第6話 既視

 夕方、佐伯は葛西橋を出てバス、電車を乗り継ぎ、あのマップの場所へと向かう。

 この所日が短くなってはいるが、やはり人の目が気になり、途中でキャップと伊達眼鏡を買い、俯きながら移動した。

 「夕焼小焼」と言うバス停で降り、そこからは徒歩で歩く。

 道の両側には背の高い草や木々が生い茂り、わずかな風がそれらを揺らしながら湿った土の臭いを運ぶ。

 申し訳程度の街灯は立っているも、その光は足元を照らすにはあまりに弱く、何度も転がる石に躓いた。

 30分ほど歩いたところで、暗がりの中、ようやく右手にあの門扉が見えた。

 葛西橋から3時間以上の移動である。

 その場に立ち、じっと、門扉を眺める。

 やはり、頭の中でもやもやしたものが動き回る感覚があった。

 更に近づいてみる。マップで見た以上に門扉は錆び、周囲は草だらけだ。

 それでも、しゃがみ込んでよく見ると、タイヤで踏まれて折れたと思える痕が見えた。

 やはり、ここに森崎が来たのだ。

 あの日──。美憂と連絡が取れなくなった日に。

 この向こうに何があるのか。

 マップでは、この門扉の奥まで見る事はかなわなかった。

 佐伯は立ち上がろうとしたが、一度しゃがみ込んでしまうと、一気に疲労感が押し寄せ、立ち上がるのに随分と気力を要した。

 酷く疲れていた。どくだみ茶を最後に、何も口にしていない。空腹も限界だった。

 手には、バスに乗る前に近くのスーパーで仕入れたパンや飲み物もあったが、とりあえず門を超えて向こうまで行ってみることにした。

 門扉は自分の顎の高さまであったが、なんとか乗り越えられそうである。

 幸い荷物はスーパーの袋だけだ。

 柵の間からそっと食品の入った袋を入れ、門扉に手を掛けてよじ登る。

 服が鉄錆で赤く汚れてしまったが、何とか乗り越えることが出来た。

 そして、明かりも何もない真っ暗な未舗装の道を、スマホのライトを頼りに進む。

 すると、いきなり木々が途切れ、開けた場所にたどり着いた。

 周囲はしんとしており、聞こえるのは虫の声だけだ。

 そして目の前には、蔦に覆われ、一見すると背後の木々に紛れて気付かないが、物置のような、コンクリと木壁で出来た簡素な建物が有った。

 佐伯は奇妙な高揚感を感じた。

 ごくりとつばを飲み込み、恐る恐る、時計と反対まわりに、建物の周りをぐるりと歩いてみる。

 建物の側面に、出入口らしき鉄製のドアがあった。しかし頑丈な南京錠が掛かっている。

 そして森に面した建物の裏手には、薄汚れた、かなり大きなポリタンクが置かれ、雨水を貯留していた。

 佐伯は予測した通りの場所に、入り口やタンクがある事を確認し、益々鼓動が早まった。


 ──やはり、自分はここを知っている。


 森崎のスマホに履歴が残っていることから考えても、恐らく、過去に何度も一緒に足を運んでいるのだろうと想像出来た。

 佐伯はふと、先程の雨水のタンクへ戻り、その蓋を開けて手を突っ込んだ。

 冷えた水が、佐伯の筋肉を委縮させたが、それに構わずタンクの側面を慎重に撫でて行く。

 すると、指先が側面から突き出した固いものに触れた。思わず、驚いて手を引っ込めてしまったが、再度慎重に手を入れ探った。

 どうやら先程触れたのは、フックのような物らしい。

 それにはナスカンが掛かっており、それを引き上げると、細いワイヤーの先に鍵がぶら下がっていた。

 何故これがここにあると感じたのか自分でも不思議だったが、第六感とでもいうものだろうか。

 ともあれ、佐伯はそれを外すと、先程のドアに戻り、南京錠に差し込んだ。

 先ほどまで吹いていた風が止み、周囲が静寂に包まれる。まるで森全体が息を潜めているようだ。

 そのせいで、自分の心臓の鼓動がやけに大きく感じる。

 佐伯は息を止め、そっと鍵を回してみる。南京錠は思いのほか大きな音を立て、しかし容易に外れた。

 その瞬間、またも佐伯の身体を興奮の波が駆け上った。

 そして、脳内に次々と映像が浮かび上がる。

 

 薄暗い部屋──。

 白い肌──。

 美しい女の顔──。

 懇願するかのような目──。

 

 だが、次の瞬間、まるでその記憶が霧のように掻き消えた。

 何を見ていたのかすら掴めない。

 佐伯は目を細め、脳裏の映像を再び思い起こそうとするが、もはやその残骸さえ掴むことは出来なかった。

 残っているのは、甘くも危うい、官能的な興奮──。

 脈打つ鼓動が身体中に広がり、理性を覆い隠すかのようだ。その不安定な感覚は、彼を混乱させながらも、どこか心地よく、そして体を熱くする。

 その熱を冷ますかのように、再び風が危機を揺らし、佐伯の肌を撫でた。

 我に返った佐伯は頭を振ると、荒くなった息を整えるべく深呼吸をした。

 

 そして、ゆっくりと軋む鉄のドアを引く。

 その向こうには、まるで何かが潜んでいるかのように、不気味に広がる深い闇が口を開けていた──。


 小屋に足を踏み入れる。

 中は消毒薬の臭いが充満していた。

 思わずパーカーの袖で鼻と口を覆う。

 ドアを閉めると、月明かりひとつ入って来ない。どうやら窓が無いようだ。

 

 佐伯はポケットからスマホを出すと、ライトをつけた。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る