命のない体

数田朗

命のない体

 生きているとはどういう状態なのだろう。

 心臓が脈打って、肺が酸素を取り込んで、脳が活動して、そうすれば生きているといえるのであれば、俺は生きているのだろう。だけれど、俺はずっと家に引きこもって、家族含め誰とも何も会話しない日も多い。そんな俺は、果たして生きているといえるのだろうか。

 社会性、と言う言葉が脳をぎる。人間が社会的な動物なのだとして、社会的であることが人間の条件なのだとしたら、俺はそれを満たしていない。人間として生きていないといえるだろう。

 俺は、生きながら死んでいるゾンビみたいなものだ。

 昔映画で見たゾンビの姿を思い出す。誰かの首筋に噛みついて、その人間も同じ存在に変えてしまう、そんなゾンビ。俺が誰かに噛み付いても、首の皮を食い破ることもできないだろう。それどころか、自室に篭りきりの俺は誰にも噛み付くこともできない。他人の姿など、もうしばらく目にさえしていなかった。

 俺が他人を確認するのは、SNSの大騒ぎの中だけ。

 両親は共働きなので、平日の昼間、家には俺一人しかいない。犬のように鼻を動かして自分の腋を確認すると、濁った汚水のようなにおいがした。俺は顔をしかめ、今日は久しぶりに風呂に入ろうと思う。

 湯船に湯を貯めるのも面倒だったのでそれもせず、脱衣所で服を脱ぐ。以前にも増して太ってきた。毎日運動もせず部屋の前に親が置く飯を食べるばかりなのだから、当たり前だ。目の下に隈のある自分の顔を、口を少し開けてぼんやり見つめていると、脱ぎ捨てたスウェットのポケットから音楽が鳴った。中に入っているスマートフォンの着信音だった。

 何の電話だろうと思う。ここ数年、この電話が鳴った記憶はない。

 ポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認する。そこには、中学時代の同級生の名前が表示されていた。

 俺は素っ裸でその名前をじっと見つめる。

 なぜ? どうして? 俺に電話を?

 コールは長く続いた。俺はどうしていいか分からず名前をじっと見つめ続ける。

 ずっとそうしていると、観念したように電話は切れ、画面は真っ暗になった。画面に、俺の冴えない顔が映っている。

 俺はシャワーを浴びる気もすっかり萎えてしまっていたが、一度脱いだ服がなんだかとても汚く思え着直す気もせず、しょうがなく風呂場に入ってシャワーを自分の体に流した。

 ――あっという間に夜。

 ベッドに寝転がってツイッターの画面をスクロールしていると、再びあの音楽が鳴り響いた。発信相手はまた同じ同級生だった。

 結局、俺は電話に出た。

 なぜだろう。

 ただ、話し相手が欲しかったのかもしれない。

「……もしもし」

「あ、やっと出た。良かった」

 相手はなんとなく、切羽詰まるような声をしていた。

「お願いがあるんだ、助けて欲しい」

 呼び出されたのは、駅の近くの二十四時間営業のファミレスだった。

 俺は、数年ぶりに外に出た。俺が出かけると言うと、母親は驚いた顔をした。いってらっしゃい、そう言う顔はどことなく嬉しそうで、どことなく心配そうだった。俺がなぜ二十三時過ぎに外に出るのか、聞きたいけど聞けないという顔だった。もし聞かれても、俺自身もうまく説明できないに違いなかったので、結局聞かれなかったのはありがたかった。十月というのは、どういう寒さだったのか俺はすっかり忘れてしまって、ユニクロのダウンを選んで着てしまった。歩いているうちに、ダウンの内側に汗をかいた。中のスウェットが汗で湿った。シャワーに入って着替えてきてよかったと思う。でなければ、俺は相当臭っただろう。

 夕飯どきもすっかり過ぎていたので、店内に人はまばらだった。

 俺は店内を見回した。一番奥に、そいつはいた。

 俺は、口の中で大丈夫、大丈夫と言葉を転がしながらそいつへ近づく。大丈夫、俺は大丈夫。

 そいつが顔を上げた。奇妙な安堵を顔に浮かべながら。

「よかった――来てくれて」

「一体、何の用だよ」

 俺は警戒心を隠さずに言う。十年ぶりに突然電話をしてきて、何かを頼みたいなど、おそらくまともなものではないに違いない。ノルマのある保険の勧誘か、新興宗教の布教か、そのあたりだろうか。

