狂気の夜 3

 メル……!! ソラとミホを――。


 マコちゃん……?

 叫び声のようなものが聞こえた――そう理解した瞬間、私は自分の身体が真っ暗闇の水の中にいることに気付いた。右も左もわからないままがむしゃらに全身を動かし、微かな明かりが差し込む方向へ突き進み――伸ばした腕を誰かが掴んだ。

「ぷはっ……!!」

 ヘドロを連れて私の身体は川の中から引き揚げられた。いつの間にか着ていた長襦袢は黒く汚れ、全身を弄られているような感覚に私は長襦袢を剥ぎ取ろうとしたけど、

「おいおい! 脱ぐのは後にしろ!」

 そうがなられた私は、私を引き揚げてくれた人を見て思わず――、

「篠原さん……生きてたんですか……?!」

「何だ、心配してくれてんのか。茜崎とかいうガキとは大違いだな」

「マコちゃん……マコちゃんはどこに!?」

「んなことよりお前さん――」


 ドウシテ……?! ドウシテ……?!


 ビチャァ……、と水面のヘドロを背負った白無垢の人形が川の中から這い出して来た。いつの間にか復活していた墓石の隙間から出て来たそれは、潰れた角隠しの下に血のような液体を滴らせる砕けた顔面を覗かせ、無事の片目は私を凝視したまま動かない。

「このっ……! 気持ちわりぃんだよ!!」

 私を退かした篠原さんは這いつくばる人形をサッカボールみたいに蹴り飛ばした。ガチャーン、と脆い音を吐き出しながら人形は川の向こう側へ吹き飛んで行った。

「篠原さん……」

「何て格好してんだよ、おめぇは――」

 乱暴に立ち上がらされた私は、身体に付きまとう長襦袢の気持ち悪さと把握出来ない状況の答えを求めて篠原さんに縋ったけど――。


 イッショニ……ナガレマショウ……。


 ナガレテ……イッショニ……。


 水面を裂いて次々と姿を現した人形たちは墓石の隙間から私と篠原さんへ必死に手を伸ばす。その光景はさながらゾンビ映画で、空のスマホに送られて来た写真とはあまりにもかけ離れて――。

「あっ……空のスマホ……!!」

「しつこい奴らだ……! 動けるな?! こっちに来い!」

「あのっ……スマホが……!!」

 有無を言わさず腕を掴まれた私は引きずられるようにして篠原さんの背中を追いかけ、いつかにマコちゃんと調べた民家の一つに放り入れられた。そこには長持も箪笥もあって、篠原さんはそれらを照らしながら、

「辛うじて着てられる小袖とか長襦袢が一つぐらいはあんだろ。さっさと着替えろ」

 篠原さんはそう言うと懐中電灯を私へ放り渡した。

「はっ……はい」

 予備だと渡された懐中電灯で照らしつつ箪笥を開けていくけど、中に入っている着物はどれも生きた人間が着られるような保存状態ではなかった。だから箪笥を見限り、今度は足下の長持を開けて着物を外へ放り出し――その瞬間、中から突き出した人形の手が私の首を掴んだ。

「あっ……!!」

 その力は強く、後ろにいる篠原さんに助けも呼べないほどに首を絞められ、


 ヒトリハ……サビシィ……イッショニ……!


 畳まれた着物を全身に乗せたまま羽織袴の人形は上半身を起こしてその力を強めた。だけど、

「あんたと……一緒なんて嫌!!」

 握り締めていた懐中電灯を着物越しに頭へ叩き付けた。それと同時に脆い悲鳴と血みたいな液体が着物の下から噴き出した。長持から上半身を転がした人形はすぐに動き始めたけど、篠原さんがその頭にブーツの一撃を振り下ろした。

「おい、こいつの着物のいいんじゃねぇか?」

 名案だ、みたいな感じで着物を捲り放った篠原さんは、臓器みたいなものを床にぶちまけた人形のことなんて気にもしないで着物を剥ぎ取った。ゴロン、と床に球体関節のような裸体を晒した人形はもう動かず、篠原さんは広げた羽織袴を私へ放った。確かにこれなら女袴みたいに動ける。でも、

