第26話 前日譚 ─飯田久子②─
親戚達ははぐれないよう手を繋いでいたけど、誰とも手を繋いでいなかった私はすぐに彼等を見失ってしまった。
こんな時でも私は焦るよりも、途中ではぐれるんなら最初からあの人達のことは放っておいて一人で逃げておけば良かったなとぼんやりと思った。
何となく橋を渡るような気にはなれず、来た道を戻っていると唐突に強い力で腕を掴まれた。
「ねえ!私のお母さん見てなかった!?」
腕を掴んだ人物の正体は晶子だった。普段の癪に障る甲高い声が鳴りを潜めていている様子からして、逃げているうちに家族とはぐれたんだろう。
生憎晶子の家族は見ていない。それどころじゃなかったし、第一見かけたとして素直に教えるとでも思っているのだろうか。
「見てない」
「何よ!?ブスのくせにこんな時でも使えないんだから!」
そういうアンタはこんな時でも私を貶してくるんだね。丁度良い、彼女を守ってくれる家族は居ないし金魚のフンの取り巻きの姿もない。今死体ができ上がってもこんな状況じゃ誰も気にしやしない。今が成り代わる絶好の機会だ。私は逃げられないように晶子の腕を掴み直す。
「なっ!何!?」
まさか私がこんなことをするとは思っていなかったんだろう。あからさまに動揺する晶子にニンマリと口端が上がる。散々虐める自分の方が強いんだと得意になっていたのに、ほんのちょっとやり返しただけで大袈裟に怯むんだから晶子だって本当は大した力を持たないのだ。
私はそのまま呪文を唱え始める。火の熱さ以外に身体全体が昂るような感覚がする。
「何よ!?何笑ってんのよ!?気持ち悪い!」
笑いながらブツブツと意味不明な言葉を呟く私の様子を不気味がった晶子が腕を振り払おうとする。無駄だ、絶対離してなんかやらない。
今までずっと練習を重ねてきた。呪文は全部頭に入っている。後は晶子の精神力との戦いだ。そしてとうとう呪文が完成したと思った瞬間、目の前に私のうつ伏せに倒れている身体があった。
立っている場所が反転している。私は割れて地面に散らばっていた窓ガラスに恐る恐る自分の顔を映す。晶子の顔がそこにあった。
(やった……。やった!やった!晶子の顔!晶子の顔になった!ざまぁみろ!私は晶子になってやったぞ!)
今だけは火の熱さもあちこちで起こっている混乱も人の怒号も頭に入らなかった。私はとうとう晶子の美しさを手に入れたのだ。
「みんなー!川へ行けー!」
若い大人の声にハッと現実に引き戻される。そうだ、折角美しくなれたのに死んだら意味がない。何としてでもこの空襲から生き延びなければ。
私は大人が言うように火から逃れるために川へ行こうと爪先を向けた時に、関東大震災を経験した祖母の言葉を思い出した。祖母はあの時の光景がずっと忘れられないらしく、繰り返し私に言い聞かせていたのだ。「街中が火事になっている時は川に行っちゃならん。飛んで来た火の粉が人の頭や服に燃え移ってあっという間に水面全部が火だるまになるからな」と。
川は駄目だとハッとなった私は川へ行こうとする人の波に飲まれないよう、電柱の近くに蹲ってジッと耐えていた。そのうち人の波が少なくなってきた頃を見計らって川から遠ざかるように足を進めた。
風がもの凄かった。柳行李が飛ばされないよう腕にしっかりと抱えて殆ど這っているような状態で進んで行くと、大きな交差点に面した角に建つコンクリート製のビルを見つけた。ビルならきっと食料がある。僅かな着替えと手帳を入れた柳行李以外に何も持っていなかった私はビルのドアを叩いた。
ビルの所有者である家族が迎え入れてくれて地下室へと避難させてくれた。地下室には既に避難している人が居て、私はとりあえず少し離れた所に座った。自分で思っていたよりも疲れていたのか、座った瞬間ドッとだるさが襲って来て立ち上がるのがしんどいくらいだった。
それからもここを見つけて避難して来た人がぞろぞろと入って来て地下室はいっぱいになった。その後も人が絶えず、そんな人は上の階へと入っていった。