「とりあえず、そこ、座れよ」

 そいつに言われて、俺はそいつの真向かいの席に座る。目の前から見るそいつは、昔と変わらず整った顔立ちをしていた。そういえば、と俺は思い出す。

 こいつが同性愛者ゲイだっていう噂があった。男の担任教師と付き合っているのではないかと、どこかから噂が立ったのだ。

 俺は、そんな噂はどうでもよかった。真実であろうと、虚構であろうと、俺には関係ないことだ。たまたま同じ教室で勉強している、たまたま同じ年に生まれた存在がどんな性的指向を持っていようと、俺には関係ない。

 だから、筆箱を忘れた音楽室に踏み込んだ時、そいつと担任がキスをしているのを見ても――俺は、ああそう、という感想しか持たなかった。そいつはあまりに動揺し、担任教師ともどもお願いだから誰にも言わないでほしい、と言った。

 どうでもよかった。どちらでもよかった。

 それで、俺は結局言わないことを選んだ。例えばその話題を提供すれば、俺は一時的にでも少し教室内での地位が上にあがるかもしれなかった。今どきで言えば噂を暴露するインフルエンサーみたいに、それだけでチヤホヤされたかもしれない。だけど俺はそれをしなかった。そんな一時的に、しかも他人のことで注目を集めたところで、そんなものは長く続かないのは明白だった。

 その時俺は、平たい道がどこまでも続けば良いと思っていたのだと思う。

 今、改めてそいつの顔を見て、勿体無いなと思った。この顔なら女性からも言い寄られることも多いだろう。俺がこの顔だったら、女遊びをしまくるだろう。そういう顔だった。

 こいつは、相変わらずゲイなんだろうか。

 何か注文しろよと促されるまま、俺はいつの間にかタッチパネルに切り替わっているメニューを見て、そのままその機械でフライドポテトを注文した。

 そいつは、最近どうしてる、とか、仕事は何してる、とか、そういうことを一切俺に聞かなかった。俺にはそれは都合がよかった。正直に話すのも躊躇われるし、嘘をつくのも面倒臭い。

 そいつは言った。

「俺は、……自分でも言うのはなんだけど、知り合いとか友人は、多いほうだと思う」

 急になんだ。自慢か?

「でも、なんていうか――その中で、本当に信頼できる人間っていうか、頼りになる人間なんて、ほとんどいないんだなって、思い知ったんだ」

 筋の見えない話だった。やたらに深刻ぶった顔で、こいつは何を言っているのだろう。

 呑気な電子音と共に、のそのそとこちらに近づいてくる影があった。俺は思わずそちらを見る。白と黒の機械に、表示された猫の顔がまばたきしながらこちらに近づいてくる。俺の驚いた顔を見てそいつは、

「最近は増えたよな。機械の配膳」

 と言った。

 のろのろとその機械が、牛歩にも近い動きで近づいてくる。そいつは視線を戻した。

「誰か信頼できる人がいないか、そう思って連絡帳を見ていたら、お前の名前が見つかった」

 そいつは俯いて、テーブルに貼られたパフェのメニューのシールを見ながら言った。

「俺はお前のことを思い出した。そして、お前になら話してもいいと思った」

 配膳マシンは、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 途中、誰か帰った人が出しすぎた椅子に引っかかって、機械の動きが止まった。

『通れません。障害物をどけてください』

 画面の猫が困った顔を浮かべている。

『通れません。障害物をどけてください』

 機械が繰り返す。

『通れません。障害物をどけてください』

『通れません。障害物をどけてください』

『通れません。障害物をどけてください』

 これでは配膳マシンの意味がないのではないかと俺は思う。人件費削減が目的だろうが、こんなことではサービスの提供に支障があるのではないか。何より、こんなにあの猫は困った顔を浮かべているのに、誰も助けに来ないのはなぜなのか。

 そいつが立ち上がって、機械の近くに行き椅子をテーブルに収納した。機械よりも早くそいつは席に戻ってきた。座り、言った。

「人を、殺したんだ」

 呑気な動きで配膳マシンが席にたどり着き、猫が嬉しそうな顔で言った。

『お待たせしました、注文をお取りください。ありがとうございました』


       *


 生きていくために必要なものとはなんだろう。

 理性的な判断、主体的な意志、能動的な行動――どれも欠かすことのできないものだ。そのときの俺の判断は、ちゃんとそれらに当てはまるだろうか?