「いくら人形でも私よりでかいですよ……」

「あぁ?! どうにかしろよ……!」

 そのどうにかで袴はどうにかなった。だけど、下駄だけはどうすることも出来なかったから、また家の中を漁って足袋と草履を調達した。

「……どうにかしました」

「上等だ。お前……茜崎ってのと一緒に空を捜してここまで来たらしいな」

「……はい。篠原さん、空はどこに?」

「茜崎にも言ったが……俺にはわからん。おまけにこの村……時間が歪んでるみたいで生きた人間を見かけてもすぐに消えちまうし、建物も怨霊連中も見かけるたびに姿を変えてやがるから……お手上げ状態なんだよ」

 畜生め、と篠原さんは頭を乱暴に掻きむしった。確かにフケの一つも出てこないのを見ると、現実の数ヶ月とは無縁だったみたいだ。空が生きていると由乃さんが疑わなかった理由はこれだろうか。

「あの……詳しい話を聞かせてくれませんか? 私……川を跨ぐ拝殿で白無垢の藁人形に組み付かれて……藁将様へ生贄にされる絹という人の記憶というか……その人の生前の光景を視ていたんです……」

 最後は急に視界が闇に閉ざされてテレビみたいに視界が途絶えた。そして気付いたらマコちゃんの叫び声が聞こえたような気がして――。

「っ……! 篠原さん! マコちゃんがあの川底に!!」

 私は川から引き揚げられた。その状態でマコちゃんの叫び声が聞こえたということは――。

「マコちゃん――茜崎のことか。無駄だ」

 民家から飛び出そうとした私の身体を片腕で止めた篠原さんは、罰が悪そうに目を逸らした。

「あの川と湖に水底はねぇんだよ」

「それは……どういう……」

「そのままだ。比喩でも揶揄でも例えでもねぇ。少し前……って、それがいつかわからねぇが……黒髪に赤を混ぜたガキが村の入り口にある溜め池からお前みたいに出て来たことがあった。助けてやろうとしたが……池の中にいる人形と他の連中に引っぱられて消えちまった。その時に顔を突っ込んだが……底なんて見えたもんじゃなかった。ただの川と池と湖じゃねぇんだよ」

「黒髪に赤を混ぜた……?! まさか……美穂……?」

「知ってんのか。そういえば茜崎がお前の同居人がスマホごと行方不明になったって言ってたな。んだよ、俺の所為じゃねぇからな?」

「……篠原さん、この村のことをどこまで知ってるんですか?

「ああ……お前らもがんばったみたいだが、図書館にいた婆に食い下がらなかったのが分かれ道だったな」

 そう言って篠原さんは私たちの知らないことを教えてくれた。


 大昔、藁将村は大和朝廷との争いに破れた豪族が東北地方のとある場所へ逃げ込んだのが始まりだった。周囲からも隠れるようにして村を作り生活していた彼らだが、大和からの激しい追跡によって居場所を特定されてしまう。

 その際に村人の一人が藁で編んだ人形ひとがたを用いて大和の軍勢を牽制することに成功する。加えて悪天候と大和朝廷内の争いによって大和の軍勢は追跡を中止して撤退した。我らの村は藁によって守られたと感嘆した村人たちは藁を神聖なモノと見なして崇拝し、一際大きい藁の人形ひとがたを藁将様として奉るようになった。

 月日は流れ戦国時代。這々の体で大和から逃げていたかつての豪族の末裔たちは、とある武将の下で勇猛果敢な働きを示し、家臣にまで上り詰めていた。

 そうして迎えた江戸の世では家臣の直系の子孫である久流家が庄屋としても村を支配していた。だが、天明の大飢饉が村の行く先を没落へ決定付けた。

 今の久流家にはかつて村を訪れた旅女郎の血が混ざっていた。その旅女郎は村で口寄せを行い、藁将様の大御心を伝えたとして歓待された者であった。それ以降、久流家には女しか産まれなくなり、稀人の子供が産まれたら殺すことになっていたらしいを屋敷に招き入れては子孫を繋げていた。そんな旅女郎の血を最も濃く受け継いだと自称する久流家長女の久流夜朱による口寄せによって、藁将様に伴侶として女の生贄を捧げれば飢饉からも疫病からも村は守られる、という結論が下された。

