第四章

第1話 覚醒

 そこは地獄だった。

 壁の彼方此方には乾き切った赤黒い跡が点々と残り、床には何かを引き摺ったような痕がついている。

 ステンレス製の台には皮のベルトが付いており、そこにはタールのようなものと、赤黒くなった蠟のようなものがこびり付いていた。

 一見すると解剖室だが、明らかに医療を目的とした場所とは違う。

 

 これは殺戮の跡だ──。

 

 佐伯の体はがくがくと震えた。

 心拍数が上がり、息が荒くなっていく。

 いつの間にか口元を押さえていた手は外れ、室内の空気を肺一杯に吸い込んでいた。

 耳に届くのは風が揺らす葉の音だけなのに、頭の中では悲鳴と命乞いする声が鳴り響く。

 目を閉じても、暗がりに見えるのは白い肌。

 恐怖を湛えた瞳。

 そこからこぼれ落ちる涙。

 ひくつく白い喉に触れ、ぎゅうっと力を入れる。

 喉仏が折れる感触。

 命を征服する興奮。

 自分の手の中で、命が消えるその瞬間の美しさよ──。

 脳を振り回されるような浮遊感に立っていられない。

 目も回る。眼振でも起きているかのようだ。

 佐伯は胃液を吐いた。

 頭が割れそうに痛い。

 汚れた床に転がり、浅い呼吸を繰り返す。

 苦し紛れに床を引っ掻く指に、べったりと何かが付いた。


 ああ──これは──。


 知っている。

 覚えている。


 これは、人間の脂だと──。

 自分が殺した、人間の──。


 

 佐伯は意識を失った。



 

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