第7話

 いつもの放課後。 

 雨の中、車で家まで送られる車内。

 今日は珍しく遠伊からメッセージが来ないなと思い、携帯を見る。

 遠伊に教えられて、なんとか電話とメッセージは出来るようになった。

 毎日朝と夕方、そして寝る前に遠伊からほんの短文だけれどメッセージが入る。

 けれど今日は、朝はメッセージが来たけれど夕方の分がまだ来ていなかった。

 珍しいことだ。


「今日は遠伊様、夕方に会議入ってるって兄貴が言ってたよ」


 隣に座っている圭介が軽い口調で教えてくれる。

 彼とも打ち解けた。

 結構ざっくばらんな性格で付き合いやすいのだ。

 今日は夕方のメッセージは来ないらしい。


「そっか」


 少しがっかりする。

 そこで毎日三度の連絡が楽しみになっていたのだと気づいた。

 間違いなく自分は今寂しいと思ったのだ。


(何で!)


 そんなことを考えた自分に驚く。

 思わずむむっと携帯の画面を睨みつける。

 よく考えたら自分からは連絡をとったことがない。

 たまには自分からしてみるべきだろうか。

じっと携帯を見ていると、突然音が鳴りだした。

 慌てて画面を見やると遠伊からの着信だ。

 タイムリーすぎて、何も考えずに電話を受けた。


「な、なんでわかったんだ」


 つい上ずった声が出てしまう。

 電話の向こうから静かな声が返ってきた。


「何を?」


 そこではじめて遠伊が理斗の現状を知るわけないと我に返った。


「何でもない!」

「もしかして連絡をくれようとしていた?」

「違う!」

「嬉しい」

「違うからな!」


 否定しても遠伊は嬉しいと繰り返し、結局数回の会話のキャッチボールのあとに電話を切った。

 これだけでぐったりだ。


「着いたよ理斗、雨が酷いから少し近くに止めてる」


 圭介が傘を渡してきたので、ありがたく礼を言って受け取り車から降りた。

 雨が酷いので速足で車から離れて家へと入る。

 今日はバイト先の都合で休みだったので、このあとまた出かける必要はない。

そのあとはいつも通りに台所で夕食を作りをしていた。


「ちょっと!あの車から降りたのは何なの!」


 突然姦しい声が台所に飛び込んできた。

 驚いてみそ汁の入った鍋の火を消して振り返ると、眉を吊り上げた輝子がいた。

 そのあとから光もにやにやとした顔で続く。


(車見られたのか)


