第二章
第1話 心酔
翌日──。
氷室が登庁して間もなく、始まるぞと言う声が上がり、捜査一課に置かれたTVの前に捜査員が群がった。
画面には、稲妻のような激しいフラッシュの中、会議室へ入って来る警視総監を始めとする上層部、そして森永が映っている。
『総監! 凶悪犯が逃走したと言う事ですが!』
『どう責任を取られるおつもりですか!』
『犠牲者が増えたらどうするんですか!』
『都民へ、国民へ説明をお願いします!』
『まずは謝罪でしょ! ねぇ、警部!』
森永の顔は照明でより一層白くなっていた。
奥歯を噛みしめているのが画面を通しても分かる。
『この度は……大変、申し訳ございません──』
総監の謝罪に合わせ、全員が両手を腿の横で握りしめ、深々と頭を垂れる。
特に、責任者である森永をハチの巣にでもするような勢いで、再び激しいフラッシュの嵐が起きた。
森永の拳がぶるぶると震えているのが見える。
プライドが高く、氷室以上に完璧主義の森永にとって、これがどれ程屈辱的な事か──。
集まった捜査員に交じってモニターを見ていた氷室は痛いほど分かった。
見るに絶えず、モニターから目を逸らし、小さく息をつく。
「──お前が帰った後でよかったよ」
そう言うと、氷室は隣ですっかり顔色を失っている翔平の肩を掴んだ。
幸いと言うべきか、佐伯が逃走したのは交代要員が翔平と交代してからの事だった。
鎮静剤を追加して貰ったはずだが、恐らく看護師が部屋を出ると同時に自己抜去したと思われる。
交代した捜査員はそのまま病院に留まる羽目となった。
詳細は捜査員の意識が戻ってからになるが、何らかの異変を感じた捜査員が病室に入った所を、佐伯に点滴スタンドでこめかみを一撃にされたのではないかと言われている。
昼食を運んで来た看護師により病室で伸びている捜査員が発見され、直ぐにCTに掛けられたところ、頭蓋骨骨折及び、脳挫傷が認められた。
彼は今も意識不明でICUにいる。
中継では、森永が神妙な面持ちで逃亡に至った経緯を説明していた。
勿論全てではない。よくよく聞けば、三分の一は『現在鋭意捜査中』である。
その間中、記者たちはフラッシュを焚き、眩しさに目を眇めるしかない森永の顔を撮った。
そうやって切り取られた森永の表情は、それが警視庁の姿勢かのように書き立てられ、歪んだまま、悪意を持って拡散されるだろう。
氷室はポケットからスマホを出し、SNSを開いた。
既に『警視庁大失態』、『殺人犯逃走』、『サイコパス』等がトレンドに上がり、TVやネットニュースの画像が切り貼りされて拡散されている。
これらは想像を超える速さで広がり、尾ひれが付くのだ。真実が一体なんだったのか分からなくなる程に。
サイコパス──。
氷室は『サイコパス』と入力して検索してみた。
沢山の結果が上がってきたが、サイコパスは『反社会性パーソナリティ障害』とも呼ばれ、他人に対する共感や罪悪感が欠如していることが特徴である。と言うのが主たる見解と言っていいだろう。
まるで病気か何かのようだと思いながら、今度は『徳井呰鬼英』と検索する。
徳井呰鬼英(トクイサキエ)
日本の小説家。覆面作家。特にホラーやミステリー、サスペンスなどの作品で知られている。代表作には──。
その後には、徳井の作品や彼の作品の特徴などがつらつらと書かれているが、それらは氷室にとって釈迦に説法だった。
何故なら、徳井は売れっ子ではないが、氷室は徳井のデビュー当時からの熱烈なファンだからである。
彼の作品は全て読んだ。書籍化されているものは勿論、WEBで連載されている作品、ブログに至るまで全てだ。
気に入りの物は何度となく繰り返し読んだし、彼の筆致のパターンも、トリックも熟知している。
それほどのファンだからこそ気が付いたのだ。
免許証に掛かれた佐伯の名を見て、ペンネームである徳井呰鬼英(トクイサキエ)が、佐伯郁門(サエキイクト)のアナグラムだと。
翔平の手配した救急車で運ばれていった男、佐伯郁門はサイコパスなのだと。
しかし、徳井は覆面作家だ。故に顔を知っていた訳ではない。
にも拘らず、氷室が佐伯=徳井であると確信を持ったのは理由がある。
かなり前に、彼のブログで見た、腕に火傷を負ったと言う写真付きのポストを覚えていたからだ。
その数か月後、全く違うポストに彼の腕が見切れており、そこには佐伯と同じく、右腕に拳大の特徴的なケロイドが写っていた。
蝶のような形をしているのである。
氷室は、いつか彼とすれ違う事があった時、これで特定出来るのではないかと思ったが、まさかこんな場面で見るとは思いもしなかった。
佐伯を車から引き摺り出し、手錠を掛けるべく手を取った際、同じ場所に同じ形の火傷を認めたのである。
その衝撃や筆舌に尽くし難い。
そして、彼をサイコパスなのではないかと疑う要因は、まさに彼の小説にある。
徳井呰鬼英が紡ぐ数々の小説は、作者自身がサイコパスでなければ書けないと、以前から一部のファンの間で根強い『徳井=サイコパス説』があった。
氷室自身、彼の作品を読めば読むほど、その疑念は深まり、ひょっとしたら、既に何人か殺しているかもしれないとすら思ったほどだ。
それほどに徳井のサイコパスの描写は詳細でリアリティがあり、鬼気迫るものがある。
被害者を執拗に嬲り殺害。そして遺体を飾り、殺人を芸術にしてしまう狂気には、氷室も激しい興奮で息が上がり、そして口渇を感じる程だった。
そんな徳井──いや、佐伯郁門の車から氷室の想像を超える人間のDNAが採取されたのだ。
氷室の背中を、ぞわぞわする何かが駆け上がっていく。
氷室は踵を返すと、捜査一課の大部屋を出た。
佐伯の鑑取りを行わねばならない。
そして氷室自らが追い込むのだ。
己が愛した、唯一無二の作家を──。
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