第3話 的中

 氷室は佐伯が搬送された病院に向かった。

 佐伯は今朝、一般病棟に移ったらしい。

 病棟は意外に騒々しく、消毒の臭いに混じり、給食にありがちな匂いが充満している。

 朝食が終わったばかりらしく、廊下に置かれたワゴンまで、自ら食器を返しに行く患者と何度かすれ違った。

 ナースセンターの横の通路に入る。

 あそこが佐伯の病室だろう。一番奥の引き戸の前で翔平が欠伸をかみ殺しているのが目に入った。

 氷室が声を掛けると、嬉しそうな顔をして駆け寄って来る。

 その姿に氷室は、まるで犬だなと思った。ミニ柴と言うやつだ。

 しかし、犬のようなのは素直で可愛い所だけで、事件に対する嗅覚が利かない上に執着が薄く、刑事としてはまだまだ使い物にならない。今も、早く帰りたくてうずうずしているのだろう。

「主任! 交代してくれるんすか?」

「佐伯の意識は戻ったか」

 望む答えが返って来ず、翔平は鼻に皺を寄せたが、氷室にじろりと睨まれると姿勢を正した。

「戻りました。でも暴れたんで、鎮静剤入れて貰ってます」

「そうか」

 氷室は短く言うと、引き戸に手を掛け静かに開いた。

 そこは一人部屋で、背を少し起こしたリクライニングベッドに、佐伯が横になっている。

 エアコンと換気扇の音だけの静かな部屋。灯りは点いていないが、カーテン越しの太陽光で十分に部屋の中は明るい。

 佐伯の額にはガーゼが貼られ、腕には点滴も入れられているが、その他は特に大きな怪我もなかったらしい。

「起きてるか」

 声を掛けると、佐伯はゆっくりと目を開けた。

 少しぼんやりして見えるのは鎮静剤のせいだろう。

「何故逃げた」

 氷室はベッド脇に立ち、目だけで佐伯を見下ろして言った。

 佐伯は顔を歪め、乾いた唇を動かしている。

 しかし、声が掠れ聞き取りにくい。

 どうやら薬と口渇のせいで上手く話せないようだ。

 氷室がサイドチェストにあった吸い飲みを口元に持って行くと、佐伯は少しむせ込んだものの、中に入っていた水を全て飲み干し息をついた。

「話せるか」

 佐伯はひとつ咳ばらいをして頷く。それを確認すると、氷室は吸い飲みを戻した。

「もう一度聞く。何故逃げた」

 抑揚のない冷たい声。

 佐伯はそれに負けじとするかのように、氷室を真っ直ぐに睨みつける。

「逃げてない……。急いでた」

「急いでた──?」

 氷室は繰り返すと鼻で笑い、薄笑いを浮かべながら「随分と優秀だな」と言った。

「優秀……?」

 佐伯の目に、明らかな狐疑の色が浮かんでいる。

 氷室は口の端を上げて佐伯の顔を覗き込んだ。

「実に模範的な回答だ。交通法違反者のな」

「あんた──!」

「お前の車からルミノール反応が出たぞ」

 氷室の被せる様に放った一言は、佐伯を凍り付かせるに十分だった。

 驚愕に目を見開き、唇を戦慄かせている。顔は真っ白だった。

「……ミステリやサスペンスを書いてる作家・・のアンタなら、それが何なのか、いちいち説明しなくても知ってるだろう。

 佐伯──いや、徳井と言った方がいいかな?」

 佐伯の頬がぴくついているのが分かった。

 正体を知らていた事による動揺か、それとも怒りか──。

 いずれにせよ、鎮静剤が効いていなかったら飛びかかってきたかもしれない。

「逮捕までそう長く待たせんとは思うが、また逃亡されても困る。身柄の拘束はさせてもらうぞ」

「待ってくれ! 俺は──!」

「話は取調室で聞く」

 それだけ言うと、氷室は枕もとのボタンを押して部屋を出た。

「待てよ! 聞いてくれ! 助けてくれ!」

 病室から激しい叫び声と、咳き込み。そして物を投げつける音が漏れ聞こえてくる。

 翔平は顔を引き攣らせながら、ドアの隙間から病室を覗いた。

「うわっちゃー。大丈夫っすか、アレ」

「今ナースコールを押した。鎮静剤を追加して貰え。それから──」

 氷室は翔平を振り返った。

「ひとりで奴に近づくな」

 突然の忠告に、翔平はきょとんとしたが、氷室の表情からそれが冗談ではないと察したようだ。

 上目で氷室を見たまま頷き、了解を伝える。それを見て氷室も頷いた。

「今交代を呼んでる。もう少し頑張れよ」

「しゅに~ん! ちゃんと俺のこと考えてくれてるんですね!」

「勿論」

 そう言うと氷室はポケットに手を突っ込み、その中に入れていた物を翔平に握らせた。

「強力カフェイン……?」

「じゃあな。帰ったら、直ぐに着替えてカイシャに来い。帳場が立つ」

「えっ……」

 翔平の顔から血の気が引いた。へなへなとその場に膝をつく。

 なにしろ、『カイシャ』とは警察関係者の隠語で『警察署』の事だ。つまり──。