 失敗した。

 雨でいつもより近くに止まってもらったからだろう。


「やっぱりあの狐塚屋様と知り合いなんじゃないの?」


 ヒステリックに輝子がわめく。


「違う、今日はたまたまで」


 ふるりと首を振ったら、光が腕を振って鍋をコンロから叩き落した。

 そして流れるように理斗を突き飛ばす。

 理斗はみそ汁のぶちまけられた床に尻もちをついた。


「あの男俺の腕を掴んで邪魔しやがったんだぞ。バケモノ野郎の分際で」


 チッと舌打ちして光がポケットからタバコを取り出しくわえた。

 安物のライターを取り出して火をつける。

 まずいと思う。

 光がタバコを吸うときは、イライラが頂点のときだ。

 最近はあまり帰ってきてなかったので殴られなかったのに。


「何これ」


 不思議そうな輝子の言葉に床を見てハッとした。

 尻もちをついたときにポケットから落としたらしい。

 母の形見のブローチが汚れた床に落ちていた。


「きったなーい」


 みそ汁の染みがついてしまっている。

 理斗は一気に青ざめた。

 慌てて拾おうとすると、理斗の様子に輝子がブローチを蹴った。

 随分と古い手作りのものだ。

 壊れてしまったらどうしようと血の気が引く。


「返してくれ、それは母さんの形見で!」


 光の足元に落ちたブローチに手を伸ばそうとしたときだ。


「こんなのゴミだろ」


 しゃがんだ光がブローチにたばこを押し付けた。

 じりりと布が焦げる。

 独特の臭いがブローチからあがり、鼻をついた。

 その瞬間頭が真っ白になった。

 光にとびついて突き飛ばし、ブローチを拾い上げる。


「何しやがる!」


 光の怒声を聞きながら、理斗は両手でブローチを握りしめて玄関へと走った。

 このままここにいたら、ブローチに何をされるかわからない。

 ザアザア降りの雨の中、靴も履かずに薄着のまま飛び出した。

無我夢中で走って、息がきれる。

呼吸が苦しくなって、どうにか立ち止まった。

周りは街灯がポツンとついているだけで、ひっきりなしな土砂降りの雨で視界がけぶる。

ポタポタと前髪からも雫が落ちた。

そっと両手を開くと、焦げて汚れたブローチが出てくる。

 白地は味噌汁の染みで茶色になり、猫の刺繍部分は黒く焦げていた。

 両親との唯一の繋がりだった。

 鼻の奥がツンとして、涙が込み上げてくる。

 視界が雨のせいだけでなく滲むのに身を任せるまま、理斗は涙を零した。

 雨ではない雫が、あとからあとから頬を濡らす。


「もう……もどりたくない……」


 口から出たのは弱々しい声だった。

 戻りたくなくたって、行くあてなんかない。

 泣いたってどうしようもない。

 ふと、はじめて人の家に泊った日。

 夢うつつに遠伊に慰められたことを思い出した。

 優しい、少し理斗より低い体温。

 ズズッと鼻を啜っても泣くのは止まらない。

 途方に暮れた気持ちで思ったのは、遠伊の顔が見たいということだった。

 もう一度鼻を啜り、おぼつかない足取りで歩き出した。

 結局覚えていた遠伊の邸までの道を力なく歩いた。

 車で送られたとき、隣に座る遠伊を見れなくて窓の外ばかり見ていたのだ。

 なんとか涙は止まってきたけれど、泣いて擦った目元が熱を持っている。

 大きな門が見えてきたところで、理斗は立ち止まった。


「何してるんだ俺」


 こんな状態で来たって迷惑をかけるだけだ。

 踵を返して、公園の屋根のある遊具の中にでもいようと思ったら、また涙が滲んだ。

 自分にはどこにも居場所がないと痛感させられた。


「理斗!」


 ふいに響いた声に緩慢に振り向くと、開いた門から遠伊が走り寄って来た。

 その顔は焦燥じみたもので、はじめて見る顔だった。

 白皙の美貌が濡れるのも構わずに、目の前まで遠伊が来る。

 どうしてわかったんだろうと思っていると、そっと手が右頬に触れた。


「理斗の気配がした」


 あやかしはそんなこともわかるんだなと、ぼんやり思う。

 理斗が両手で握りしめているものに、遠伊が気づいた。

 その手をそっと包まれて開かされる。

 理斗は体温が下がりきっていて、震えていた。

 理斗の手のひらから出てきたボロボロのブローチに、遠伊が眉を顰める。


「ごめん、来ちゃって……」

「私は嬉しいから気にしないで」


 そんなことを言われてしまえば、また涙が零れた。

 ひくっと喉がしゃくり上がる。

 理斗の両手を、遠伊が温めるようにブローチごと包み込む。


「私では直してあげられないけれど、復元できる者がいる」

「でも、それじゃ母さんの作ったブローチじゃなくなっちゃう」


 ボロボロと涙が零れるのが止まらず、声はつっかえた。


「では守りを施そう。理斗が大切にしているブローチに妖力を込めて、これ以上壊れないようにする」


 ぐすぐすと泣きながらも、これ以上壊れないようにという言葉に理斗は小さく頷いた。


「私の元に来て、もう帰したくない」