 人を殺した、と言われて俺はなぜか動揺しなかった。俺はそれよりも、そのあとの言葉に捉われていた。

「お前は信頼できると思った。お前になら話してもいいと思った」

 そいつはそう言った。

 信頼。

 俺はしなしなのフライドポテトを食べながら、その言葉を牛のように反芻していた。俺の一つしかない胃の中を、その言葉が行ったり来たりする。

 目の前の男の顔を見た。俺とは比べ物にならないくらい整った顔。こいつの目に、今の俺はどう映っているだろう。

 信頼? 俺を?

「そうだ」

  目の前の男は答えた。どうやら口に出てしまっていたらしい。男は続けた。

「お前は、俺がゲイだって知っても、誰にも言わなかっただろ?」

 男の目には、何か普通の人には見えない奇妙な色が宿っていた。

 俺は最初、それがこの男が一線を踏み越えたからなのだろうと思った。こいつの話が本当なら、こいつは人を殺しているのだ。にわかには信じがたかったが、この目の色を見ると、それは本当なのだと思わせられた。

 怖くなかったと言えば嘘になる。その証拠に、俺はそれを冷やかして冗談だろとかわすこともできなかった。

 男は話を続けた。

「あいつを殺して、連絡帳を調べて、お前の名前を見つけたとき、俺は――その時初めて自分のこころが少し落ち着くのを感じた。意外だった。だって俺とお前は、ほとんど話したこともない関係だし、お前が俺のことをどう思っているかも俺にはよくわからない。だけど俺は、お前のことを――というよりもあの日のことを――ちゃんと覚えていた。お前があの日、担任とキスしていることを目撃しても、その話は結局誰にも漏れなかった。俺は、平穏に中学を卒業できた。俺はずっと誰かにあの日のことを言われないかと怯えていた。けど、それは杞憂だった。俺は安心してあの学校を卒業した。担任とはそのあと一年で別れたし、お前のこともそのうちに忘れてしまったけど、けど、名前を見て俺はすぐに思い出した。それで信頼できると思った。馬鹿げてるって思うか? だけど、俺にとってはすごく大事なことだったんだ」

 男が切々と話した。俺は何か、どこか違う世界の話の出来事のようにそれを聞いていた。その話の中に何度も出てくる『お前』と自分が結びつかなかった。しかし、それは間違いなく自分のことだった。

「俺はお前にお礼も言わなかった――」

 こいつが俺に向けているこのまなざしの見慣れない光。

 俺はそれをこいつが人を殺したからだと思っていた。

 けれど、それは違うのだ。これは、この見慣れないギラギラした目の色の名前は――。

「とりあえず、うちまで来てくれよ」

 男は、ポテトを食べ終わった俺を駐車場の車へと連れて行った。

 俺は抵抗できなかった。あの目が、俺を捉えている。

 男の車は新しいにおいがした。聞けば、そいつは今東京に暮らしており、わざわざうちの近くまで車で来たらしい。

 男は運転しながらぽつぽつと話した。

 殺した男は、自分と出会い系のアプリで知り合ったゲイの男。

 相手とは、それなりに友好な関係を気づけていると思っていた。

 ある日、相手が自分の財布の中から金を盗んでいるところを偶然見つけた。

 問い詰めると、他の男と遊ぶための金だと言う。

 カッとなって――という、よく聞く表現は嘘っぽいと思っていたのに、本当に自分がそうなると、そうとしか表現できない。あのとき俺は、『カッとなって』しまった。気付けば、男は目の前でぐったりしていた。手元にある飲みかけのワインの瓶から、ぽたぽたと液体が滴っていた。最初はワインが零れているのだと思った。カーペットに垂れるそれをよく見たら、瓶の外についた真っ赤な血だった。男の頭が奇妙にへこんで、目玉が半分飛び出していた。死んでいるのは明らかだった。

