第6話

 車の窓から見える外はしとしとと雨が降っている。

 梅雨に入ったせいだ。

 今理斗が乗っているのは遠伊が手配した車だ。

 あの頑固な眼差しに押されまくって、送迎を了承してしまった。

 初日だけのつもりだったのに。

 家の近くで車を止めるというのが絶対条件だ。

 そしてバイト帰りの送迎は必ず遠伊も車内に一緒だった。

 仕事が忙しいのではと思ったけれど、問題ないと言われてはそれ以上口出しができない。

 ぐっと膝に置いてある鞄の上の両手を握りしめて唇を引き結ぶ理斗に、遠伊が「どうした?」と問いかけてきた。

今日は言わなければいけないことがある。

 意を決して鞄を開けると、理斗は先日渡されたばかりの携帯を取り出して遠伊に差し出した。


「やっぱりこれ返す」

「何故?」


 携帯を受け取ろうとせずにまっすぐ見つめてくる遠伊に、理斗はなんと言おうかと一瞬瞳を揺らした。

 沈黙が車内に落ちるけれど、それを断ち切ったのは遠伊だった。


「私は理斗といつでも連絡をとれるようにしたい」


 言われた言葉に、理斗は困ったように眉尻を下げた。

 情けない表情をしている自覚はあるけれど、今から言う言葉も情けないんだよなと内心落ち込む。


「……あんたメッセージくれるだろ」


 こくりと遠伊が頷く。

 車の窓ガラスから入ってくる外の明かりだけが薄暗い車内を照らしている。

 そんな薄暗がりに白銀の髪はよく目立った。


「俺、スマホよくわかんないから返事のしかたもわかんないし……せっかく貰っても使いこなせないから」


 実は今まで遠伊からのメッセージに返事をしたことはない。

 電話はまだかかってきたことはないけれど、出かたもいまいちわからない。

 結果的に遠伊からの連絡をすべて無視していることになる。

 それは貰っておきながら不義理ではないかと、心苦しさでいっぱいだった。


「すまない、失念していた。はじめて持つなら当然だ」

「いや、まあ、持ったことない方が珍しいだろうし」


 遠伊のせいではないと言えば、一瞬遠伊は考えるそぶりを見せた。


「明日の土曜日は空いている?」

「家のこと終われば三時くらいには」


 休みの日は掃除を徹底的にするように言いつかっているので、そんなに自由時間があるわけではない。

 すると一気に遠伊の眉間に皺が寄り、機嫌が急降下したのがわかった。

 瞳がきゅっと細められる。

 しまったと思って慌てて理斗はパタパタと何でもないように、あいている方の手を振った。


「いつもやってることだから!」


 ますます剣呑な空気が漂ってしまった。

 どうすればいいんだと背筋に冷ややかなものが走ったけれど、遠伊が何とか飲み込んでくれたらしく小さく嘆息した。


「……わかった。明日はうちへ来て。使い方を教えるから」

「え! いやでも」


 返せばそんな手間もいらないのにと思ったけれど、突き出した携帯を見て遠伊は首を振った。


「私は理斗に持っていてほしい」


 はっきり言われてしまう。

 これは引かないぞと短い期間の関わり合いでも、察することが出来た。

 結局理斗はため息をつきながら、わかったと携帯を引っ込めるしかなかった。

 そして土曜日は家の近所に迎えが来て、少し慣れてきた車に乗り込む。

 当たり前のように遠伊もいたけれど、その恰好はいつものスーツではなかった。

 一日休日だったのか、いつもよりラフな服装だ。

 少し堅物な雰囲気のあるいつものスーツより、ガードが下がって見える。

 見たことのある浴衣姿ともまた違って、心臓が跳ねたのは内緒だ。

 遠伊の邸について案内されたのは、はじめて見る洋間だった。

 美しい折り目の絨毯が敷かれ、アイボリーの座面が広い大きなソファーが置いてある。

 今まで見た外観も室内も和風だったため、洋間があることに理斗は驚いた。

 けれどまあ広い邸だしなとある意味、納得して気にしないことにした。

部屋に招き入れられてソファーに促される。


「理斗スマホを出して」


 言われて携帯を出しながらソファーに近づくと、腕を取られた。

 そのままポスリと座らせられるけれど。


「ひえ」


 それは遠伊が座った足のあいだだった。

 座面が広いので窮屈ではないけれど、後ろから密着して抱きかかえられるような恰好だ。

 慌てて立ち上がろうとしたけれど、腹に手がまわってそれを阻止された。

 服越しの体温が意外とハッキリ感じられて一気にソワソワしてしまう。


「な、なんでこんな体勢なんだよ」

「この方が説明しやすい」


 絶対に嘘だ。

 けれど携帯を持つ手に遠伊の手が添えられて、もう片方の手が腹から手を離して画面に指を滑らせた。

 長い指がそのままタップを何度かする。


「文字の打ち方から教えよう」


 体勢を変える気が微塵も感じられない。

 ここでモダモダとごねても、この体勢が長引くだけのような気がする。

 観念したけれど体は緊張させたまま、理斗は唇を尖らせて早く教えてと言った。

 そして文字の打ち方、アプリやネットの扱い方を教わっていく。