 当時の女当主であった久流夜琉は村の有力者を集めてその旨を話し合い、両親がおらず辰という双子の兄と共に暮らす絹という美しい娘が選ばれた。両親がおらず、十七になっても村の誰とも結婚しようとしないため選ばれたのだと察した絹は、江戸へ出ていた辰に手紙を遺して贄となった。しかし、生家を出た途端に絹は拘束され、久流家の二階で男たちに強姦されてしまう。

 絹が選ばれた理由は飢饉による焦燥感で余裕がなくなりつつあった男たちへのガス抜きとしてでもあった。贄になることに変わりがないなら、誰とヤりたいか、ということが贄に選ばれる理由となり、美しい容姿と心を持った絹が狙われたのだった。

 その後、絹は藁将様の伴侶として久流家の中心に作られた祭座から、藁将様の人形ひとがたと共に流された。絹の強姦を知る者はおらず、帰って来た辰にも彼女の贄は村と辰を守るための尊い犠牲だったのだと言い聞かせられ、全てが順調に向かうと思われた。事実、村の食料事情は回復し、疫病が村を覆うようなことはなかった。そんな中で事件は起きた。

 絹の強姦現場を見ていた童が辰にそのことを告げたのだ。それで全てを察した辰は久流家にある刀と面具で武装し、絹を強姦した男たちを次々と惨殺した。その刃は久流夜琉も追い詰めたが、事情を知らない他の村人たちの刃で辰は殺され、その遺体は罪人として野ざらしにされてしまう。

 その十年後、飢饉と疫病が藁将村にだけ広がり、さらに落雷が民家と久流の屋敷へ落ちたことで混乱はさらに大きくなり、屋敷に炎上で久流夜琉と久流夜朱が焼死してしまう。それが辰と絹による祟りだと恐れた村人たちは野ざらしにしていた辰の亡骸を捜すが見つけられず、絹の亡骸も引き揚げることが出来ず、久流の分家が捜し出した高名な人形師に二人の人形を製作してもらい、赦してほしいと村人たちは懇願した。

 二人を模した人形は供養として川に流された。すると、それ以降の飢饉と疫病がピタリと治まり、村に安寧が齎された。だが、二人による祟りがまた起きるかもしれないという恐怖は村人たちを苛み、人形を川へ流す供養は毎年行われることになる。

 分家が受け継いだ久流も件の人形師を稀人として家に招き入れ、人形師の血も取り込むことになり、毎年の人形製作は久流家が担うことになった。

 そして時代は流れ……文明開化から五年後のある日、村を訪れた西洋人の記述によって儀式が明治政府と世間に知れ渡ってしまう。加えてその西洋人による誤解で生身の女を藁将様への伴侶として流している、とも記述されてしまい、西洋からの嘲笑・嫌悪対象になりかねない前時代的な風俗や民間伝承などを嫌っていた明治政府は村へ人を派遣してただちに儀式を止めるよう通達する。

 祟りの再発を恐れていた村人と久流家は、人形を川に流すのは如何わしい儀式などではなく、かつて生贄にされた娘たちを供養するためだと説明した。供養という言葉に明治政府側はそれ以上の紛糾など出来ず、偽りの風習がここに確約された。

 村のために行った生贄が時代を超えて村を偽りで固める結果となり、供養を求めて人形を持ち込む人や独身のまま亡くなった親族のために人形の伴侶を求める人などが村を訪れるようになってしまう。その結果、製作された人形を独身のまま亡くなった人の伴侶(伴侶を模した人形も作る)として川に流す死形婚が産声をあげ、さらに自死を求める人たち(こっちの方が遥かに多かったという)も人形の伴侶を伴って流されるようになり、村の外見も変わって二股鳥居やバリケードのような墓石なども加わり、ここに人の死を喰い物にする村が誕生した。

