第2話 卒爾
「なぁんだ。ちゃんと制限速度なんすね」
「当たり前だろ」
後部座席から身を乗り出す翔平の頭を押しやると、氷室はシートベルトをするように注意をする。
翔平は素直に腰を下ろしたが、青梅駅を過ぎたあたりでコンビニに寄りたいと言い出した。
「しょうがないな。下で行くか」
ビッグサイト付近のコンビニでトイレを借り、車は再び走り出す。
前方の、有明コロシアム横の信号は青に変わったばかりだ。
氷室は落としていたスピードを上げるべく、再びアクセルを踏む。覆面は加速した。
時刻は午前2時30分。翔平は大きな欠伸をした。
「早く帰りましょ~。主任」
「分かってるよ」
そんな事を言いながら交差点に侵入した時だ。
突如その前を黒い影が飛び込んで来た。
「──!」
「危ないッ!」
氷室は力一杯ブレーキを踏んだ。
深夜の街に甲高いブレーキ音が鳴り響き、黒影が覆面の鼻先を猛スピードで横切り走り去る。
「あっぶね! なんすかアイツ! つか、信号無視!」
「追うぞ」
氷室はパトランプをルーフに乗せると、今度はアクセルを踏み込んだ。
一気に回転数が上がり、アスファルトがタイヤを切りつけスキール音と白煙が上がる。交差点にブラックマークを残し、氷室の覆面は一気に加速した。
「わッ!」
後部座席で翔平が声を上げた。
運転している氷室以上にシートへ押し付けられる感覚を感じている筈だ。
前方を走る黒い車は、次々と信号を無視し、追跡を始めた覆面から逃れるべくスピードを上げ続ける。
それにぴったりと付けながら、普段は冷静な氷室の中で次第に高揚感が湧き上がった。
心拍数が上がり、血圧が上昇するのが自分でも分かる。ハンドルを握る手に力がこもった。
「顔を見せろ」
氷室が右に急ハンドルを切り、翔平は体を左へ振られた。シートベルトが体に食い込む。
覆面は黒い車の斜め後ろにつけたが、まだ並ぶ事は出来ない。
「翔平、頭抱えろ!」
翔平の身体が今度はウインドウ側へと振られた。同時に激しい衝突と、金属がひしゃげ、擦れ合う音が響く。
氷室が左へハンドルを切り、黒い車の後部側面に覆面を衝突させたせいだった。
車はぐるりと方向を変え、横っ腹を見せる。
一瞬、ドライバーと目が合った──。
「こいつ──!」
次の瞬間、覆面は車両の横腹に突っ込んだ。
その衝撃に、翔平はうわっと声を上げる。
きらきらと輝くガラス片が飛び散り、フロントガラスに降り注ぐ。その中を覆面は黒い車体を押しながら走った。
氷室は力一杯ブレーキを踏むが、タイヤがロックした覆面は惰性で走り続ける。
視界の端に火花が散り、それは光の雨のように後ろへ流れて行った。
「主任! ぶつかる!」
黒い車両の向こうに、フェンスが見える。
氷室は思い切りハンドルを切った。
* * *
「ッつ……」
覆面は中央分離帯に乗り上げる形で止まった。
浮いた前輪は空回りし、しんとした車内では、無線機がどこか違う所で起きている事件を伝えている。
「翔平、平気か」
首を押さえ、氷室は後ろを振り返った。
翔平は半ばシートから尻がずり落ちた状態で口をパクパクさせている。
「──大丈夫だな」
氷室はゆっくりと車を降りると、フェンスに衝突している黒い車へと向かった。
先ずはガソリンが漏れていないか確認する。その後割れたウインドウから手を入れ、ぐったりしている男の頸動脈に触れた。
「生きてます……?」
後ろから声を掛けられ振り返る。
直ぐ後ろで翔平が覗き込んでいた。
氷室の指は、確実に鼓動を刻む男の脈を感じている。更に、胸が上下しているのも見て取れた。
「あ、生きてますね」
「……そうだな。生きてる」
「あ~、良かった。応援と救急車呼びます」
そう言うと、翔平はスマホを取り出した。
