第4話

 御園さんの行きつけのカフェに入ると温かみのある木の香りが鼻を擽った。

 個人で経営しているのか少しこじんまりとしているけど雰囲気の良い店だった。天井近くの棚にはグリーンやアンティークが飾られていて、大小様々な大きさの額縁には海の写真が収められている。

 

 店内に漂うコーヒーの良い香りと食欲をそそる匂いに、緊張が和らぐと同時に腹の虫が鳴らないかとあらぬ場所に意識が行ってしまう。

 

「いらっしゃいませ、お席にご案内しますね」

 

 奥からマスターらしき50代くらいの男性が人の良さそうな笑みを浮かべてこちらへとやって来る。ネイビーのエプロンをパリっと着こなし、ハキハキとした声からもこの仕事に誇りを持っているのが分かる。


「あ、すみません。ボク達食事しに来た訳じゃなくて……」

「その……ここの常連の友人や知人なんですけど……。昨日この人来てませんでしたか?」


 席に案内しようとするマスターを止めた赤石さんが斎藤さんに視線をやる。振られた彼女はスマホを操作し、ツーショット写真を見せて友人であることを証明すると、最初訝しげに眉を潜めていたマスターも怪しい人ではないと分かったらしく警戒を解いてくれた。


「その人なら昨日来ましたよ。19時……10分頃でしたかな?」

「本当ですか!?その人何時くらいにここを出てどこに行ったか分かります!?」


 良かった、彼女はここに来てたみたいだ。もし10分くらいで出たとしたら待ち合わせ場所へ向かう途中で何かあっただろうことは間違いない。

 しかし来た時間はほぼ正確に答えられていたマスターが先程とは打って変わって首を捻りだした。

 

「えーと……。いつもご飯食べて帰るから、だいたい20時過ぎぐらいだと思います……?どこに行ったかまではちょっと……」


 おかしい。だって御園さんは斎藤さんと食事をする約束をしていた筈だ。飲み物は頼むかもしれないが、これから友達と食事に行くのにここでも食べていくなんて不自然だ。常に欠食児童みたいな男子高校生ならともかくとして、特に大食いでもない彼女が。

 

「私……!昨日彼女と食事に行こうって19時半に待ち合わせしていたんです。約束を忘れないありさがそんな遅い時間にお店を出る筈がないんです。もっとよく思い出してください」


 斎藤さんの言葉にマスターがもう一度記憶を漁ろうとするが、返ってきた言葉はなぜか『すみません。分かりません……』だった。


「分からない……?」

「彼女が来たところまでははっきり覚えているんですが……。その後がぽっかりと抜けていて……。いや自分でもこんなこと初めてで……」

 

 どういうことかと聞き返すとマスターも混乱しているのかパニックになりかけている。ここにきてマスターの様子もおかしいし、どうしようかと内心でアワアワとしてると。


「防犯カメラとかありませんか?それで確認できると思うんですよ?」


 赤石さんが助け舟を出してくれてその手があったかとハッとなる。流石こういう時は冷静だ。

 マスターも快く了承してくれて一緒に防犯カメラの映像を確認すると、確かに19時10分頃に御園さんは来ていた。その後慣れた様子で飲み物を注文し、今日は食事はしないと言ったのだろう、マスターに手を振っていたのが見て取れた。


 出された飲み物に口を付けてマスターと何か談笑をしている。ここまでは普通だったのだが異常はその直後に起きた。


 御園さんが突然身体を脱力させてカウンターへと頭を突っ伏す。しかしマスターはいやに冷静だった。

 普通なら「どうしました?」と声をかける筈なのに淡々と彼女に出したカップを片付けている。そして店の奥の方から背中まで長い黒髪のとんでもない美人な若い女性が現れた。


「嘘……あり得ない…………」

 

 誰かがか細い声でそんなことを呟いたような気がした。

 マスターと美女は知り合いなのか一言二言話すと、マスターが御園さんを抱えて奥へと行く。その後店先にまた姿を現したマスターがドアの看板を「close」にして去って行った。


 その映像を見ながら俺はどこか違和感を覚えた。ハッキリとは言えないけれど何かが決定的におかしい。でもその「何か」を掴めずにやきもきしているとマスターの震える声が耳に入った。


「そうだ、思い出した……」


 彼の顔は真っ青を通り越して真っ白だった。今にも倒れそうなほどうろたえている。その尋常じゃない様子に大丈夫か声をかけようとした。


「あの人が午後営業の準備中の時間に店にやって来たんです。歌手をしているらしくて歌を披露してくれて……。それを聞いていたらあの人のこと以外何も考えられなくなって、あの人を手に入れる為なら何でもできるって…………」


 俺は急いで固まってしまっているマスターの手をどかして早戻りのボタンを押す。

 美女が店に来た所まで戻して再生させると、確かにマスターの言う通りに美女が何かを歌っているのが映った。これだけならフリーの歌手が営業しに来たと見えなくもない。

 