 車は県境を超え東京へ入った。住宅街に入った車は、小綺麗な一軒家の前に泊まった。ガレージの扉が開いていく。

「俺の家だ」

 その家は、そいつの成功を物語っていた。そいつが社会的に安定し、一人の人間として自立していることを示していた。車は、ゆっくりとその中に飲み込まれていく。

 エンジンが止まって、車内が静まり返った。

「俺が」

 俺は、ようやくそう口に出した。

「この話を誰かに伝えたら、お前はどうするんだ?」

「お前はそんなことしない」

 男は即答した。その眼には、やはりあの光が宿っていた。

「だけどもしそうなったら、見る目がなかったと諦めるよ」

 男は立ち上がって扉を開けて車を出た。俺も、ゆっくりと扉を開ける。男は家に向かうのかと思いきや、車の後ろへと回った。

「このトランクの中だ」

 男は言って、こんこんと二回トランクをノックした。

「この中に、死体がある」

 俺は白い車の汚れのない塗装を見つめていた。

 ということはつまり、俺は死体と一緒にドライブしていたことになる。そういう俺の考えを察したのか、男が続けた。

「家に置いとくのも不安なんだ。なんだかこいつが、急に動き出しそうな気がして」

 そういうものなのだろうか? 人を殺した人間は、そういった不安に駆られるものなのだろうか? 俺には人を殺したことがないからわからなかった。

「開けるぞ、いいか?」

 男は俺に確認をとった。今更断ることができるのだろうかと俺は思った。できたのかもしれない。それを拒否して、終電も終わったこの時間、場所もよくわからないここから帰ることだって、できたのかもしれない。だけど結局俺はそのままそこに留まり続けることを選んだ。

 男はトランクを開けた。中には白い布に包まれた大きな何かが入っていて、妙な臭いがした。曰く形容し難い臭いだった。

「臭いか? もうだいぶ経ってるから、そろそろ臭うのかも。冬だけど、まずいかな。でも、車の中までは臭わなかっただろう?」

 そいつが話す。見たこともない、何か奇妙なかたちに歪んだ白い布。ところどころに妙な染みがある。その黄色い染みが、どんな液体によるものなのか想像しかけて中断した。

 男は何でもないような様子でそれに近づいて、カバーをするすると外した。もう俺に許可を求めることもなかった。

 人間がいた。顔が見えた。異様に青白い顔。目を瞑っている。寝ているわけではないのだとすぐに理解できたのは、その色が人間の色ではなかったのと、左こめかみが陥没し、割れた骨によるものか異様に皮膚が突っ張っているのを見たからかもしれない。

 死体だった。

 本当に、死体だ。

 何か、心が沸き立つような感情を覚えた。自分の心臓が動く音が聞こえた気がした――つまり、俺は感じたのだった。

 俺は生きている。

 俺は今、確かに生きている。

 そして、こいつは死んでいる。

「それで、これをどうするんだよ」

 俺は言った。自分の口から、なぜか勝手に言葉が出てきたみたいだった。俺の脳が活発に動き始めたのかも知れなかった。

「俺に何かを頼みたいから呼び出したんだろう?」

 そいつは少し目を見開いた。俺の様子が変わったことに驚いたのかも知れない。

「ああ――」

 男は口籠った。しばらく沈黙が続いた。開けっぱなしのトランクからの臭気が、ガレージの中で濃くなっていく気がした。

 男が言う。

「こいつを、バラバラにするのを手伝って欲しい」


       *


 人をどのように解体すればいいのか――そんな難題から俺たちを救ってくれたのは、偉大なるインターネット様だった。検索サイトの項目に『死体 処理方法』と打ち込んだり、『猟奇殺人 詳細』と検索するだけで、ぼろぼろ過去の殺人者たちがどのように死体を処理してきたかがヒットした。しかし、難点もあった。彼らは皆、結局のところ逮捕されているのだ。つまり、同じやり方ではいずれ犯罪は露呈するに違いなかった。

 しかし、どんな創造であれ、それらはまず模倣から始まる。俺たちは二人がかりで死体を風呂場へと運び込んだ。腐敗がだいぶ進んでいるようで、死体はガスが溜まって膨らみ始めていた。俺たちはタオルを口元に巻いて臭いに耐えながら作業を始めた。男が、解体に必要な道具はあらかた買い集めているようだった。話を聞くと、車で離れたところまで買いに行ったのでとりあえずは大丈夫だろうと言う。果たしてそうだろうかと俺は思った。そんなこと、どんな殺人犯でも思いつきそうなことだ。しかし、今更そんなことで文句を言っても仕方ない。

