第2話 安堵
「起きたか」
まだ薄暗い早朝。
佐伯が目を覚ますと、みかんの缶詰の空き缶に入れられた、泥水のようなものを差し出された。
「これは……」
「どくだみで作った茶だ。葉っぱを避けて飲みな。体にいいぞ」
日焼けと垢で黒くなった顔を綻ばせ、男は自らもその茶を飲んだ。
50歳だと本人は言うが、この生活のせいか、まるで老人のように見える。
受け取って臭いを嗅いでみる。意外にも嫌な臭いはなかった。
病院を抜け出してから何日目だったか──。
気付けばこの河川敷にたどり着いていた。
疲れと空腹で動けなくなっていると、橋の下で生活しているこのホームレスの男に拾われた。
昨日の事だ。
男は何も聞かず、佐伯に自分の食べ物を与え、寝床を与えてくれた。
自分も腹が減っているだろうに、気にするなと言って食べさせてくれた。
おかげで生き返った気分だ。
とは言え、このままこうしている訳にもいかない。
脳裏に浮かんだのは、妹、美憂──。
毎日同じ時間に連絡をして来たのに、ある日突如としてそれが途絶えた。
数日前から、誰かにつけられているような気がすると口にしていた美憂。
何かあったのだ。
良くない何かが。
佐伯は、茶を啜った。
温い茶が、体の中を流れて行く。
「っつ……」
頭が痛い。
ここ最近また毎日のように奇妙な夢を見る。
自分の小説を映像化したような、そんな夢を繰り返し見るのだ。
以前はそれを文章にすることもあったが、なぜあれ程にリアリティがあるのだろう。
震え、怯えながらも自分へと向ける視線。
手に伝わる体温。
顔に飛び散る血の温度。
そしてその鉄臭く、少しとろりとしてしょっぱいような味すら──。
──そんなに美味いか。
「えっ?」
「そんなに美味かったかって言ったんだ。幸せそうに舌なめずりなんかしやがるから」
無意識だった。
佐伯は苦笑いを浮かべると、一気に茶を飲み干し、これからの事を考えた。
先ずは美憂のアパートへ。
いや──。
佐伯は親友の顔を思い浮かべた。
自分は警察に追われている。そんな状態で美憂を探し回る事など不可能でしかない。
森崎は自分を作家として誰よりも買ってくれている有能な編集者であり、兄のような存在であり、親友だ。そしてパトロンでもある。
佐伯が可能な限り執筆に集中出来るようにと家を用意し、取材が出来るように車を用意し──。
バイトは続けているとはいえ、彼のお陰で何不自由なく暮らせている。
ここは彼に事情を話し、助けを乞うべきだろう。
自分は警察に追われるような事など何ひとつしていない。
何かの間違いなのだ。
ハメられているのだと。
「オヤジさん、俺行くよ」
佐伯は男に礼を言うと立ち上がった。
そして、自分の耳に付いていたピアスを外すと、男に手渡す。
「その小さい石、一応ダイヤらしいんだ。質屋に持って行けば酒代ぐらいにはなると思う」
* * *
佐伯は人通りの少ない道を選びながら歩き続けた。
タクシーは緊急配備で顔写真が回っている可能性があり使えない。
また、ホームレスに貰った服のお陰で病院の寝間着ではないものの、薄汚れた姿は人目を引く可能性がある。
まだ朝早いこともあってあまり人とすれ違う事はなかったが、俯いて歩き、自販機を見つければ釣銭払い出し口やその周辺を探る。
とにかく、森崎へ連絡出来るだけの金を集めたかった。
森崎の番号は名前を文字に置き換えたものとしていた為、彼の名前さえ忘れなければ連絡を取ることが出来る。
森崎の「も」であれば、「ま行」の「5番目」と言った単純なものだ。
10台をとうに超える自販機に手を突っ込んだ時、うまい具合に自販機の下から100円を拾うことが出来た。
それまでに拾った10円と合わせ、110円ある。
これなら、場所を伝え、迎えに来てもらう事が出来るかもしれない。
その後公衆電話を探すのに骨が折れたが、なんとか1台の公衆電話にたどり着くことが出来た。
周囲を窺いながらプッシュする。
『はい──』
怪訝な声の応答でありながら、佐伯の心は喜びに打ち震えた。
森崎の声を聞いただけで助かったとすら感じた。
「森崎さん!」
受話器の向こうで息を呑む音が聞こえた。
『徳井先生? 徳井先生ですね? 大丈夫ですか! 一体何が起きてるんです? ああ、怪我はないんですか? 今どこです?』
森崎が矢継ぎ早に聞いて来る。
しかし、こうしている間にも、話せる時間は刻々減っているのだ。
佐伯は電話ボックスの脇を歩いていく人から顔を隠しながら言った。
「ゆっくり説明するだけの時間がありません。今葛飾にある新小岩公園の公衆電話です! 蔵前橋通りに面した──。迎えに来てもらえませんか? 話はそれから!」
『分かりました! そこから動かないで! 直ぐに行きます!』
「おねが──」
通話が途切れた。
ギリギリだった。
振り返ると、電話ボックスが見える所に公衆トイレがある。佐伯はそこで森崎を待つことにした。
* * *
森崎が現れるまでの20分程の時間は生きた心地がしなかった。
トイレに入ってくる人全てが私服警官に見えて来るのだ。
そんな中ちらちらと、トイレから見える公衆電話を何度も確認する。
すると、遠目にも分かる、仕立ての良いスーツを着た長身の男が現れた。森崎である。
「森崎さんッ!」
「徳井先生!」
佐伯は森崎に駆け寄った。
その佐伯の背に手を回すと、森崎は「こっちへ!」と庇うように国道の方に誘導する。
そこには森崎の自家用車が止まっていた。
「後ろのシートへ! そこに服が入ってます。着替えて下さい」
言われる通り、後部座席へ滑り込む。そして、そこに無造作に置かれたパーカーに袖を通した。
「一体何がどうなっているんです? 何故あなたが警察に追われているんですか」
車をスタートさせると、森崎はルームミラー越しに佐伯に言った。
「分かりません。森崎さんが譲ってくれた車からルミノール反応が出たと言われました。でも──」
「覚えがないんですね?」
勿論ですと佐伯は身を乗り出した。
「誰かにハメられたとしか思えない!」
どさりと、佐伯はシートに体を預けた。
車の中は森崎が使っている香水の匂いがする。確か、ダンヒルの『エディション』と言ったか。
佐伯はその香りを深く吸い込み、漸く安全な場所にたどり着いたのだと実感した。
その途端、鼻の奥がツンとしてくる。
「妹と──。妹と……連絡が取れないんです……」
掠れた声でそう言うと、ぽろりと涙が零れ落ちた。
パーカーの袖口で押さえるように拭う。
「妹さん……。あの、義理のと言うか……」
ミラー越しに森崎と目が合うと、佐伯は頷く。
「きっと何かあったんです。無事を確かめたい」
森崎は暫し逡巡したが、分かりましたと答えた。
「とにかく、一旦私の家へ行きましょう。徳井さん、頭を下げていて下さい。信号が赤に変わります」
停車中に人目に付くことを危惧したようだ。
佐伯はシートへ横になると目を瞑った。
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