 そして最期は……戦争による空襲を受け、数人の村人を残して村は壊滅した。久流の血筋も滅び、誰かが村を訪れることも、供養してあげる者もいなくなった……が、残されているモノたちがいた。それは……。


「あの人形たち……伴侶が得られないまま放置されている人形なんですか?」

 私が知ることと視たことが篠原さんの知る情報に加わり、主観と推測もあるけどおそらくは正しい村の沿革が完成した。特に私は絹さんが感じた恐怖と嫌悪を嫌というほど感じたし、辰という人が空に異様なほど似ていることが恐ろしかった。

「そうだろうな。時代的にドレスとかは最近になって自分たちで導入したんだろう。ふん。伴侶を得られないで嘆くのは人形も一緒ってことだな」

 Taoさんたちの動画にも久流邸にたくさんの人形たちが転がっていた。幽霊だ過去の映像だ何だを視てきたんだ。今更人形が勝手に動いている現実を見ても驚かない。

「村が全滅したのは戦時中で、戦後は誰も村に戻らないで放棄したから……人形たちは取り残されて勝手に伴侶を求め始めた」

「それで正解だろう。最初はラジオみてぇに波長が合う奴らに囁いてここへ呼んだのかもしれないが……スマホなんて余計なもんを渡したからますます厄介なことになりやがったわけだ」

「それなんですけど……そのスマホを回収すれば万事解決ですか?」

「まぁ無理だな。お前、あの川に沈んだんだろうが。あの闇の深さだぞ? 見つけられるとか云々の前に物質として存在してるのかもわからねぇ。加えて久流の屋敷に失敗作の人形が一つも見当たらないことを考えると……失敗作も流してたな。そいつらにも伴侶を求める意識があるなら……さっきみたいに取り合いされるだけだ」

「じゃあどうしたら……」

「だからお手上げだっつんだよ。幸いにも俺と空が行方不明になってまだ数ヶ月らしいし、茅か……お前のところの柊が助けに来てくれるまで耐えるしかねぇ。空の方も見つからないが……まぁ無事だろうよ」

 どうして由乃さんも篠原さんも空のことを無事だと断言出来るんだろう。

「……由乃さんは無理そうですよ」

 由乃さんは私が関わらないといけないと言っていた。それで救われるものって何なんだろう……誰が救われるんだろう……。救うどころかマコちゃんも美穂もこの村で消えてしまった。帰って来てくれる保証もないのにどうしたら……。

「それにしても……あの面具野郎が空に瓜二つとはな。しかも双子ときたもんだ。絹ってのもお前にそっくりなんじゃねぇか?」

「あっ――」

 名字はわからないけど、絹さんと辰さんは私と空にそっくりだ。互いに両親がいなくて、二人だけで生きようとしていて、おそらく……多分、きっと……あの時代で絹さんが独り身だった理由は……。

 そう思った瞬間、


『他者に頼るのも限度がある。それに……その写真が海のことを呼んでいる気配がある。あなたがこの事件に関わることで……〝救われるもの〟がいるみたい。私がやってもそれは救えたことにならない』


『写真が届いた人に求めているものがある……だから蓮華様もこの事件に関わらなかったのかな……それ以外の人たちが赴いても根本的な解決にはならないから……』


『その写真が届いていない私にも蓮華様にも、その霊能力者にもこの事件は解決出来ない。空君を見つけて取り返すのも全て海が自分の力でやるしかないんだよ』


『でもさ……ウミ、ユノは出来ないことをやれとは言わないよ……』


 静電気に貫かれたみたいに由乃さんと美穂の言葉が脳裏をよぎった。

 それに加えてあの呼び聲と囁き……私はずっと人形から空に向けられたものだと思ってた。だけど、ああして花嫁・花婿人形と相対してわかったことがある。あの人形たちは口惜しいなんて発言しないし、発音も棒読みで人間味なんて何も感じない。それならあの呼び聲のような囁きは……。


