裂帛 2

「うん? 何の音ですかね?」

 それは何かを豪打するような鈍く重たい音で、出所を求めて耳をすませてみた。だけど、その音はもう二度と聞こえてこなかった。

 僕と真耶さんがいるのは一階の上座敷だ。朝食後、別の部屋へ移動してくれと頼まれてここに来た。相澤さんは滝村という人の日本刀が飾られている中座敷の一つに移動した。

「何か落としたのかな……」

 隣の真耶さんを見たけど、彼女は伏し目のまま箸を動かすだけで返事をしてくれなかった。この部屋に移動してから、というよりも今朝からずっとこんな感じの態度が続いていて、奇妙な屋敷、遭難、行方不明の状況に加わった気まずさが僕を苦しめていた。

「……相澤さんも聞こえたかな」

 廊下を覗き込もうと四つん這いで進み、閉め切った襖に手をかけようとした時、

「チル、待って」

 真耶さんの――至極真面目な声が飛んで来た。加えて俯きから覗く片目だけの視線が怖くて、僕は襖から手を離した。

「何か……?」

「あの警察の人……信用しないほうがいいよ」

「はい?」

 それはどういう意味ですか、と僕はその場で正座し、少しだけ真耶さんに近付いた。ほぼひきこもりの彼女が他者の交友関係に口を出すのはあまりにも珍しいからだ。

「だから……信用するなって言ってるの……特に、この山で出会った人とは」

「真耶さん、どうしたんですか? その……何か変ですよ? ここに来てから……」

 この屋敷に来てからというもの、しきりに周囲を窺ったり、夜中にこっそりと部屋を抜け出してどこかへ行ったりと不可解な挙動が多い。声も小さくなり、普段の彼女とは明らかに態度が違う。しかし、真耶さんは俺の質問を無視して話を続ける。

「稀人ってわかる……?」

「えっと……部外者と言いますか、村の外から来た人とかのことですよね?」

「今は廃れてるけど、この国には集落の外から来た人を歓待する風習がある。稀人信仰なんかが関係しているんだけど、地域によってはその稀人を捕らえて食する風習もあるの」

 真耶さんは布団の下から取り出した警察手帳と新聞の切り抜きを俺に見せる。

「この切り抜き……車内にあったやつですか?」

「……いくつか持ってきたの。手帳は……さっきまでいた場所で見つけたやつだから」

 いつになく真剣で怯えているような気さえする真耶さんからそれを受け取り、一つ一つに目を通していく。どうやらそれは新聞とか雑誌の切り抜きのようだ。


 一九四五年、米軍による空襲によって負傷した兵士と民間人を移送中だった日本軍の部隊が機巧山を移動中、二人の行方不明を確認したと書かれている。その記事には行方不明になった二人の写真と名前が記載されていて――そこには十文字誠也さんの写真があり、その下には大向達郎おおむかいたつろうという名前が記されていた。

 次の切り抜きには一九八八年に秋本竜二あきもとりゅうじという大学生が行方不明になっており、その顔写真は眼帯をしていない古林千鶴さんだ。

 二000年には人形峠駐在警官である笹川甲陽という人が行方不明になっている。

 二00一年には松任谷由美という女性が恋人と共に消え、その写真は久留米𣇵さんだ。さらに、駐在警官の相澤猛が山へ入り、行方不明になったという記事が続いている。

 二00六年の二月には、新橋誠にいはしまことという男性が行方不明になった。だが、彼はこの屋敷にはいない。

 二00八年には移動中だった陸上自衛隊の部隊から一人が消えた。続いてグラビアアイドルの笹原加野子とテレビクルー三名が消え、消えたグラビアアイドルの写真は、桜小路龍香さんだ。さらに染谷淳という雑誌編集者も行方不明になっている。


「……真耶さん、これは……」

 警官の相澤猛、対応していた古林千鶴、手当てをしてくれた十文字誠也、食事を運んで来た桜小路龍香、料理人の久留米𣇵、彼らと同じ顔をしている行方不明者たちの写真――。

「これは……どういうことですか……」

 何を知っているんですか、と問い詰めたかったけど、真耶さんの方もかぶりをふって答えようとしてくれない。どうやら、真耶さん自身も全てを理解しているわけじゃないみたいだ。しかし、それ以上に自分は混乱している。目の前にいた人達が、何年も前に消えた行方不明者たちだという不可解な光景に出会しているのだから。

