比翼の呼び聲 2

 不意に、自分の意識が戻った気がした。

 それに気付くと、俺は辰さんたちの家にあった囲炉裏に座り、海が神曲のキッチンに立っているという光景を見た。時々自分の視界がぼやけて何も見えないし、聞こえない時もあった。

 その時以来の自我の感覚に、俺はその場で立ち上がった。

「ここは……久流邸か?」

 俺が座り込んでいた場所は、久流邸の水面の部屋の真上にある部屋だ。行灯の明かりの中、中心の祭壇へ祈っていたかどうかはわからないが、こんなものに臨んでいたくはないから部屋中のドアを動かしてみた。だが、四つのドアは全てビクともしないほど固く、蹴ろうが体当たりしようが逆に俺が悲鳴をあげる始末だった。

「まさかみんながここに来るなんて……本当に思わなかったんだよ、海……」

 俺だって本当はこんな結末を迎えたくはない。かといって生きる意味を見出せないままダラダラと生きているのも嫌だが、こればかりはどうしようもない。絹さんが求めている辰さんが俺にそっくりだったからこうして生きながらえているのかもしれないが、絹さんが人違いだとわかった時にどんなことが起きるのか、心中みたいなことをしてあの水面に沈んだらどれだけ苦しむんだろう、とか震えることは山ほどある。

 そんな状況なのに考えることの一番は海のことだ。泣いている海を見ていられなくて、俺が守るから、と今日まで来たけど、結局は俺が泣かせる立場に回ってしまった。父さんと母さんもこんな気持ちだったのかな……。

「どこか……どうにか出来ないのか」

 夢か現かの世界で海には諦観みたいなことを偉そうに言ったが、こうして動けるなら話は別だ。海を世界にただ一人にさせたくないし、それを阻止するためなら何でもするし抗うさ。

 落ち着けよ、空……お前の命は海の命でもあるんだぞ、兄貴として根性見せろ。 

 冷静でいてくれる心の俺に感謝し、もう一度部屋の中を調べ回した。すると、幸運なのかどうかのか、ドアの一つが動いたんじゃなくて外れてしまった。さっきまでビクともしなかったのにどういう風の吹き回しだ。

 ガコン、と外れた木造のドアは室内へ倒れ込み、俺はその背中を踏みつけて室内に入った。どんな奴が待ち構えているのかと思ったら、部屋の奥で俺に背中を向けている和服姿の老婆がいた。何かを唱えているのか、エビみたいな腰と肩を上下にさせている。

「おばあさん……何をしているんですか?」

 この世の者じゃないのは明白だし、このまま振り返って襲って来る可能性もあるのに、これしか進展がないから話しかけるしかない。


 仕方がなかった……ああするしか……道は……。


 背中を向けたままだった老婆はスローモーションみたいにゆっくりと、ゆっくりと向き直った。


 誰を生贄にすればよかった……? 誰を選んでも儂は村の家族から怨まれる……村が助かっても儂の心は助からんのだ……。


 この老婆……絹さんと辰さんを殺すことになった張本人か……。


 辰よ……儂を殺したいなら殺すがいい。この老いぼれは命乞いなどせん……。それでお前が絹の贄を赦してくれるなら……いくらでも斬るがいい……。


 気付いたら俺は右手に打刀を握り締めていた。あの時と一緒だ。海――じゃなくて絹さんを助けに斬り込んだ時と一緒……だけど、あれは史実じゃない。あの場面に辰さんはいなかったし、誰も絹さんを助けようとは思わなかったみたいだ。個人の気持ちとは裏腹に村のためという大義名分を盾にして自分の心を守っていたんだろう。

 そのことに関して責め立てるのは酷かもしれないが、異を唱えられる人がまったくいないというのは物事が最悪の状況へ向かう布石みたいなものだろう。それが最悪の形で発揮された末路がこの村だ。

 俺は何も言わずに打刀を抜く。綺麗な刀身に映るのは俺の顔であり、辰さんの顔でもある。

 そして、この光景はおそらく史実なんだろう。だけど辰さんはこの久流夜琉を殺さなかった。その理由はいくらでも推測出来るが真実はわからない。でも、わかることは一つ……それは、

「俺は……もうあんたを斬らないよ」


 っ……?!


 斬らないことを告げた瞬間、久流夜琉は驚愕を浮かべたまま俺を見上げた。

「絹を男たちへ差し出したこと……贄にしたこと……その痛みがあると言うなら……この村のために生きてもらう」


 …………。

 

「村のために生きて……俺や絹のような犠牲者を出さないと約束しろ」

 この出来事以降のことは知っている。辰さんがこんなことを言ったかどうかは知らないが、これ以降の沿革の中に人身御供は確認されていない。代わりに出て来たのが、二人の祟りを恐れた供養――死形婚の根源が始まった。


 そうだな……儂も……もうこんな思いはしたくないからな……。


「約束出来るな? 俺に……辰という人間に!」


 ああ……約束しよう……勝手に絹を贄にしておきながらだが……辰よ……すまなかった――。


 久流夜琉がそう懺悔した瞬間、前屈みになった頭へ蔦のような黒い影が突き刺さり――驚愕を発した久流夜琉の頭と身体が反り返ると、ボギッ、バギッ、と骨が砕ける音と苦痛の悲鳴が俺に飛びかかって来た。あまりにもおぞましい光景に思わず後退りした時、久流夜琉の隣に彼女がいた。


 兄様……何をしているの……?


