第3話 急襲
「有難うございます」
佐伯はバスルームから出ると、そう言って頭を下げた。
江東区東砂にある森崎のマンションは地上15階建ての高級マンションで、リビングルームと隣接したベッドルームからは、僅かながら東京湾を見ることも出来る。
部屋はリビングの他に3つあり、当初森崎は一緒に住んではどうかと言ってくれたが、それを遠慮したところ、別宅を使ってくれと今の家を用意してくれたのだ。
佐伯も何故それほどの資産が森崎にあるのか詳しくは知らないが、本人曰く、株で成功したのだと言う。
とは言え、何故そこまで自分に尽くしてくれるのか──。
嬉しくもあるが、それ以上に不思議で、佐伯は何度も森崎に聞いた事がある。
しかし彼はいつでもこういうのだ。
──礼など要りませんよ。私は徳井さんに心酔しているんです。勿論、佐伯郁門と言う人間にも。
──だから、させて欲しいんです。
「お腹が空いているでしょう。簡単な物しかありませんが」
森崎はそう言って、佐伯をダイニングテーブルへと促した。
パイン材のテーブルの上には、トースト、ハムエッグとサラダ、そしてヨーグルトとコーヒーが2人分並んでいる。
佐伯はダイニングチェアに腰を下ろすと、「すみません」と言おうとして、覗き込む森崎と目が合った。
「すみませんは言わない約束です」
「──そうでした。有難うございます」
「はい」
森崎はそう言ってほほ笑むと、向かいの席に腰を下ろした。
何くれと佐伯の世話を焼いてくれる森崎に、佐伯は当時「有難う」と同じ意味合いで「すみません」を使っていたが、森崎はそれを嫌った。
嬉しいと思ってくれるなら、「すみません」ではなく、「有難う」と言って欲しいと。
「ああそうだ。このスマホを使ってください。それから念の為バッテリーも」
トーストに噛り付いていると、森崎が1台のスマホとバッテリーを差し出した。
「役に立つはずです。私の社用スマホの番号も登録してあります。それから──」
「有難う……ございます」
「どうしました?」
急に顔を歪めた佐伯に、森崎は狼狽えた。
佐伯は形の良い唇をひん曲げ、俯く。
「何か気に障っ──」
「違うんです!」
佐伯は森崎の言葉を遮った。
その目からはぼろぼろと涙が零れ落ちて行く。
森崎はティッシュを取りに立ち上がると、佐伯の隣に腰を下ろして優しく言った。
「どうしたんですか?」
「なんだか……昨日から人の優しさが身に染みて」
佐伯は、河川敷のホームレスの話をした。
森崎は隣で静かにそれを聞くと、そうでしたかと、そっと佐伯の背をさする。
「いい人で良かったですね」
佐伯は小さく何度も頷いた。
「森崎さんも──」
「私の事は良いんです。そうだ。妹さんに連絡を──」
そう言う森崎の声に被さるようにインターフォンが鳴った。
時刻は11時になろうかと言う頃である。
「誰だろう」
森崎は立ち上がるとインターフォンへと向かった。
幾つか言葉を交わすと、直ぐに慌てた様子で戻って来る。
「徳井さん。良く聞いて下さい」
戻って来た森崎は、徳井に言い聞かせるように言った。
「刑事が来ました。氷室と言う男です」
「えっ……」
「逃げて下さい。あの男が部屋に入るまで、外階段に隠れて」
そう言うと、森崎は自分の財布からあるだけの現金を引っ掴み、佐伯に握らせた。
「森崎さ──」
「ここは何とかします」
森崎は真っすぐに佐伯を見つめる。
佐伯は頷くと、玄関のドアを開け、外へ出た。
「後で連絡します」
「森崎さん」
不安だった。でも、捕まる訳にはいかない。
今捕まったら、間違いなく自分は罪を着せられる。
佐伯は強く頷くと森崎に背を向けた。
「徳井さん!」
突然、森崎にぐっと腕を掴まれ、佐伯は振り返った。
「解決して。また一緒に本を出しましょう!」
有難う。そう言うと、佐伯は外階段へと走った。
* * *
部屋に戻ると、森崎はテーブルの上の佐伯の分の食事を、自らの腕で攫い落すようにして、食器ごとゴミ箱に入れた。
そして下着姿になると、ソファに掛けてあったシャツとデニムパンツを身に着ける。
それとほぼ同時に、インターフォンが鳴った。
「すみませんね。朝早くから」
部屋に上がるなり、氷室はそう言って森崎の目を窺うように見た。
その視線に森崎は背中がぞわりとしたが、視線を外すとリビングダイニングへと氷室を案内する。
「朝食中でしたか?」
氷室は不躾に部屋の中を観察し、ダイニングテーブルの上の、ひとり分のハムエッグやトーストをちらと見る。
「ええ。もう朝食と言うよりもブランチですがね」
「シャワーも浴びて?」
冷水を浴びせられた気分だった。
ダイニングチェアの背に、徳井が使った湿ったバスタオルを掛けっぱなしにしていたのだ。
「今日はどういった御用でしたか」
森崎は敢えてゆっくりとバスタオルを回収すると、氷室の質問に答えず質問で返した。
「いい部屋ですね。向こうに見えるのは東京湾ですか」
氷室はリビングの窓から外を眺めている。
ここは最上階だ。外を眺めたところで、地上は確認出来ない。それでも氷室が外を眺めていると落ち着かなかった。
「ご用件は?」
森崎がもう一度聞く。
氷室はくるりとこちらを振り返った。
「今朝ほど本庁から面白い話を聞いたので、森崎さんにも教えて差し上げようと思って。
朝食もそこそこに駆け付けた次第です」
「面白い話?」
氷室はダイニングチェアを引くと、そこに腰を下ろした。
しかし、おやと言う顔をすると立ち上がる。
そしてチェアを指差した。
「こちら、森崎さんの席でしたか?」
「え?」
「いや、食事はそちらの席に用意されているので、こっちは空いているのかと思ったのですが、温もりが残っていました」
ゾッとした。
森崎は、氷室と言う男を恐ろしいと感じた。
しかし、ふっと笑って見せる。
とことん、白を切るつもりだった。
「氷室さんがいらして、着替えるのにそこに腰を下ろしていましたからね。それまで下着姿でしたので」
「ああ、男のひとり暮らしだと、パンツ1枚でウロウロしてしまいますからね。私なんかも──」
「面白い話とは何なんですか?」
森崎は氷室の話を遮って言った。
いつまでも綱渡りの会話をしていてはボロが出る可能性がある。氷室には早く出て行って欲しかった。
佐伯が逃げるだけの時間を稼げればいいのだ。
「気になります?」
氷室はテーブルに寄りかかると腕を組み、顎に触れた。
モデルのようなポーズ。
余裕の笑み。
「氷室さ──」
「佐伯が乗っていたあの車、あなたの物だそうですね」
心臓を叩かれたような気分だった。
「違うんですか?」
「……お譲りしたんです。取材用に」
氷室はへぇと言うと、森崎を覗き込む。
自分の香水と同じ匂いがした。
「随分と気前がいいんだな、森崎さんは」
「何が……仰りたいんです?」
「いや?」
そう言って氷室は肩を竦める。
そしてスッと真顔になると言った。
「ひょっとして、自分の罪を佐伯に擦り付けようとしてるのかなと思ってね」
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