外は爆発音とゴウゴウと電車が通るような音が夜通し聞こえていた。避難していた人達は気を紛らわす為か「すごい」とか「大丈夫か」とかポツポツ会話をしていたけど、電気が駄目になってラジオも聴けなくなって、とうとう誰も口を開かなくなった。
私も当然誰かと話をするような気になれず、かといって眠れもせず、ロウソクのゆらめきをジッと見つめながら夜を明かした。
朝が来て無事に切り抜けた人達がビルの所有者家族に挨拶をしながらゾロゾロと出て行く。私もペコリと頭を下げて外へと出た。
私が非難したビルの周辺は殆ど地平線まで見渡せるほど焼け野原になっていた。無事な建物は数えるほどしかなくて、まさに何も無くなってしまった。
(喉乾いたな……)
火の中を逃げて来てその後もずっと水を口にしていなかった喉はカラカラだった。行く宛てもなく、取り敢えず水を飲もうと感覚を頼りに親戚の家と戻った。
辿り着いた親戚の家は殆どが焼かれてしまったけど、茶碗の破片で埋もれていた物を掘り出すと魔法瓶を見つけた。私は水道管が壊れている所為で噴き出している水を飲んで喉を潤し、魔法瓶に水をたっぷり入れると親戚が帰って来ないうちにまた家を離れた。
その間にも焼かれた死体が折り重なるように道を埋め尽くしていた。辺りには人が焼けた嫌な臭いが立ち込めていて、川に行くと案の定焼死体や溺死体が沢山浮かんでいた。
そこで焼け残っていた縄を拾って魔法瓶の取っ手に結んで肩にかけられるようにして、また宛てもなく歩き出した。
これからどうしようと考えた末、私は晶子の家へと向かった。当然だけど今の私の顔は晶子のものになっている。もし彼女の母親が家に帰っていたんなら喜んで迎え入れてくれるだろうし、何かあったら自分の名前以外は何も覚えていないことにしてしまえば良い。
そうして晶子の家に着くとやはりそこも何も残っていなかった。しかし「あきちゃん?あきちゃんよね?」と声が聞こえて振り返ると、40代くらいの女の人が信じられないといった顔をしていた。
「あきちゃん覚えてる?おばさんよ?京島の」
私は泣きそうな顔をしながら「ごめんなさい……」とだけ言うと女の人は「そうね、会ったの小さい頃だもんね……」と納得したようだった。
母親の姉を名乗ったその女の人は、都内でも奇跡的に戦火を免れた土地に住んでいて、空襲が明けた今朝に私達の安否を確認しに歩いてここまで来たのだと言う。
「八重子……お母さんは今どこに居るの?」
「橋の近くではぐれちゃって……戻ったら居るかなって……」
「そう……頑張ったわね…………」
俯きながらほくそ笑む。晶子があの時に母親とはぐれてくれたのはとうとう私に運が向いて来たからだ。
伯母さんは私を抱き締めると「お母さんは私が探してあげるからね」と背中を撫でていた。
それから私は伯母の家で過ごすことになった。家には徴兵されたものの戦地で赤痢にかかって帰って来れた伯父と、晶子の三つ年上の従兄の和夫と同い年の従姉の和子、9歳の従弟の清が居た。
この顔のお陰か邪魔者扱いされず、家の手伝いなんかはしていたがあの親戚のように扱き使われるようなことはなかった。
伯母は私に言った通りに毎日あの場所まで脚を向けて母親を探し続けた。しかし一週間後、戻って来た伯母が沈痛な顔をしているのを見て亡くなったんだなと思った。
その後私は晶子の母方の実家に引き取られた。それなりの規模の畑があったお陰で学校終わりに畑の手伝いさえすれば厄介者扱いされずこの家の一員になれた。
あの空襲で本当に血の繋がりのある人間とは離れ離れになったけど、罵倒もない、蔑まれることも扱き使われることもない、夕食を抜かれることもない他人との田舎暮らしの方がずっとずっと心穏やかでいられた。
そうしてやっと逆転とまでは言わないが、明日をごく普通の気持ちで迎えられるようになってから数ヶ月後の11歳の8月。長かった戦争は終戦を迎えた。
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