 気配も入って来た光景も何もなく、文字通り気付いたら絹さんは久流夜琉の隣に立っていた。

 彼女は藁将村を滅ぼしたわけじゃない。救世主であり本来ならその犠牲を讃えられて感謝されるにも関わらず、目の前にいる彼女に海の顔は無く、あのヘドロのような川に蓄積した全ての負と死と恐怖を纏っているような気さえ感じさせる紅蓮の瞳が俺を見ている。加えて滝のように全身を流れる黒髪の隙間からは人形の顔や手や足が蠢き、髪の先端は老婆とはいえ久流夜琉を反り返して骨を軽々と砕いてみせたほどに強靭みたいだ。

 目の前にいるのは絹という一人の少女だけじゃない。そう理解した瞬間にはもう部屋の景色が変わっていて、久流夜琉の姿も無ければ部屋も完全な廃墟になっていた――が、目の前にいる絹という名の怨霊は消えていない。


 兄様……どうして一緒に流れてくださらないの……? 絹は……また独りです……。


「絹さ――絹……何を考えてるんだ……?」


 来てくれたのでしょう……? 独り……闇の中で生きるのは辛かった……。


 こっちに向かって歩き始めた絹さんを見、俺もそれに合わせて静かに後退りする。


 落ちて……落ちていったの……片翼が無い鳥は底すら見えない深淵の……闇の中へ……。


「絹……俺は……」


 私……という意識すら……闇に溶けて失いそうだった……たくさんの記憶を失ったけど……兄様との大切な思い出だけは……守り抜きました……。


 俺は握り締めていた懐中電灯を自分の足下へ当て、肩越しに背後を確認した。さっきまで行灯が灯っていたはずだが、そこには祭壇すら無い廃墟の一室が広がっている。


 明日もわからない闇の水脈の中で……こんな日が来ることだけを……夢見ておりました……兄様が……私の想いを綴った文を見て……こうして逢いに来てくださる日を……。


「絹……君は藁将様の伴侶として贄になった……」


 はい……ですがご安心ください……この心はずっと……兄様だけのものとして守り抜いてきました……。


「絹の犠牲で村は助かった……飢饉の帳も疫病の帳も村には届かなかったんだ……ありがとう……」

 意を決し、俺は絹さんの右手を両手で包み込んだ。ブニャ……と、湿ったスポンジが沈み込むような感覚と淀んだ水が腐ったようなおぞましい臭いに俺の鼻は顔から逃げ出そうともがく。


 兄様……兄様さえ生きていてくだされば……絹はそれだけで幸せなのです……。


 燃え上がるような瞳が俺を見据える。恐ろしく、相手を瞬く間に竦み上がらせる恐怖を放ってはいるが、さっきよりは遥かに穏やかな雰囲気がそこにはあった。

「絹、君は……今どこにいる……? 目の前にいる君ではなく……君の魂が眠る場所は……」


 兄様の中です……絹の魂の座はそこ以外にありません……。


「贄としてあの湖へ……流されたんだろう? 君はどこにいるの……?」


 わかりません……どこへ流されたのか……どこへ沈んでいるのか……。


「そうか……もう身体は無いんだね……辛かったろう……絹」

 なら絹さんの魂はどこにある……。怨霊を説得して成仏に導けるような語彙力なんてないし、霊感なんて俺には微塵もない。


 兄様……。


 手を握り締め過ぎた。絹さんは恋人に甘えるかのように身体を寄り添わせて来た――ため、偶然を装ってそれを躱したつもりだったが、


 身体があろうと無かろうと……これからの私たちに関係はありません……兄様も……流れてくださるのでしょう……? そのために……こうして逢いに来てくれたのでは……ないのですか……?


 絹さんは覗く瞳を微かに見開いた。すると、それに呼応するかのように人形の顔と四肢が蟲のように蠢き始めた。突き出た顔は一斉に俺を睨み、明確な敵意がその目には宿っていた。

 寄生虫のように絹さんへ絡み付いている人形たちとその視線を見、一つの可能性が出た。村の全滅と共に取り残された人形たちが、成仏していなかった絹さんを依り代にして暴れている、という可能性だ。だとしたら辰さん以外が絹さんを説得するのも無理だし、人形たちの思念から切り離すのも俺じゃ無理だ……。

 こうして辰さんの振りをして絹さんを救うには一緒に流れる以外に選択肢はない。それを突き付けられた現実に俺は微かに後退りした。


 兄様……一緒に流れましょう……永久の……私たちだけの深淵で……。


 ゆらりと迫る絹さんにまた後退りし――足下にあった何かに踵を奪われた俺は無様に尻餅をついてしまった。だが、絹さんはそれを嘲笑うでも失望するでもなく俺を見下ろしたまま迫り――背後の木造ドアが勢いよく開いた。

「っ……空か!? お前! 今まで何処に――」

 振り返った先にいたのは瑞樹さんだ。見るからにボロボロだが、生きていてくれたことは嬉しい。だけど、あまりにも間が悪過ぎる……!