「過剰労働! 鬼! 悪魔ー!」


 翔平の声が響き渡り、ナースセンターから鬼の形相で走ってくる看護師長と氷室はすれ違った。


 *   *   *


 氷室が病院を出ると同時に、森永から直ぐに来るようにとの連絡が来た。

 駐車場から自分の車を運転し、急ぎ警視庁へと向かう。

 捜査一課のあるフロアに着くと、驚くほどの騒々しさに、氷室は思わず首を伸ばした。

 見ればサツ周りの記者に取り囲まれた森永が、煩そうな表情で歩いている。

 おそらく、昨夜の事件の件で付きまとわれているのだろう。森永はしきりに「会見を待ってください」と言っている。

 そしてエレベーター前で自分を見ている氷室に気が付くと、会議室に入れと視線で合図を送り、記者に向き直った。

 今のうちに行けという事だ。

 氷室はすぐ傍の会議室のドアを開け、素早くそこへ廊下を注視しながら体を滑り込ませた。


「動くな」


 ドアを閉めるや否や、背後から声を掛けられ、氷室はそのまま固まった。

 背中にゴリっと硬いものが当たる。氷室はゆっくり両手を上げた。

 脇下を冷たいものが流れ、心臓が早鐘のように鳴る。

 しかし──。

 聞こえてきたのは、プッと吹き出す声。聞き覚えのあるその声に、氷室は悪戯っ子を叱る教師のような面持ちで振り返った。

「竹さん……」

 氷室は力なく言い、大きく息をつく。

 背後にはペットボトルの緑茶を持った竹山が立っていた。

「そんな子供みたいなことして。危うく投げ飛ばすところでしたよ」

「ヘヘッ。そら悪かったな。でも、ホンマに驚くのはこれからやで?」

「何か分かったんですか?」

 竹山はにやりと笑うと、ポケットから取り出したハッカの飴を口の中に放り込んだ。

 最近竹山は禁煙を始めたとかで、酷く口寂しいらしい。

 元々『いつもポケットに飴を入れているオジサン』ではあったが、最近は人に差し出すより、自分の口に放り込む事が多くなったようだ。

 おかげで糖尿が心配になって来たとぼやいている。

「まあ座ろ」

 そう大きくない会議室で、竹山は椅子を引くとどっかと腰を下ろす。

 氷室も向かい合うようにして腰を下ろした。

「実はな、ヒムちゃんがパクった男の車から、昨夜の埠頭の遺体と一致するDNAがあったんや」

「ホントですか!」

「ホンマもホンマ。ワシの予感が的中したっちゅう訳や。ヒムちゃん、大手柄やな」

 竹山の手が、氷室の二の腕を優しく叩く。

 氷室は父親と言うものを知らないが、いたらきっとこんな感じなのだろうと、初老の鑑識員の目尻の皺を眺めた。

「お待たせしました」

 涼やかな声と共に入って来たのは森永だった。

 氷室が立ち上がると、手で座っていてくれと合図をする。

「捜査本部で発表する前に、一度話を聞いておきたかったので。

 どうせならあなたも同席した方がいいだろうと思って呼んだんです」

「有難うございます」

 しつこい記者を追い払うのに随分と疲弊したようだ。森永の目には少し疲れが見える。

 それでもパイプ椅子を引いて腰を下ろすと、竹山に簡潔に説明するよう促した。

「さっきもヒムちゃんに話した通り、事故車から、埠頭の遺体と一致するDNAが出た。

 因みに、そいつは採取された毛髪と一致したんであって、シートから検出された血液とは一致せんかった。それだけやないで?」

 竹山は口の中の飴をガリガリと嚙み砕くと、水で飲み下して続けた。

「シートとトランクの血液からは既に3、4人分のDNAが検出されとる。毛髪も数人分や」

 森永が片手で口を覆い、大きなため息をついた。

 氷室も椅子に背を預けて天井を仰ぐ。

 壁に掛かった時計の秒針の音がやけに大きく感じた。

 毛髪は必ずしも事件性があるとは限らない。しかし3人は考えずにはいられなかった。



 埠頭の事件は始まりに過ぎない。他にも被害者がいるのだと──。


 

「ちょっと失礼──」

 スマホの着信音で森永は立ち上がった。

 応答して直ぐに顔色が変わる。森永の咬筋が緊張し、歯を噛み締めているのが分かった。

「緊急配備を布いて下さい。タクシー会社にも被疑者の顔写真を。そうです! 直ぐに動きなさい!」

 冷静沈着な森永が取り乱している。

 氷室と竹山は顔を見合わせた。

「どないしてん、警部?」

 森永は天井を仰ぐと、深く息を吐いた。

 何とか自分を落ち着かせようとしているようだ。

 そして氷室と竹山に視線を移すと、唇を戦慄かせながら、絞り出すように言った。


 

「佐伯郁門が、逃走しました──」

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