「真耶さん、この切り抜きを信じるのなら、相澤さんや家の人たちは……」

「服装は違うけど、行方不明になった人達はこの屋敷で生きてたってことじゃない……?」

「年もとらずにですか? 変化は見られませんよ?」

 警察手帳の相澤さんを凝視したが、今の相澤さんは髪型すら変わっていない。

「マヨイガなんて都市伝説はありますけど……これはどういう……」

 僕は堪らずかぶりをふった。もはや人の脳でも常識でも計り知れない非現実的な出来事が目の前で起きているし、自分たちはその渦中のまっただ中だ。

「……どうしますか?」

 もはや猶予はない。一刻も早くこの屋敷から逃げ出さないと、今度は僕らが新聞に本名と顔写真を遺影として載せることになる。だけど、真耶さんはまたかぶりをふった。

「外に出られるとは思えない……出られるんだったらここにいない人たちは……ジュンの遺体だって見つかるはずだもん……」

「ジュン……?」

 親しげな関係を思わせる発音と同時に、助手席にあった写真立てが過った。

「えっ……真耶さん、もしかしてあの染谷って人と――」

「失礼します」

 襖の後ろから久留米さんの声が聞こえ、僕は慌てて立ち上がった。

「えっと……何でしょうか」

 音もなく襖を、というかここに来るまでの足音なんてさせなかった久留米さんは僕らへ座礼すると、綺麗に畳まれた緑色のコート(それが日本陸軍の三式外套だとは後で知った)を差し出した。それに対して困惑する僕へ意味を説明するでもなく、淡々と口を開いた。

「葵様のお言葉をお伝えします。『もうすぐ舞台の幕が閉じる。私も抗うことが出来なくなる。〝あなた方が私たちになる〟前に、この地図に従って逃げてください』以上です」

 久留米さんはそう言うと、一枚の紙切れを僕に差し出した。それは古い和紙で、殴り書きされた見取り図に朱の印が刻まれている。そこへ行けというわけだろうか……。

「舞台の幕……私たちになる前に……?」

 解釈を求めたけど、久留米さんは何も言わずに廊下の方へ視線をやった。それを受けて僕は二人分のコートを手に取り真耶さんに渡した。

「ほら、行きますよ……!」

 荷物と真耶さんの腕を掴んで廊下に出た。幸いにもT字の廊下は静かで、うるさいのは僕の息遣いと足音という状況だ。逆にその静寂が不気味でもあるんだけど……。

「そうだ……久留米さん」

 今すぐ逃げるべきなんだろうけど、どうしても訊きたいことがあって、僕は正座のまま動かない久留米さんへ振り返った。

「久留米さん、あなた達はいったい……」

「その答えは……こういうことでしょう」

 バキッ、と何かが砕けるような音と共に、久留米さんの両肩と両腕が蟲のようにガサゴソとのたうち、パラパラと両腕の皮が剥がれて爪のような両刃の凶器が飛び出し――振り返った久留米さんはその爪で真耶さんに斬り掛かり――僕は咄嗟にその白い腕を掴んだ。その感触はマネキンと人間のハーフみたいな……。

「人形……?!」

 顔を軋ませながらこっちをギョロリと睨んだ久留米さんの瞳――を見た瞬間、僕は彼女の勢いを利用してその躰を座敷へ叩き付けた。バターン、と襖を巻き込んで座敷へ倒れた彼女は四肢を蟲のようにジタバタさせると四つん這いになり、ガチャガチャと暴れるように壁へ張り付くと、軋ませながら頭を一回転させた。