 そ……ら……?


 絹さんの目付きが明らかに変わり、人形たちの顔も俺と瑞樹さんを睨んだ。加えて髪の毛の至る所が逆立ち始め、突き出した手の指もあしゆびもその一つ一つがイソギンチャクのように暴れ始めた。

「くっ……!」

 その光景の手前にはどこかで見た気がする白無垢の藁人形が横たわっており、俺へ縋るように気味の悪い手を伸ばしている。

「おいおい……何だよコイツはぁ!!」

 基本が喧嘩腰の瑞樹さんも後退りし、俺も辰さんのフリなんてもうしていられない。白無垢の藁人形を無視し。走りながら立ち上がった俺は床を蹴り飛ばして瑞樹さんの方へ走った。

「瑞樹さん! 逃げます!!」

 それだけで全てが通じた。瑞樹さんも背中に続き、打刀もあった物置へ通じる部屋に出た俺は横の階段を一気に飛び降りた。その先にある障子の廊下を無視し、横にある船着き場への引き戸を開けたが、ただの廃墟に戻った今は小舟どころか満足な足場すら無くなっている。しかも、


 ドウシテ……ドウシテ……。


 トケテェ……コノナカニ……


 イッショニ……アノバショヘ……。


 水の滴る音を連れて桟橋に手をかけた人形たちが次々と姿を見せた。絹さんと同じようにその外見はヘドロ塗れで恐怖を与えるが、俺にはどこか哀しい雰囲気も纏っているように見えた。だが、

「邪魔くせぇんだよ! オラァ!!」

 瑞樹さんは這い上がろうとする人形たちの顔面をブーツの先端で砕いていくが、船着き場のあちこちから這い上がる人形たちの動きを止められるわけもなく、中へ戻るよう叫んだ俺は瑞樹さんが飛び込んで来たと同時に引き戸を閉めた。

「瑞樹さん! 上の物置に刀が……!」

「馬鹿野郎……! あの化け物がいんだろうが!」

 そうがなりながらも開け放たれたままのドアを抜けて階段を上がろうとした瑞樹さんだが、上から流れ落ちて来たヘドロと足音に飛び退いた。船着き場は無理、上には絹さんと人形の集合体……逃げ道は水面部屋か湖と村を見渡せる廊下を経由して反対側へ行くかの二択しかない。

「廊下に決まってんだろ! お前はどこに行ってたんだ!?」

 何を言っているのかわからないが、逃げる先が廊下は大賛成だ。ガタガタと揺れる引き戸を押さえつつ、瑞樹さんは障子の敷居から廊下を覗き込み――飛び退いた態度で全てわかった。

「クソッタレが!! ここしかねぇ!」

 転がるようにして水面部屋の手前まで逃げた瑞樹さんは、来い、と手振りで合図した。それを受けて俺は背中でタイミングを見計らい――沈黙した一瞬を突いて水面部屋へ走り込んだ。それに続いて瑞樹さんも部屋に入ろうとしたが、引き戸が待っていたかのようにそれを拒絶した。

「瑞樹さん……!」

 止める間も隙もなかったままに俺は瑞樹さんと切り離され、ビクともしない引き戸を見限って逆の引き戸へ走ろうとしたが――。


 お待ちしておりました……兄様……。


 部屋に中心に絹さんがいた。水面の上で立ち尽くすその姿はさっきと何一つ変わらず、俺だけを見据えている。逃げ出したにも関わらず絹さんは俺を辰さんだと思い、自分のもとへ来てくれるのを待っているようだ。そんな彼女の後ろでは、また白無垢の藁人形が正座している。

 上を見るといつの間にか花嫁・花婿人形たちが犇めき、動く俺のことを全員が顔で追っている。


 今度こそ……一緒に……永久の世界へ……。


 水面を滑るようにして絹さんは俺の手前まで来た。蠢くイソギンチャクたちとは裏腹に、お手引きを、と差し出されたか細い腕は今にも壊れそうで、それを見つめていると手がぐらついてしまう。

「絹……あの人形たちは君が操ってるの……?」

 そう訊いたけど、絹さんは答えてくれない。ただ黙って……俺が応えるのを待っている。この手に応えたら、人形たちは満足して海たちを諦めてくれるだろうか……もしも絹さんが人形たちを操っているのなら俺を得て絹さんはみんなを諦めてくれるだろうか……。

 背後から聞こえて来る物音と瑞樹さんの怒号が判断を煽り、右腕がその煽りを受けて震えている。自分が無力だと思い知らされる状況に食いしばる歯は悲鳴をあげ、両足も右顧左眄の悲鳴をあげて竦み上がる。


 兄様……絹に……お手引きを……。


 さぁ、と差し出された掌に、俺は恋人のように掌を絡ませそっと彼女を抱き寄せた。

「絹さん……それで君は成仏出来る……? 出来るのなら……俺は――」


「空!! 駄目!!」

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