいいというのか、

「逃げる際に、その村を焼き払う」

 というのだ。

 それは、

「攻めてくる相手軍に、村をそのままにしておけば、結局、攻め込んできた軍のものとなってしまい、相手に、戦利品をただで与えてしまうことになる」

 というわけである。

 確かにそうなので、この作戦が、決して悪いというわけではないのだろうが、やはり、

「自分たちの保身のために、守るべき自国民を苦しめた」

 ということである。

 何といっても、自分たちが、進駐した時は、歓喜で迎えられたはずで、もとなしだって受けたではないか。

 ただ、このもてなしも、村人の打算の中にあったのかも知れない。

 しかし。それも、村人からすれば無理もないこと、

「自分たちを守ってくれるであろう兵隊さんを飢えさせるわけにはいかない」

 というわけであり、

「彼らを助けるのは、俺たちの役目だ」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えていたのだから、やはり、村を自分たちの手で焼却するのは、それらの事情を含めたところでも、理不尽でしかないだろう。

 ただ、

「これも、戦争だ」

 といってしまうとそれまでであり、特に敗走を続けるようになると、

「なりふり構わない」

 というところがあるのだ。

 これが、逆の立場で、攻め込む方であれば、どうであろう?

 いくら国際法であったり、陸戦協定のようなものが存在しても。結局は、

「有事として、戦場になってしまうと、もうどうすることもできない」

 ということになるのであろう。

 戦争をするのが、

「軍」

 というものであるのだが、そもそもの軍というのは、

「守備軍」

 だったのではないか。

「専制君主国の軍」

 という場合などは、国家元首、例えば国王などが、隣国に戦争に攻め込むような戦闘を起こせば、侵略軍ということになるのだろうが、それも一概にはいえない。

 これは、日本においての、

「群雄割拠の戦国時代」

 というのはまさにそれで、

「侵略と防戦の時代だった」

 といってもいいだろう。

 この時代においては、攻め込まれると、逃げる時に、前日の国の軍と同じように、駐留していた村を焼き払ったりもしたかも知れない。 

 何しろ、攻め込んだ方は、自分たちの欲を満たすために、そこにあるものを、

「戦利品」

 としてせしめるということも、普通にあるのだ。

 土地によっては、四方を、有力大名に取り囲まれている小大名もいる。

「力の均衡を保つ」

 というこで、攻め込まれるということをまわりの国は躊躇っていたという場合もあっただろう。

 というのは、

「そこを攻め滅ぼして、占領し、自国に統合してしまったりすると、国土は確かに広くはなるが、敵対している国と、国境を接する」

 ということになる。

 だから、今の時代でも、

「核開発を進めていて、核実験やミサイルのテストを繰り返しているその国を、世界の警察を自認する国が、攻め込まないのはそれと同じであった。

 その国が亡くなってしまうと、その奥にある、今の、

「敵対する超大国」

 と国境を接してしまうということは、どちらの超大国も、好ましくないことであった。

 それを思うと、

「今の我が国において、どのように対応すればいいのか、とにかく、泳がしておくしかないのだろうか?」

 というのが、

「世界の警察」

 というものをかつて自認していた国家の対応であった。

 昔から、世界のどこかで戦争をしていて、戦のない時代など存在しなかった。

 といってもいいだろう。

 日本においても、江戸時代の、

「天下泰平」

 の時代においても、

 ところどことで、

「島原の乱」

 であったり、

「大塩平八郎の乱」

 などと、未遂に終わったものもあったが、まったくないというわけではなかった。

 そういう意味では。

「赤穂浪士」

 の話も、問題と言えば、問題だっただろう。

 平和な時代であったが、それだけではなかったのではないだろうか? 

「幕藩政治」

 ということで、各地を納める藩を、幕府が押さえつけているというのが、幕藩政治である、江戸幕府だったのだ。

 江戸時代が、それまでの

「鎖国政策」

 というものが、アメリカによる、

「砲艦外交」

 というもので、無理矢理開国させられてしまい、それによって、各藩が、幕府の弱腰に愛想をつかしたといってもいいだろう。

 それは、

「朝廷が、かなりの攘夷論者であったということも言えるだろう」

 つまり、ほとんどの藩が、

「外人が嫌い」

 ということであった。

 それも仕方のないことで、最初から、

「外国と付き合うな」

 と幕府がいっていて、鎖国政策をとったのではないか。

 鎖国政策をとった理由としては、大きく二つあるだろう。

 一つは、

「キリスト教の弾圧」

 ということであった。

 歴史を知らないか、あるいは、中途半端にしか知らない人は、

「宗教の自由」

 というものを弾圧している」

 ということをいうのだろうが、そもそも、

「宗教の自由」

 という考え方は、今の民主主義だからいえることで、他の国家体制であれば、そんな自由などないところだってたくさんある。

 特に国家が進める宗教画あれば、

「それ以外の宗教活動を禁止する」

 という国だって、たくさんあるだろう。

 大航海時代と言われる時代に、日本にも、

「キリスト教」

 と、

「鉄砲」

 というものが、普通に入ってきた。

 実際に、それら二つは、それぞれに、日本人に大きな影響を与えた。

 特に鉄砲などは、その威力に、当時の戦国武将は、取りつかれるようになったいたのであった。

 その頃のアジアの国々がどうなったのか?

