玲瓏 3

 上から聞こえてくる微かな話し声を肴に、俺はワゴンに乗せられた料理を食べていた。住人たちの奇怪さには辟易するが、料理の美味さは綾香にも匹敵する良い味だ。

 上等な肉にも舌鼓を打ちながら、ベッドの綾香にも夕食を渡していく。食事が出来るぐらいには意識が戻っているものの、自分でナイフとフォークというわけにはいかない。

「綾香、次はどれが食べたい? フルーツもあるよ」

 丸めた毛布の支えで上半身を起こしている綾香が食べたいものをスプーンで運んでいく。

「なかなか美味しいだろ? 愛想はないけど料理は美味しくて良かったよ」

 小動物みたいにチロチロとおかゆとか豚汁を食む綾香は可愛くて、長い付き合いで……口とはいえ結婚の約束までしていた昔を思い出す。もっと若い頃は些細なことでも愛を確かめあって、今思えば赤面するような甘ったるいことも人並みにしてきた。別れた今でも、こうして具合が悪い状態になっても綾香は綺麗で、衝動が色々と押し寄せてくるが我慢だ。

「なぁ、こうして二人きりって……久しぶりだよな」

 三年前に別れてから、二人きりで逢ったことはない。あの日、土砂降りの中で俺は別れを切り出された。どう訊いても別れる理由を教えてくれなかったが、綾香が劇団を去ることはなく、辛辣にもならなかった。だから、俺の心は乱れて一時期は大変だった。そんな状況で心身共に大変だったが、俺はまだ綾香への愛をなくしちゃいない。

「ほんと……事故で目が覚めた時はどうしようと思った……。お前は意識がないし……桜は何かを撥ねたって言うしな……」

 俺がそう言うと、綾香はピクリと反応し、何かを話し出した。だけど、その声は小さ過ぎて口元にまで耳を寄せなければ聞こえなかった。

「そうか……撥ねたことは事実か……撥ねた相手のことはおぼえてるか……?」

 そこが何よりも大事だ。桜の証言と同じならば、弁償と車の修理代で済む。そう思っていた時、綾香に胸ぐらを掴まれた。

「あれ……ひとじゃ……うごいて……にんぎょ……」

 そこまで言うと、綾香は話すことに力尽きたようで上半身を沈めてしまった。

「無理させて悪かった……ありがとう。少しだけ席を外すからな」

 そう告げると、綾香は小さな微笑みを返して静かな寝息を立て始めた。おかゆとか豚汁とかで虫歯になることもないだろう。このまま朝まで寝られるならそのままにしておこう。

「動く機巧人形……か」

 綾香も桜も機巧人形が動いていたと口にした。神の所業とも称せる精巧さと見る者に美しさをこれでもかと伝えてくるほどの躰を持つなら、或は動いてもそれは……。

「あっ……おキョウさん……」

 医務室から出るとほぼ同時に、風呂に通じるドアからひょこりと愛里が顔を出した。タオルをかぶり、自前のオレンジ色のパジャマを着ている。

「よう、湯加減はどうだった?」

 そう訊くと、愛里は何故かオドオドと周囲を見渡し、俺に手招きした。何をしてるんだ、と思ったが、その手招きが必死に見えた俺は肩をすくめて愛里の誘導に従った。

「おキョウさん、ちょっと……」

 招かれるまま脱衣所に入った。中もこれまたホテルみたいに綺麗で、床の方は旅館の脱衣所にある竹タイルが敷かれているようだ。掃除が行き届いているのか、愛里の髪の毛以外に埃は見当たらない。洗面台に並ぶ三つの鏡のうち二つは新品のように綺麗だ。