 体はだいぶガスで膨らみぶよぶよになり始めているのに、顔はなぜか綺麗だった。俺は、死体の顔を改めて見つめた。

 頭が奇妙に陥没していてなお、その顔は美しかった。

 俺はしばらく、目をつぶった死体の顔を、体を前に傾けてじっと見つめていた。

 を今からバラバラにするのはとても惜しいと思った。この存在は、今の俺にとって何か極めて意義深いものだった。解体したくない。そう思ったが、現実的な発想ではなかった。これは、このままここにあるだけで腐って死臭を放つ物体になるのだ。

 俺は、この存在を、この存在から自分が与えられているものをしっかりと胸に刻み込まなければならなかった。そしてそれは、恐らく人生そのものと同じことだった。すべてのものは失われてしまい、二度とは手に入らない。そんな当たり前のことを、俺はこの死体を通して初めてしっかりと実感した。生まれてきた嬰児が、一つ一つ言葉を覚えていくみたいに。

「もう、いいかよ」

 横から声がかかる。男が痺れを切らし、ノコギリをかかげた。

 俺たちは作業に移った。

 死体を風呂場へと移動させる。ぐったりと死体は風呂場の床に倒れ込んだ。既に死後硬直も終わっているらしい。

 死体を解体するうえでのコツは、まず関節を切断することらしい。俺たちはネットに従って解体を始めることにした。

 男は、まず腕を切り落とそうと言った。男に持っていた包丁を渡す。男は、死体の腕――肘の内側に歯を当てた。そして、しばらくそのまま固まった。見兼ねた俺は、もう一本用意されていた包丁を手に取って、死体の腕を床に足で固定すると、勢いよくそこに切り目を入れていった。どろっとした黒い液体が、中から溢れ出した。風呂場の床の模様に沿ってそれは流れた。それが血液なのだと理解するのに、少し時間を要した。

 うっ、と男が呻いて浴室を出て行った。遠くから、吐瀉する音が聞こえてきた。俺は作業を続けた。骨の周りの肉を包丁で切り終わると、中の筋、骨と骨をつなぐすじをノコギリを使って切り落とした。

 繋がっていた人体は、簡単に切り離された。切り離された前腕を、俺はまた興味深く見つめた。人間の腕が分裂して、血塗れの床の上に置かれている様は、一種の滑稽みを感じさせた。俺はまた、その光景をしっかりと刻みつけた。

 それから、まるで何かの義務感に駆り立てられるかのように作業を進めた。男は戻ってきて、まるで外科手術のアシスタントのように俺に道具を手渡す係に徹していた。

 足を根本で切り落とすためにズボンを脱がせる。死体の股間の膨らみが目に入った。そういえば、男とこの死体はセックスをしたという。ふと、どちらだったのだろうと思った。この死体と、この男と、どちらが挿入をし、どちらが挿入されたのだろう。

「どっちだったんだ」

「え?」

「お前と、こいつ。どっちが……」

 うまい表現が見つからず言い淀んだ俺に、そいつが答える。

「こいつだよ」

 男は、足先でばらばらになり始めた男を軽く蹴って答えた。

「こいつが、挿れるほう」

 それを聞き、俺は衝動的に男の高そうな下着を破いて中身を見た。中のペニスは、腐って黒ずみ始めていた。触ると、ぶよぶよとした変な感触があった。これが、数日前には元気に挿入されていたのだと思うと、やはり俺はなんだか元気が出る気がした。俺は男のペニスを切り落とした。

 死体は、どんどんと小さな部品になった。

 部品が小さくなるにつれ、それが一人の人間であったことを想像するのは難しくなって行った。それと同時に、男も積極的に解体に参加するようになった。

 気がつけば、朝を通り越し昼になっていた。

 俺は一度家に帰宅し、睡眠をとって、再び――今度は電車に乗って男の家へ向かって解体作業を続けた。死体は腐敗していくので、氷を買ってきて浴槽に水を溜めその中に死体を投げ込みながら作業を続けた。骨をトンカチで砕き(男の家は防音がしっかりしていたので外に漏れる心配はなかった)、小さくなった体を逐一トイレに流していく。

 この風呂場も、トイレも、警察が検査をすれば一発で血液反応が出るだろう。そうすれば、全てが明るみに出るし言い逃れはできない。それを回避するために俺たちは頭を絞った。

 相手のスマートフォンは手元にあった。正確には、男の家から幾分離れた公園の草むらに埋めてあった。スマートフォンからは位置特定の電波が出ているらしいのでそうしたらしい。男は随分頭が回ったようで、殺した直後に目を開かせ顔認証でロックを解除し、パスワードを変更して自分で後から操作できるようにしていたらしい。そしてやりとりをしていた出会い系アプリのアカウントを、自分のものも相手のものも削除した。数日、ツイッターのアカウントを相手のふりをして更新もしていたらしい。