氷室は車体に足をかけドアを引く。ドアはめりめりと音を立てて開いた。
そして慎重に男の身体を引き出す。
幸い足なども挟まれておらず、男をずるりと車両から引き出すことに成功した。
「手こずらせてくれたよ」
地面に横たわる男の腕を取る。
「これは──」
男の腕には拳大の、特徴的なケロイドがあった。火傷の痕だ。
遠くからサイレンの音が聞こえて来る。
「2時45分。道路交通法違反で、逮捕する──」
男の片手にだけ手錠を掛けると、氷室は囁くように言った。
* * *
捜査一課の大部屋の中にある一室。
窓から差し込む朝焼けに目を眇めながら、氷室は椅子に腰掛ける森永の前で直立していた。
翔平を男に付き添わせ、自身は自走不能になった2台の車がレッカー移動されるのを見届けた後、報告の為、こうしてここに立っている。
「──で、男は?」
森永は眼鏡の奥からじろりと氷室を見ると短く言った。
「免許証から、佐伯郁門、35歳と断定。現在ICUに入っていると内海から連絡がありました。
車両は念のため、竹さんに見て貰ってます」
「そうですか」
そう言いつつも、森永は男の身元、容態に興味がない様子だった。
寧ろ、氷室に失望している。
その証拠に、机の上のパソコンには始末書のフォーマットが表示されていた。
直属の上長として、森永も何かしらのアクションをせねばならなくなったという所だろう。
「……珍しいですね。あなたが熱くなるなんて」
森永はそう言って深く息をついた。
直接口にはしないものの、たかが交通法違反で──と、思っているに違いない。
「申し訳ありません」
氷室が深々と腰を折る。その時だ。
「入ってええかな」
ドアの隙間から竹山が顔を出した。
その顔には、いつもの悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
氷室は思わず視線を逸らした。竹山に、みっともないところを見せたくはなかった。
「どうぞ。どうしました?」
森永に迎え入れられた竹山は、臆することなく森永のすぐ横に立つと、「えらいこっちゃやで」と話し始めた。
「さっきの車やねんけど、ヒムちゃん、どえらいモン引き当てたかも知れへんで?」
「どえらい……?」
突拍子もない話に、森永もきょとんとしている。
そんな様子に、竹山は満足そうだ。
「何か見つかったんですか?」
流石に氷室も期待が膨らむ。竹山はニヤリと笑って見せると大仰に頷いた。
「出た出た。後部座席とトランクから、ルミノール反応がガッツリ出たで?
今、ウチの若いのに微物採取させてんねんけどな、それが終わったら、科捜研にDNA採取してもらお思てんねん」
「竹山さん」
珍しく森永が色めき立った。
「念のため、今回の埠頭の遺体と合致するか、科捜研に調べさせて下さい」
竹山は「はいよ」と軽く請け負うと、無精髭の生えた顎を撫でながら言った。
「ひょっとすると、今日の事件に関係してんのかもしれへんなぁ? 犯人は現場に戻る言うし。
ほな、またなんか分かったら連絡するわ」
事件は起きないに越した事はないと言いつつも、事件が起きると生き生きと立ち働く竹山である。
2人に軽く手を上げると、「忙しい、忙しい」と出て行った。
「さて──」
竹山が出ていくと、森永はちらと氷室を見遣った。
再び、室内に緊張が走る。
「この事件は──マスコミも大いに注目するでしょうね。そんな時に、主任刑事がカーチェイスで男を病院送り」
「はい……」
森永は立ち上がると、始末書の表示されたパソコンをパタンと閉じた。
「引き続き捜査を頼みます。氷室主任。あなたのカンが冴えていたと言わせてください」
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