「それで、どうした? ゴキブリでもいたのか?」

「あの……その……」

 招き入れておきながら、愛里はなかなか話を始めない。

「告白か? 誰にも言わないから聞かせてみろ」

 冗談が効いたのか、愛里は小さく頷いて、浴室に通じる曇りガラスの引き戸に触れた。

「あの、おキョウさん……お風呂ってどんなに掃除しても新品にはならないっスよね?」

 そう訊かれて、俺は綾香と同棲していた頃を思い出した。一人暮らしの時も風呂掃除には色々と苦労させられたし、綾香ともよく掃除の仕方を議論したものだ。

「無理だろう。俺だって何度も新品同様にしようとしたことか」

「そうっスよね……? そのありえないことが起きてたんスよ……このお風呂に……」

「誰も使ったことがない風呂なんじゃないか? それか業者に頼んで掃除してもらっているのかもしれない。金には困ってなさそうだしな」

「そうかもしれないスけど……セイヤさんは前にも人を泊めたことがあるって言ってました。ここに泊まった人がいたなら、その人たちはお風呂に入らなかったんスかね……?」

「前に泊めたのがいつなのかわからないから何とも言えんよ。見せてみろ」

 愛里を退かして浴室を――というよりも大浴場を覗き込んだ。換気扇の音と湯気に混じる愛里の香りを感じながら全体を見渡した。当然だが、愛里が生み出した湯気と水気の所為で未使用に見えるものは一つもない。それでも俺は靴下を脱いで中に入り、床とか排水溝とかを見下ろしてみた。だが、どこもかしこも新品みたいに綺麗だ。

「……確かに綺麗だな。使っている感じがない、か」

「そうなんスよ……サロンでも変な話が出るし、タク先輩はしきりに顔を動かすしで……」

「変な話?」

 問い詰める必要もないまま、愛里はサロンでの出来事を説明してくれた。

「わざわざ椅子を五脚にした……?」

 俺は無意識のまま顎を撫でる。脳裏をよぎる家人の反応と奇妙な行動。医務室から出る時、十文字氏は迷うことなく俺を指名した。普通、病室にいるのが女性なら付き添いは女性のはずだ。俺と綾香の関係を十文字氏が誤解したとしても、夫婦でもない男を付き添いに選ぶだろうか……。それとも関係を知っていたのか……?

「どれ……見に行くか」

「えっ?」

 愛里の反応を無視し、俺はサロンへ向かうために脱衣所から出た。その背中を愛里が追いかけて来る。角を曲がり、皆の楽しそうな声が微かに聞こえて来る長い廊下を進み――。

「おキョウさん……!!」

 突然、走る足音と大声に体当たりされた――いや、正しく言えば抱きつかれた。ラグビー選手のような勢いで俺の腰を掴んだ愛里は、怒る言葉なんて無視して捲し立てた。

「おキョウさん……! 今……浴室から風が吹いたっス……!!」

「風なんか窓が開いていれば……」

 そこまで言って、俺は口を閉じた。確認するまでもなく、大浴場の窓は全て閉まっていた。もちろん脱衣所に扇風機はないし、エアコンだって動いていなかった。だが、

「そんなの気のせいだと思え。すきま風なんてどこでもあるもんさ」

 些細な風にすら怯える愛里の頭を撫で、俺はもう一度曲がり角を見つめた。映画なら幽霊様の登場だが、現実はこんなもんだ。

 何も起きないことを確認してやってから俺はまた長い廊下を早足で抜けたが、二階へ通じる階段を上がろうとした時、また愛里が声をあげた。

「おキョウさん……! 今度は人形が無いっス……!」

「今度は何だよ……」

 そう訊くと、愛里は市松人形との出会いを話した。風呂に入るために下りて来た時にはまだテーブルの下に置かれていたはずだと言う。

「固定されていたものじゃないんだろう? 家の誰かが回収したか、上の誰かが持って行ったんじゃないのか? お前も驚かすために、とかな」

 そういうことをするのは車ぐらいだろう。泣かせても知らないからな。そう思いながら、俺はいつの間にか静かになっていた二階へ上がって奥のサロンに入った。

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