 けれどなかなか集中できない。

 耳元で喋る声と吐息に、意識をとられてしまう。

 けれどそうなると大人しくしていられそうにないので、理斗は必死で考えないようにしていた。

 意識してしまうと叫び声を上げて逃げ出しそうだ。


「理斗?」

「ふわ!」


 必要以上に携帯の画面に集中して遠伊の声を聞き逃していたらしい。

 さっきまでより声が近い。

 耳にかすかに触れるものが遠伊の唇だと気づくと、理斗はいたたまれずにうつむいた。

 その耳をふいにかぷりと唇で甘噛みされる。


「ひゃっ」


 肩が思い切り跳ねた。

 すぐに離された耳を手でかばって無理やり遠伊へと振り返る。


「何するんだ!」

「赤くなっているのが可愛くて」


 じわじわと耳が熱をもっていたことは自覚しているけれど、指摘しなくてもいいじゃないかと思う。

 それも真顔で言われるから、たちが悪い。


「もう!からかうなよ」


 遠伊を睨みつけると、無理やり腕から抜け出して理斗は素早くソファーから立ち上がった。

 遠伊も意外とすんなり離してくれたので、若干の距離をとって隣に座りなおす。

 耳は押さえたままだ。


「すまない、休憩にしよう」


 いっそ終わりにしてくれと思ったけれど、すぐに扉がノックされた。

 入ってきた使用人がテキパキとお茶の準備をしていく。

 タイミングがよすぎるだろうと思うけれど、この家にいるのはみんなあやかしなのだろうから、深く考えるのはやめておいた。


「うわ、綺麗」


 テーブルに並べられたのはこの家にしては珍しいティーカップだった。

 それと飾り切りされたメロンがふんだんに載ったケーキ。

 瑞々しいその果実は見慣れない理斗には美しく見えた。

 遠伊がティーポットからお茶を注ぐと、飴色の紅茶から香りが立ち上がる。


「果物ってほとんど食べたことないや」

「君の食生活はそんなに酷い?」

「え?」

「痩せているのも、そのせい?」


 理斗は答えに窮した。

 言われたことは図星だ。

 食事はほぼ残り物。

 朝は家事に時間をとられるから食べる時間がないことが多いし、昼はそもそも食事をする習慣がない。

 けれどそんなみずぼらしい食生活は、進んで口にしたいことではない。


「教えて」

「教えるほどじゃ……」


 口ごもっていると、するりと頬を少し体温の低い手で挟まれた。

 顔を覗き込まれ、鼻が触れそうな距離で金色の目が見つめてくる。

 吐息が唇にあたるのが、くすぐったさと恥ずかしさで体が固まった。


「教えて」


 こんなの陥落するしかない。


「わかったから!叔父一家の残り物だよ。基本的に一日一食」


 あわあわしながら何とか言い放てば、遠伊の眉間に力が入った。

 瞳に剣呑な色が宿る。


「……君をこの家から帰したくない」

「いやそれは……十八だけど学生だし、一応保護者だから」


 逃げられるものなら逃げたいけれど、現状どうにもしようがない。

 高校を卒業後、進学は絶望的なので働いてあの家を出るのが理斗の目標だった。


「君が手を伸ばしてくれるのなら、私はいつでもそのつもりがある」


 真っ直ぐな言葉は真摯だ。

 嘘や軽口を言う人となりではない。

そんなことを口にしないと短い時間でもわかる。

だから本心だと確信できるけれど、その甘美な誘惑に理斗はこくりと喉を鳴らした。

これはいけないと脳裏で警報が響いている。


「大げさだな。大丈夫、平気」


 何とかへらりと笑って見せると、遠伊が小さく嘆息して頬から手を離した。

 温もりが離れたことに少しほっとしてしまう。

 この男の触れ方は心臓に悪い。

 遠伊がテーブルに載っているフォークを手に取ると、ケーキを一口大に切って理斗の口元へ差し出した。


「あの」

「食べて」

「自分で」

「君に色んなものを食べさせたい」


 ずいとフォークがさらに近づけられる。

 じっと見つめる瞳は引く素振りがない。

 理斗はケーキと遠伊を見比べたあと、ううと呻いてからおそるおそるケーキを口に入れた。

 口の中に控えめでサッパリとしたクリームと瑞々しいメロンの甘さが広がる。

 甘いものなんて小さい頃以来だった。

 思わず口元が緩やかに弧を描く。


「おいしい」

「よかった」


 ふわりと遠伊が微笑んだ。

 嬉しそうに笑うと、作り物のように美しい顔が人間味を帯びてくる。

 その表情は甘やかで、理斗の心を落ち着かなくさせた。


(俺が食べただけで、そんな嬉しそうな顔しないでほしい)


 なんだかおもはゆい。

 大切にされているのだろうとは思っている。

 けれど大切にされることに慣れていない理斗は、いつもどうしていいかわからなくなるのだ。

 大きな声を上げて転げまわりそうになるし、逃げ出したくなる。

 ケーキをまた遠伊に差し出され、そんな気持ちを必死に抑えながら理斗は仕方なくという表情で口を開けた。

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