第1話 濫觴

 深夜の首都高を、何台もの覆面を含む警察車両がサイレンを鳴らし、猛スピードでお台場へと向かい走っていた。

 目的地は青海コンテナ埠頭である。

 その中の一台を、内海翔平は駆っていた。

「オレ、今日デートだったんすよ? お泊りデート中!」

「文句言うな」

「主任はイイっすよ、モテるし。俺なんか、やっと出来た彼女っすよ?」

 そう言うと、翔平は口を尖らせ、助手席に座る人物をちらりと見た。

 助手席でスマホを弄るのは、翔平の上司で捜査一課の刑事、氷室正臣だ。

 彫像のように整った甘いマスク。栗色の、少し目にかかるサイドバング。長身でスタイルも良く、組んだ足も長い。

 しかし恵まれているのはその容姿だけではなく、多趣味で、読書家。自己管理も完璧なら、仕事も完璧。

 上層部からの覚えもめでたい、捜査一課のエースである。

 一方自分はと言うと……。

 翔平はため息をついた。

 憧れの刑事になってまだ半年のペーペー。検挙実績ゼロ。

 くたびれた量販店の吊りスーツにスニーカー。ボサボサの頭。一張羅は冠婚葬祭用のフォーマルスーツと言う有様である。

 若く、愛嬌があると可愛がられているものの、意外とモテない現実。

 今の彼女をゲットするまでに、一体何回コンパに行き、その代償として昼飯を抜いただろうか。

「彼女がいるだけいいじゃないか」

 氷室はそう言ってさりげなく長い前髪をかき上げると、再びスマホに視線を落とす。

 その何気ない仕草ひとつとっても、嫉妬したくなるほど似合っていた。

「振られちゃったら主任のせいっす」

「俺じゃないよ」

「まあ……そうなんすけどね」

 そう言いつつも、翔平は「あ~あ」とぼやきが止まらない。

 氷室はくすりと笑うと、そんな翔平の頭をくしゃりと掻き回した。

「彼女にフラれたら、俺がお前と付き合ってやるから安心しろ」

「えッ?」

「バカ。冗談に決まってるだろ。前を見ろ」

 氷室に指摘されて慌てた。いつの間にか車間がやけに詰まっている。

 翔平は軽くブレーキを踏むと、車間を適正に保った。

 

 ずっとスマホ見てると思ったら、ちゃんと回りも見てるんだもんな。


「次で降りろよ」

「了解!」

 覆面パトカーは、暁ふ頭にある流通センターの周囲をぐるりと回るようにして現場へと入った。


 *   *   *


 現場は騒然としていた。

 深夜であること、また、埠頭という場所柄から一般人はそう多くない。

 しかし、集まった刑事や鑑識を始めとする警察関係者が忙しく動き回り、そして、既に事件を嗅ぎつけたマスコミもちらほら見えた。

 現場の雰囲気に呑まれたか、先程まで軽口を叩いていた翔平の顔も引き締まり、ぐっと口数が減る。

「ご苦労様です。こちらです」

 所轄の警察官が手を上げている。氷室は翔平を従え、ブルーシートで囲われたコンテナへと向かった。

「お。男前の登場や。ウッちゃんも一緒か」

 氷室と翔平に気付き、そう言って破顔するのは、警視庁の鑑識員である竹山誠吉だ。

 飄々としたそのキャラクターからは想像出来ないが、竹山はこれまでも数々の難事件にその卓越した技術と鑑識眼で事件を解決に導いている。

 また、その人柄から竹山を信望する者も多い。

 その為、そろそろ定年ではあるが、上層部が竹山を離さないのではないかと専らの噂である。

「もう入っても大丈夫ですか?」

 氷室が聞くと、竹山は頷いた。

「ええよ。今、森永警部も中に入ったところや」

 そう言うと、竹山は翔平に個包装のキャンディーをひとつ、握らせた。

「ん? なんすか?」

「ハッカのアメちゃんや。後で気分悪なったら舐めるんやで? おっと、ほな、またな」

 竹山は片手を上げると、自分を呼ぶ部下の所へと駆け寄っていった。

「え。なにこれ。のど飴……?」 

 翔平は手のひらのキャンディーの包みを眺めた。

 そんな翔平の隣で、氷室はくすりと笑う。

「とっておけ。俺も、初めてこういう場に臨場した時に竹さんがくれたよ。お守りになる」

 翔平は訝し気に頭ひとつ分上にある氷室を見上げた。

「お守り……っすか?」

「そ。お守りだ。よし、じゃあ行くぞ」

 氷室に背を叩かれた翔平は、キャンディーをポケットに突っ込むと氷室の後を追った。


 *   *   *


「これは──」

 氷室は文字通り言葉を失い、翔平はその場にへたり込んだ。

 その顔は真っ青で、下顎もがくがくと震えている。

「な、なに……アレ……」

 翔平は震える指先を眼前見える物に向けた。

 それは目を疑うような光景だった。

 冷凍コンテナの中、鑑識のライトに浮かび上がるのは、青白い女。

 女はその身に纏った白い布をはためかせ、背中から生えた翼で飛び立とうとしている。

 しかし、その体には頭がなく、そして両腕もない。

 