 ということを考えると、

「キリスト教弾圧」

 というのも、決して無理もないことだったのだ。

 というのは、その頃が、

「大航海時代」

 と言われるのに対して、もう一つ言われていることがある。

 というのは、

「植民地時代」

 というものであった。

 ヨーロッパの国々は、アジアや、アフリカなどの、当時としては、

「未開の地」

 というところに侵略行為を繰り返したのだ。

 その常套手段として、

「まず、キリスト教の宣教師を送り込んで、そこで、布教活動というものを行うようになる。もちろん、相手国の許可を得てであるが、キリスト教の布教というものが、植民地計画にかかわっているとは、侵略される方の国は、夢にも思わなかったであろう」

 ということだ。

「宣教師は、不況を続けながら、一種の、諜報活動も一緒に行っている」

 ということで、

「国家が諜報活動によって混乱すると、相手国の軍は、待ってましたとばかりに、宣教師保護を名目に、攻め込んできた、あっという間に占領してしまう」

 ということである。

 別に、宣教師が諜報活動をすることもなく、占領するなど、簡単なことであっただろう。アジアの旧式な兵器で、ヨーロッパの最新鋭の兵器に敵うわけがない。

 しかし、それを露骨にやってしまうと、

「あからさまな侵略」

 ということになるのだ。

 それはさすがに、許されることではない。

 だから、諜報活動によって、国家をカオスにすることで、攻め込んだ国が、治安を維持するということで、侵略してしまうということが、平気で行われたのが、この時代だったのだ。

 ちなみに、日本も同じことをして、満州事変を起こしたが、結果、国連に、

「満州国建国」

 というものを否定されてしまった。

 ひょっとすると、このやり方は、

「満州事変の時代には、すでに、古臭い方法だった」

 ということなのかも知れない。

 それを思うと、

「時代は、しっかり動いている」

 ということと、

「取り残されると、痛い目にあう」

 ということでもあるのだ。

 鎖国で、2つの理由があったといったが、一つは。そんな侵略をしてくる

「外国の、先遣部隊ともいえる宣教師の侵入を許さない」

 ということになるのだろうが、

 それはあくまでも結果論といってもいいだろう。

 というのも、そもそも、キリスト教というのは、

「人間はみな平等」

 などと言い出して、キリスト教の信者は、幕府のやり方に逆らうようになるのだから、幕府とすれば、

「目の上のたんこぶ」

 といってもいいだろう。

 それを思うと、宣教師が迫害されるのは当たり前のことで、実際に、秀吉の時代も、長崎で、

「二十六聖人事件」

 というのが起こり、宣教師が磔にされるという事件だったのだが、そこから、キリスト教の弾圧が始まったといってもいいだろう。

 そもそも、当時の権力者が、キリスト教の保護をしたのは、

「鎖国の二番目にあること」

 と似たところがある。

 それは、

「キリスト教の布教を許せば、宣教師の国と、貿易ができる」

 というメリットを考えたからである。

「キリスト教の布教」

 というデメリットと、

「貿易による利益」

 というメリットを考えた時、

「これら双極性のものが、できればメリットに近くなるか?」

 ということが、一番の大きな問題であった。

 これこそ、

「メリットとデメリットの間の、メリットが、無限に続くものである」

 という考えに立つと、

「限りなくゼロに近い」

 ということを考えた、

「合わせ鏡」

 であったり、

「マトリョシカ人形」

 のように、最後まで行っても、決してゼロにならない。

 もっといえば、

「ゼロにならない」

 というわけではなく、ゼロに近づくということが、

「いかに無限であるか?」

 ということを証明しているともいえるだろう。

 これは、もう一ついえば、

「交わることのない平行線」

 という考えと同じなのではないだろうか?