 それは甘美な言葉だった。

 泣きぬれた目で遠伊を見上げると、小さく口元に笑みを浮かべられる。

 銀髪が雨に濡れて雫が落ちていても、美しい男だった。


「……いいの?」

「うん、いてほしい」


 優しい声にそれ以上抗えなくて、理斗はまたこくりと頷いた。

 遠伊が攫うように理斗の体を抱き上げる。

 今だけは甘えたいと思い、ぎこちなく首に手を回すと濡れた髪に遠伊が頬をすり寄せた。

 そのまま門の中に入り、玄関へと向かう。

 玄関に入ると、使用人らしき女性がタオルを準備していた。

 顔を隠すように頭にタオルをかけられる。

 それに少しだけほっとした。

 そのまま廊下を進み、風呂場へと連れていかれる。


「立てる?」

「うん」


 ゆっくりと丁寧に下ろされる。


「ブローチは私が預かろう。守りをほどこしておく」


 手を差し出されて、迷ったのは一瞬だった。

 遠伊は無碍には扱わないと思えたのだ。

 そっと手のひらにブローチを乗せる。


「確かに預かった。ゆっくり温まって」


 そっと冷えた頬を一度撫でられて、遠伊は脱衣所から出て行った。

 離れていった体温に心もとなくなったけれど、震えている体が限界を迎えて理斗は服を脱いで風呂へと入った。

 なんとか落ち着くまでゆっくりと湯舟に浸かって風呂を出ると、いつかのように使用人が待っていて案内された。

 襖を開けると、いつも食事をする部屋ですでに遠伊が待っていた。


「落ち着いた?」

「うん、ありがとう」

「食事をとっていないと思ったから用意させた」


 使用人に促されて、遠伊の向かいに腰を下ろす。

 運ばれてきたのは、遠伊はいつものような懐石料理だったけれど、理斗の前にはおじやが置かれた。

 ほこほこと温かそうな湯気に、体を温める気遣いだと思い至ると胸の奥が温かくなった。

 いただきますと食べ始める。

 食べるたびに体の内側も温まって、ここに来た時とは比べ物にならないくらい落ち着いていた。

 黙々とそれからは食事をして食べ終わると、お茶が運ばれてきて一息ついた。

 そうなると、着の身着のまま飛び出したことで、これからどうしようと不安になる。

それを見透かすように、遠伊が口を開いた。


「これからはここで生活をして。学校は転校手続きをする。バイトも、もう行く必要はない」

「え、でも……」


 突然そう言われてもとまどってしまう。

 そこまでしてもらっていいのかと。


「蛇河原秋人の花嫁から、理斗の事情は聞いている」

「春から?」


 いつのまに。

 もしかして最初に会ったときに一緒にいたからだろうか。


「あの家の環境は理斗にとってよくない。高校も残り一年、ちゃんと通わせる保証もない」


 そう言われれば、納得できてしまう。

 このままだと確かに叔父の家に戻っても、卒業を待たずに働きに出される可能性がある。


「でも」


 ふんぎりがつかずに口ごもると、そっと右手をとられた。


「甘えて」


 形のいい唇がそっと手の甲に落とされる。

 金色の目にじっと見つめられた。

 その目はずるいと思う。

 何度もほだされた眼差しだ。

結局理斗は頷いてしまった。

そのあとは部屋に送ると言われたので、またあの客間かなと思いながらついて行った。

遠伊の部屋の隣。

襖を開けると、そこは洋間になっていて驚いた。

アンティークらしい調度品が並び、奥には大きなベッドもある。

どう見ても以前と同じ部屋には見えなかった。


「畳の部屋だったよな?」

「洋間の方がいいかと思って、次に理斗が泊る時用に準備していた。和室がいいなら」

「このままで!」


 みなまで言わせず理斗は声を上げていた。

 うっかり和室がいいなんて言えば大改装されそうだ。


「理斗これを」


 そっと右手を取られて手のひらに乗せられたのは、母親のブローチだった。


「守りをほどこした。もう壊れることも汚れることもない」

「……ありがとう」


 うまく笑えず、泣き笑いになってしまった。


「……これ、持ち歩かずに大切になおしておくよ。無くしたら怖かったけど、家に置いておくのも心配で持ち歩いてたんだ」


 ここなら、きっと大事にしまっておける。


「なら、あとで入れておける箱を準備しよう」


 気をまわしてくれるのが嬉しかった。


「おやすみ」


 そっと額に口づけられる。

 柔らかな感触に額を押さえると、そのあいだに遠伊は部屋を出てしまった。

 じっとそのまま立っていると使用人がやってきて、ひとつの飾り箱を遠伊からだと渡してくれた。

 朱塗りに鈴蘭の描かれたそれはとても高そうで、およそボロボロの手作りブローチを入れるようなものではない。

 それでも理斗はそっと箱の中にブローチを入れて蓋を閉めた。


「……胸の奥がふわふわする」


 その夜は安心して深く眠れた。

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