 問題はその後、マスターの様子が明らかにおかしくなったのだ。最初は普通にしていたのに段々彼の顔が紅潮してきて瞳が爛々と輝く。

 さっきまで普通に対応していたのに、打って変わって熱に浮かされたかのような表情をしていた。単なる一目惚れとは違う、聞いた人の意思を奪うようなそんな力を感じる。


 映像だけだからどんな歌を歌っているのかは分からない。しかし、もしかしたら自分達も聞こえていたら、あっという間に美女の手の平になっていたかもしれない。そんな予感を覚えるほどの異様さだった。

 

 何なんだこれは。人の思考を操る手段としてよくマインドコントロールが挙げられるけど、あれは長時間ターゲットと接触して少しずつ思考を縛るものだ。こんな短時間で人を操るなんてと背筋に冷や汗が流れる。


「私はあの人の言われるがままに、彼女に睡眠薬入りのアイスティーを……」

「ちなみにその人とは前に会ったことがありますか……?」

「初めてです……」


 だとしたらマインドコントロールは外れる、初対面でしかも短時間で人に対して害を加えるほどの洗脳を施すなんて見たことも聞いたこともない。

 もし要因が歌だけじゃなかったとしたら……もしかしてドラッグを盛られたとか……?

 

「そうだ警察、警察に……!」


 顔面蒼白で今にも飛び出して行きそうなマスターを全員で慌てて止める。

 

「それよりも病院!病院行きましょう!もしかしたらあの美人に変なドラッグ盛られてたかもしれないですし!そしたら貴方も危ないです!」


 赤石さんも同じことを考えていたみたいだ。ドラッグか何かで操られていたとしたら直ぐに治療してもらわないと後遺症が残ってしまうかもしれない。

 俺達は警察へ行かなければと渋るマスターを説得した俺達は、客が捌け次第マスターを病院へと送り届けた。

 

 病院に駆け込んだ俺達は近くに居た看護師を捕まえて声を潜める。マスターが客によって何らかの犯罪に巻き込まれたかもしれないこと、薬物検査も含めて何か異常がないか検査をしてほしいことをこっそり使えると、看護師は「大変!」と急いで別の場所へと案内してくれた。


 あれよあれよと検査の準備に進んだマスターに、赤石さんが少し言葉を交わす。


「先生や周りには『誰かと話していたらボーッとしてきて何も覚えていない』とだけ話してくださいね。実際カメラの映像見るまで覚えていなかったんですから」

「申し訳ありません……ご迷惑をおかけして……」

「いえ、世の中にはとんでもないことをしでかす人もいますから」

 

 10歳くらいは老けたようなマスターに一同でとんでもないと返す。災難だったのはマスターも同じだ。大事には至らないと良いんだけれど。


「渡辺さん、まずは採血から始めますね」


 看護師に呼ばれたマスターがソファから立ち上がる。自分達の病院から出ようとすると斎藤さんが「あの、最後に一つだけ」と、看護師について行こうとするマスターを呼び止めた。

 

「車でありさ……彼女をどこに運んだかは分かりますか?」

「すみません……そこまでは思い出せなくて……」

「そうですか……」


 残念だけどこれ以上マスターにもっとよく思い出せと圧をかける訳にもいかない。今度こそ心労で倒れてしまう。

 相手が何故御園さんを狙ったかは知らないが、どんな手段も選ばないタイプだと分かっただけでも御の字だ。


 赤石さんが懐から名刺を取り出して「何か他に思い出したことがあったら連絡してください」と言って今度こそ病院を後にした。


(今日はとんでもない一日だったな……)


 緊張から解放されて脱力しそうになるのを何とか押しとどめる。あまり成果は得られなかった割に非常事態ばかり起こっていたような気がする。

 でももし警察に任せっぱなしだったら、あのマスターは任意同行されるなんて可哀想な目に遭う可能性があった。それを考えると自分達で動いて良かったかもしれない。

 

 やっと一息つけたなと思った瞬間、胃が空腹を訴える。こんな時でも腹は空くもので、どこかで食べながら作戦会議でもしようと振り向いた。


(あれ?)


 斎藤さんが居ないと思っていたら後ろに居た。しかし様子がおかしい。頭を俯かせていて明らかに元気が無いし、しかも少し震えている。


「どうしました斎藤さん?」


 弾かれたように顔を上げた斎藤さんは今にも泣きそうになっていた。もしかして実際に被害に遭った人の話を聞いて怖くなったんだろうか。

 斎藤さんは話して良いのだろうかという様子で少し戸惑うと、意を決したように口を開いた。

 

「あの人……警察では捕まりません……!」


 どういうことだ?確かにあの人はドラッグらしき物を使うことも厭わない危険人物だ。だからといって警察も捜査のプロだ。 プロの犯罪集団でない限り後手になるなんてことはない筈なのだが。


 そう不思議に思っていると斎藤さんは衝撃的な言葉を放った。


「私、前に一度、あの人に誘拐されたんです……」

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