「交わらないということと、ゼロにならない」

 ということを同じだとすれば、平行線は、

「その距離が近づくことはないから、ゼロになるわけはない」

 ということであり、合わせ鏡などは、

「普通に小さくなっているが、無限であるがゆえに、ゼロになることはない」

 という意味で、同じことだといえるのであろう。

 そんなことを考えていると、

「マトリョシカ人形」

 で考えると分かりやすいかも知れないなと考えるのであった。

 ただ、この鎖国に宣教師に対しての、

「メリットとデメリットのバランス」

 というのは、

「交わることのない平行線」

 というものに近い気がする。

 だからこそ、その方針を決めるのは、藩主であり、それぞれの藩で足並みが揃わないと、幕藩政治が成り立たなくなってくる。

 特に

「二代将軍秀忠」

 さらには、

「三代将軍家光」

 の時代というのは、

「幕藩政治の基礎を作る」

 という意味で、元々、豊臣恩顧の大名の取りつぶしを目指し、最終的には、三河恩顧の、本多正純であったり、家光に至っては、自分の弟でもある、

「徳川忠長」

 まで改易させ。さらには、切腹までさせているのである。

 そこまでの、急速な改易というのは、

「幕府には逆らえない」

 ということを示しているのであり。そんな状態において。

「幕府に隠れて貿易をしよう」

 というのは、かなりのリスクがあるというものだ。

 しかも、幕府からすれば、

「宣教師を受け入れているということは、キリスト教の布教だけではなく貿易で利益を上げようとしているのかも知れない」

 と考える。

 そうなると、

「金を儲けて、幕府を倒そう」

 ともくろんでいるとすれば、

「憂慮に耐えない」

 ということで、

「キリスト教の布教」

 と、

「貿易で利益」

 というのを、藩主は、

「メリットとデメリット」

 と考えていたが、幕府側は、

「幕府にとって、デメリットでしかない」

 と考えているのだ。

 ということは、幕府がとる対策としては、

「鎖国を行い、宣教師を締め出し、キリスト教の布教を大々的に取り締まり、その一方で、貿易を幕府が独占する」

 という、一石二鳥を狙ったのである。

 だから、幕府が貿易を行う国は、基本的にオランダ一国である。

 もっとも、一部で、清国であったり、琉球であったりと、

「すべてがオランダだけ」

 ということもなかったのである。

 ただ、このような鎖国制度は、結果として、

「日本の植民地化」

 ということにならないようになっていて、

「結果として、

「伝染病の流行りを、水際対策で、だいぶ抑えられたのかも知れない」

 といえるだろうか。

 ただ、それでも、長崎の出島からだけでも、かなりが入ってきていて、流行り出すとあっという間だった。

 ということであり、

「考えてみると、鎖国政策というのは、本当に間違っていなかった」

 といってもいいのではないだろうか?

 学校教育などでは、

「鎖国政策」

 というのは、きっと、

「悪いことだ」

 ということになっているだろう。

 何といっても、その鎖国が始まった時代くらいに起こったのが、

「島原の乱」

 だったのだ。

「キリスト教を信仰する、天草四郎時貞を中心とした連中が、ちょうど、領主に搾取される農民の怒りによる、一気というものに、便乗したことから始まり。結局最後は、全員が皆殺しにあった」

 ということで、ほとんどの日本人は、

「判官びいき」

 ということで、

「島原の乱」

 は、

「幕府側がひどい」

 ということになった。

 また、こちらも、そんなに年代が離れているわけではないが、いわゆる。

「赤穂浪士」

 の、

「忠臣蔵」

 という事件である。

 こちらも、武士同士の争いであり、本来なら、

「喧嘩両成敗」

 のはずなのに、浅野家だけが取りつぶされ、吉良家には、お咎めがなかった。

 ということであった。

 さすがに、赤穂浅野家の家臣たちは、怒りに満ちて、

「吉良家に討ち入る」

 ということになったのだ。

 当然のことながら、

「浪士たちは、処刑」

 ということになるのだろうが、このあたりも、幕府のやり方に不満が募る原因であっただろう。

 そういう意味で、鎖国政策というのは、

「キリスト教を締め出す」

 ということだけではなく、

「民主制」

 というものを、入ってこなくさせたということでの成果もあっただろう。

 もっとも、

「民主革命」

 というものは、

「幕府の鎖国政策」

 というものよりも、もっと後になったから起こったことなので、

「偶然の産物」

 ということであろう。

「伝染病の蔓延」

 というのも、実際にはあったが、

「鎖国をしていなければ、もっともっと悲惨なことになったに違いない」

 ということである。

 何しろ教科書に、

「コレラなどの蔓延について、書かれていないのだから、そこまでひどくはなかったということであろう。悲惨なことになっているとすれば、教科書に載らないということはないはずだからだ」

 ということであろう。

 そんな時代における世の中というものは、

「鎖国政策」

 のように、今まで、

「悪いといわれてきたことであっても、それなりに、功を奏していることだってあるのではないか?」

 と考えられてもいいだろう。

 それをこれからどう考えるかと思えば、

「メリットとデメリットのバランスをしっかりと把握することが大切だ」

 という、

「実に当たり前だ」

 と考えられることによるのではないだろうか?


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