「くっ……台本が……西条様は……私の代わりに――」

 現実とは思えない光景に僕は思わず尻餅をついた。だけど、驚愕したのは僕だけじゃなくて久留米さんも同じだったみたいだ。

「台本……台詞が……拒まない……と」

 綺麗な顔が歪み、それと同時に彼女は天井に張り付いたまま両手で頭を押さえ――ガシャーン、と音を立てて畳に落ちた。

「逃げて……この屋敷から……私から……!」

 そう叫ぶと断末魔のような奇声をあげ、僕たちの視界から逃げるようにして姿を消した。

「あれは……どういう……」

 人間に人形の皮をかぶせているのか、人形に人間の皮をかぶせているのか、あまりにもおぞましい光景に脳みそは爆発の手前で、心臓は動悸を訴えるし、捻挫の左足首とぶつけた腰が不満の声をあげ始めた。

「言われた通りに逃げよう……立てる……?」

 真耶さんは腕を掴むと、立ち上がった僕に肩を貸してくれた。

「二階を経由して逃げるから……」

 もう相澤さんも信用出来ない以上、それしかない。僕は無言で肯定しつつ、怯える左足首をどうにか動かせないかと意識を送り――。

「……ありがとう」

「えっ?」

 不意の感謝に真耶さんを見た。

「また……庇ってくれてありがとう……」

「あの時より……生きる気力が出たみたいで嬉しいですよ」

 真耶さんは肩越しに背後を警戒しつつ、僕を二階へ通じる階段前まで運ぶ。足首の捻挫をさらに挫こうとする階段は鬼門だけど、化け物に喰われたくなければ進むしかない。

「この家は……迷い込んだ人を映画みたいに殺してるってことなんでしょうか……」

「わからない……でも、あの人―ーあれは逃げろって言ったよ」

 手摺の力も借りて早急に階段を駆け上がると、真耶さんが先に二階の廊下を覗き込み――背中に続こうとした僕を壁に押し寄せた。

「ちょっ……!!」

 胸を押し付ける形で壁に押し付けられ、思わず頭と身体が反応した時、真耶さんは口元に人差し指を突き立てた。

「床に……血痕がある」

 流れるように僕の横へ移動した真耶さんに示された先を覗き込むと、右手の閉め切られた書斎から黒い液体が廊下へ伸ばされ、向かいの映写室の中にまで続いていた。液体を垂らす何かを引きずったような波紋が刻まれたそれは、漂う生臭さからして血のようだ。

「どうする……?」

「ここを通らないと外には出られませんよ。血塗られた道しかないでしょう……」

 共倒れが嫌だから真耶さんには廊下の右手を歩いてもらい、自分は軋む映写室のドアがある左手を進む。そうして見えてきたドアの隙間からは、カタカタ……という物哀しい感じの音が聞こえ、白黒の古ぼけた点滅が漏れている。

「久留米さんたち人形に血なんて流せませんよね……」

 それに、追撃しているならもうとっくに追い付いているはずだ。

 真耶さんの返事を待たずに、僕は片手でそっとドアを開け――。

「っ……天龍さん?!」

 白黒の点滅と昭和の音が支配する映写室に響く自分の声。だけど誰もそれには応えないし、動く影も無い。動いているのは、古ぼけた映写機と、埃のフィルムを納める棚と天井からぶら下がるスクリーンに浮かぶ映像だけだ。僕はそんなものを無視して、中心に置かれたソファーに座ってスクリーンを見上げている天龍さんへ駆け寄り――。

「てんりゅ……さ……ん」

 ソファーに背中を預けていた天龍さんは死んでいた。その顔に生気は微塵もなく、後頭部は血だらけで、潰れた頭皮の隙間からは光沢ある骨すら見えた。あまりの惨さに僕は口を押さえたけど間に合わなかった。ビチャビチャ、と嘔吐物と自分の言葉にならない悲鳴が映写室に響き、その場で四つん這いになった僕はさらに胃の中身をぶちまけた。

 唄声と共に行方がわからなくなった桜さんたちはこの家にいたんだ。稀人を食す風習。それが今、稀人を殺す風習に置き換わった。そして、真っ先に思い浮かぶのは……。

「……他の人たちが家の中でまだ生きてるかも……真耶さん……! ここまで来たならもう覚悟を――」

 振り返ったけど、部屋の中にも入り口にも真耶さんはいなかった。

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