 背中の羽は──。

 

 氷室は目の前の『躍動感ある異形の物』に釘付けになった。

 背中の皮を筋肉ごと削ぎ、それをまるで翼のように見せている。

 確か、映画『ハンニバル』で同じように天使を模したシーンを見たが、しかしこれは──。

「サモトラケのニケのつもりでしょう」

「森永警部……」

 コンテナ内と同じくらいに冷えた声。

 いつの間にか氷室の隣には、警部の森永が立っていた。

 スーツの上に防寒着を着込んだ森永は、シルバーフレームのメガネを指でずり上げると翔平を横目で睨む。

 翔平の顔は最早真っ白だった。生唾を飲み込み、必死に嘔気を堪えているのが見て取れる。

「内海刑事。吐くなら外で吐いて下さい」

「んん──ッ」

 翔平はまともな返事をする余裕もなく、口元を押さえ走り出た。

 それに構うことなく、森永は氷室を従え、遺体の観察を始める。

 森永の言う「サモトラケのニケ」とは、ギリシャ神話に登場する勝利の女神ニケをモチーフにした、頭と腕が失われているのが特徴の、作者不明の大理石の像だ。

 目の前の死体はそれに倣ったのだろうと言うのが森永の見解である。

 そして、それは氷室も同様だった。

 実際、冷凍されていることで臭いも腐敗もないこの遺体は、幾度となく変死体を見続けてきた2人にとって、まさに前述のサモトラケのニケ。芸術の類に等しかった。

「切断面も見事です。余程手馴れているか──」

「芸術家」

 氷室の答えに、森永は目を細め、口の端を上げた。

 整った顔立ち故に冷ややかに見えるが、こうするとセクシーだと感じる。

 森永は「同感です」と頷くと、再び遺体へと視線を移した。

「しかし、頭部や腕が無いとなると、身元特定に骨が折れそうですね……」

 ふうっと、白い息が森永の口から吐かれる。

 氷室には、その息越しに見える彼女が、本当に雲の合間を飛んでいるように見えた。


 しかし、思考する頭が無いんじゃ、行先も分らんだろな……。


 ぼんやりと、そんなことを考える。

 頭が──顔が無いせいで人間らしさに欠ける。すると物に見える。

 だからだろうか。哀れみを抱けない。

 しかし却ってそれは美しく、そして──次第に滑稽に思えた。

「後はまかせて、本庁に戻りましょう」

 森永が踵を返す。

 氷室は頭を下げると、自らもゆっくりとコンテナを後にした。


 *   *   *

 

 氷室が外へ出ると、覆面の前で座り込んでいる翔平が見えた。

 傍へ行くと、「しゅに~ん」と情けない声を上げる。

「どうだ。出る物出たら楽になったか?」

「はい」

 そう言って竹山から貰ったキャンディーを口に放り込んだ翔平は、ペットボトルの水を流し込み、息をつく。

「あ~。スッキリする……。竹さん、マジで神……」

 ハッカ味は胃液が焼いた喉に沁みるものの、口腔内の不快感を一掃してくれ、氷室の目にも、かなり落ち着いてきたように見えた。

「後で竹さんに礼を言っておけよ」

「はぁい……」

 覆面のバンパーに寄り掛かるように座っていた翔平は、のろのろと立ち上がるも、まだ少し足元がおぼつかない。

 氷室は後部座席のドアを開けると顎をしゃくった。

「後ろで転がってろ。俺が運転する」

「ウソ! ヤバ! 主任、神!」

 翔平は途端に元気になり、ペットボトルを抱えて後部座席に転がり込む。

 氷室は飛び出た足を掴んで中に押し込むと、ドアを閉めた。

「全く……。ウソだのヤバイだの。褒められてるんだか何だか分らんな」

 そう零しながら運転席へと回り込む。

 そしてハンドルを握ると、ルームミラー越しに悪戯っぽく翔平を見た。


「舌、噛むなよ?」


 氷室はハンドルを握ると、アクセルを踏んだ。

 この先に大きな展開が待ち受けているとも知らずに──。

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