第5話 懐古

 のろのろと森崎のマンションを後にした佐伯は、そこからほど近い、葛西橋の下で夜になるのを待つことにした。

 外はまだ暑かったが、湿気が少ないこともあり、日陰に入ると涼しかった。

 河川敷では子供たちが、子犬のようにじゃれ合い、遊んでいる。

 その楽しげな声が、佐伯を酷く孤独にさせた。

 子供たちを眺めながら膝を抱え、ぼんやりと美憂の事を考える。

 美憂──。


 彼女に初めて会ったのは、5年前の事だ。

 親戚から父親が事故で亡くなったことを聞き、弔問に行った葬儀場で言葉を交わしたのが最初だった。

 10年前に父親が再婚していたのは知っていたし、特別仲が悪かったわけでもない。

 母親が亡くなる前から何かと連絡もくれていたし、森崎によると、事故の1年前に自分が入院した際は、事務的な手続きも父親がしてくれたそうだ。

 しかし、そんな父が自分と同じく脳梗塞となり、それが不運にも運転中であったため、事故を起こして亡くなった。

 あまりに急な事で、それを聞いた時は、ショックと言うより呆然としたと言うのが正しい。

 それは美憂も同様であったらしく、葬儀で見た彼女は、魂の抜けた人形のようだった。

 日を改めて様子を見に行ったのは、義理とは言え妹だと思ったからか、彼女の天使のような美貌のせいだったか。

 今となっては覚えていない。

 当時、美憂は20歳になったばかりだった。

 白い肌と、黒い艶やかな長い髪。大きな目と、それを縁取る長い睫が印象的な愛くるしい女性だった。

 

 ──もう、子供じゃないから大丈夫。

 

 会いに行った日、彼女はそう言ってひとりで生きて行く事を自分に告げたが、やはり心許なかったのか、頻繁に連絡をくれるようになった。

 両親の庇護の下生きて来たのだ。どう生活すればいいのかすら分からなくとも当然だろう。

 それからと言うもの、血のつながりは全くないとは言え、お互いに兄、妹として付き合って来た。

 連絡はいつの間にか毎日となり、それが互いに「家族」がいると言う、心の拠り所になっていたのだろうと思う。


 ──苗字も同じだから、本当の兄妹みたいよね?

 

 美憂はことある毎にそう言って嬉しそうに笑った。

 亡くなった佐伯の母は、父と離婚した後も佐伯姓を名乗っていた。その為、こうやって美憂と同じ佐伯と名乗ることが出来たのだ。

 これまで一人っ子だった美憂は自分に甘え、自分も、子供のように甘えて来る10歳下の美憂が愛おしかった。

 一緒に買い物に行ったり、くだらない事を話したり、そんな些細なことが嬉しかった。

 これが兄妹と言うものなのだろうか。

 これまで自身も一人っ子だった佐伯は初めての感情に戸惑ったが、それでも間違いなく、美憂は家族だった。

 

 美憂──。

 無事なのか──?

 

 ふと、思い立ちスマホを取り出す。

 美憂を探さねばならないが、闇雲に動くのは危険だ。

 先ずはこれからどう動くべきか。少し考えておいた方が良いだろう。

 佐伯はマップアプリを開いた。

 自分の位置が青く点滅している。葛西橋の下だ。

 周囲を把握する為ピンチする。

 すると、色々なところにマーカーが付いていた。

 そこには、これまでに訪れた回数や、最後に訪れた日が記録されている。

 佐伯は、いくつかその詳細を確認してみた。

 森崎と一緒に行った美術館。

 森崎と映画を観に行ったシネマが入ったビル。

 森崎とよく出掛けたカフェはもう何十回と言う履歴が付いていて、思わず笑ってしまった。

「ここで森崎さんの真似をして、コーヒーをカスタマイズすることを覚えたんだよな……」

 森崎と出会ったのはいつだっただろう。

 佐伯は学生の頃から小説を書くのを趣味としていて、インターネット上にある小説サイトへ投稿していた。

 それは今も変わらない。

 書くのは主にミステリやサスペンスだが、時にホラーなどを書いて公開することもある。

 脳梗塞で倒れる前の記憶が少々曖昧なのだが、森崎によると、10年以上前にWEBで公開していた作品を目にし、森崎が佐伯に声を掛けたのが始まりだったと言う。


 ──いろんなところに二人で出掛けたりしたんですよ? また、一緒に出掛けましょうね。

 

 入院中、森崎はそう言っていつもの優しい笑みを浮かべていた。

 だから信じられなかった。

 美憂の着信音が──いや、まだハッキリと決まったわけではない。何もわかっていない。

 森崎が美憂の失踪に関わっていると考えるのは早計だ。

 そもそも失踪したどうかすら──頭が混乱してきた。

 ともあれ、美憂のスマホが、森崎か氷室の車のどちらかに乗っていると言う事は確かだ。

 でもなぜ──?

 森崎が自分を騙すなんて有り得ない。

 いや違う──。

 そんな風に考えたくないだけだ。

 彼の優しさを知っているからこそ、自分の疑念を受け入れられないのだ。

 でも──。

 

 ボンと膝にボールが当たって、佐伯は我に返った。

 顔を上げると、先程の子供たちが手を振っている。

 ボールを返して欲しいと言う事らしい。

 佐伯はそっとボールを転がすように戻してやった。

 ゆっくり深呼吸をする。

 とにかく、夜になったら美憂のアパートへ行ってみよう。それからだ。

 佐伯はスマホのマップを更にピンチしてみた。

「あ、広げすぎ──」

 その時、かなり広域をカバーした地図の山中にマーカーが立っているのが目についた。

 八王子市の醍醐川沿いである。

 ウォークスルー機能を使ってみる。

 すると、そこへ行くためには車一台がやっと通れるような山道上り、木々の間にひっそりと存在する脇道を行かねばならないようだが、その入り口には鉄の門が立てられ、立ち入れないようになっていた。

 しかし、そこへは10年近く前から頻繁に訪れた痕跡がTLに残されている。

 佐伯はもう一度ウォークスルーの画像を見てみた。

 右も左も、鬱蒼とした木々に囲まれ、空すらもまともに見えない。

 鉄製の門扉は赤茶色に錆び付き、チェーンを巻き付けた上に鍵が掛けられている。地面は草が伸び放題となっており、日常的に出入りしている風ではない。

 佐伯は頭の中で、なにかどろりとしたものが渦巻くような奇妙な感覚を覚えた。

 そして激しい冷や汗と動悸──。皮膚の下を蛇が這っていくような気持ち悪さも。

 ひょっとして、自分はここを知っているのではないか。

 もう一度履歴を見る。

 10年前と言うと、佐伯と森崎が出会った頃である。

 自分は病気の後遺症でいくつかの記憶が抜け落ちているが、森崎と一緒に、ここへ何度も来ているのだろうか。

 その時、最終訪問の日付にはっとした。

 美憂と連絡が取れなくなった日だ。

 その日、森崎はここへ行っている。

 

 まさか──。

 

 佐伯は震える手で、この場所へのルート確認を始めた。


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