 全てが終わったスマートフォンを完全にリセットする。そしてインターネットに書かれていた通り最も解体が困難だった死体の頭部とともに、俺はそれを地元へ持ち帰った。鞄の中に解体した頭部を入れて持ち歩くアニメを見たことがあったが、自分がまさかそれをすることになるとは思わなかった。

 俺はスマートフォンを川底に沈め、河原に頭部を埋めた。

 男と、それきり連絡が取れなくなった。


       *


 毎日家を出かけ散歩をするようになった俺を見て、両親は偉く喜んだ。家を出て、河原の様子を毎日見にいく。河原は広く、背の高い雑草が生い茂っている。

 あの辺りに人間の頭部が埋まっている。

 それを知っているのは俺だけ。

 この感覚を、感慨深いと言うのだろうか?

 秋の風が俺の顔を撫で、顔を上げた空では雲が緩やかに流れている。

 俺の心はその景色に捕らわれた。再び風が吹いて、茶色く乾いた雑草たちが波打つように揺らめいた。俺の脇を、子どもがはしゃいだ声を上げて通り抜ける。川面が太陽の光を浴びてきらめいた。

 美しい景色だった。

 空をずっと見上げてこなかった。足元ばかりを見て歩いてきた。少し視線をあげるだけで、こんな世界が広がっていたのを、俺は知らなかった。

 恐らく誰もが、俺は正しくないと言うだろう。

 この道も、今いる場所も、正しくないと言うだろう。

 だけど、もしあそこに頭部が埋まっていなかったら、この美しさに気付けなかったに違いなかった。

 ならば、俺にとってはこれが正解なのだろう。


 それから毎日、俺は河原に通った。

 ある日、様子が変わっていた。立ち入り禁止のロープが貼られ、紺色の作業着を着た警察の捜査員が、溢れるほど河原にいた。真っ黒い警察犬や、制服警官もいる。野次馬が口々に何があったのか噂していた。

 その口から出る、頭部という言葉も、白骨、という話も、どれも自分のことのように思えなかった。だが、それは間違いなく自分に関係することなのだった。俺はスウェットのポケットからスマホを取り出し、あれ以降一件も着信もなく一番上に表示されたあの男の番号を見る。

 電話をかけようかと思って、やめた。

 俺は家に着くと、自室に戻って扉を閉めた。饐えた匂いのする万年床に寝転がり、天井を見つめる。俺の頭が、再び高速で回転を始めた。俺は起き上がると、スウェットからチノパンに履き替え、首元のよれたTシャツを比較的新しいものに着替えると部屋を出た。リビングでテレビを見る両親が、こちらを見た。

 俺はこれから正しいことをする。

 恐らくそれを、両親が理解してくれるとは思わない。

 だけどそれは――間違いなく俺に取っては正しいことなのだ。

「いってきます」

 俺はそれだけ言って家を出た。いってきますなんて、何年振りに言っただろう。

 大きな警察署があるのは隣町だった。電車に乗り外の景色を見る。目の前の男子高校生の二人組が、仲睦まじく話している。

 ――俺はゲイで、あいつとはアプリを通じて出会いました。

 ――あいつが金を盗んでいることが分かって、俺は思わずあいつの頭をワインの瓶で殴りました。あいつはぐったりと動かなくなりました。

 ――殺してしまったあいつの処理を、中学の友人に依頼しました。

 ――あいつは、俺のことを信頼してくれた唯一の存在なんです。だから俺は、あいつに一緒に処理をしてくれと頼みました。

 ――処理は、そいつの家で行いました。そいつは渋々俺に協力してくれました。

 少し震える足で電車を降りると、人の流れに逆らって俺は警察署へと向かった。警察署の目の前に辿り着く。チノパンの小さなポケットの中で、スマートフォンが震えたような気がした。長く震えている。電話かも知れなかった。だけどそれが本当に震えていたのか、俺の気のせいだったのか、もはやそんなことはどうでも良かった。

 自動ドアが左右に開き、中から暖房の乾燥した生ぬるい空気が柔らかく流れてきた。受付の凛々しい顔をした女性警官に、俺は話しかける。

(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

命のない体 数田朗 @kazta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