 あぁ……口惜しい……どうして……あなた様は見つけてくださらないのでしょう……。


 あぁ……私は……ここでお待ちしております……。


 あの囁き……江戸に行く辰さんへ絹さんが告げていた言葉と同じだ。あの家に……絹さんの魂があって、まだ辰さんのことを待っているんだろうか。そもそも、あの手紙を辰さんは読めたんだろうか……。

 藁将村が没落する全ての根源に辰さんと絹さんの姿がある。あんなことをして贄にされた絹さんの無念……絹さんを奪われたうえに殺された辰さんの無念……口惜しいと言うに決まっているし、怨霊として出て来てもおかしくない。この空間を維持しているのが絹さんたちなのか人形たちなのかはわからないけど、二人を救ってあげたいと思う。

「篠原さん……色々と確証なんてないんですけど、絹さんと辰さんの無念を晴らしてあげることが脱出の手懸かりになると思うんです……!」

「……やれることがあんならやってみりゃあいい。俺に霊感なんてないからな」

「絹さんと辰さんの死はもう変えられませんけど……その後は変えられる。二人の無念を晴らして再会させてあげればいいんです」

「あげればいいんですって……どうやるんだよ」

「辰さんの遺体を見つけて死形婚的なことをしてあげるとか……絹さんの気持ちが込められた手紙を辰さんに渡すとか……」

「どっちも無理だろうが……。この湿気だらけの村で野ざらしにされた江戸時代の人骨? あの時代の紙切れに書いた手紙が残ってるわけねぇだろ。ましてやそいつらの家なんて保存しておくわけが……」

 そこまで言って篠原さんは口を閉じた。だけど私もそれは同じだ。何故なら、

「この村に色んな時間が混在してるなら……見つけられるかもしれません」

「そういうこったな……運がよけりゃ見つかるだろう」

 行動しかない。私は民家から出て、記憶を頼りに絹さんと辰さんの生家を目指した。すると、また村の時間が変わったようで、家屋の数がTaoさんたちの映像よりも増えているうえに、

 家から出るな……! 久流様の言いつけ通りにすれば大丈夫だから。

 どこかの家にそう言い聞かせている野良着の村人がいた。

「ビンゴだ……どうやら絹ってのをまわした夜らしいな。村の連中も出て来ないだろう」

 頷いた私は記憶を頼りに二人の生家を探して民家の間を駆ける。カサカサと草を揺らさないように気を遣いながら、腰に悪い中腰で家の隙間を縫い、松明を持って外出を見張る村人の後ろを抜けてようやく二人の生家に辿り着いたのに……。

「ちっ……見張ってるみたいだな」

 篠原さんが言うように、生家の入り口前に村人がいる。見張っているのは明白だけど、何を見張っているのかはわからない。

「俺がそっちで陽動してやる。その隙に調べてさっきの家に戻れ」

 返事を待たずに民家の陰へ消えた篠原さんの背中へ頷き、すぐに家の中へ飛び込めるように身構えた。すると、

「おい、川の中に誰かいるぞ? 来てくれ!」

 篠原さんの声が届き、見張りの人は丁寧に応えて家の前から消えてくれた。その隙に私は家の中に飛び込み、絹さんが遺した手紙を回収しようと文机へ飛びついた――のに、そこに絹さんの手紙は無かった。

「えっ?! 何で……? まさか……」

 手紙に気付いた久流夜琉か村の誰かが回収したんだろうか……。

 どうしたら、そう思った時、藁の柵しか見えない格子窓の向こうから足音が聞こえた。それは逃げるような足音だったから、私は即座に格子窓へ張り付き――茂みの中を走る女の子の背中を見た。

 あの子供が持ってるんだ……。

 私は即座に家を飛び出し、裏の茂みの中へ飛び込んだ。そういう動きは地元の子の方が速い。見失わないように小さな背中を追いかけ、私はいつの間にか力士みたいな藁の人形ひとがたが守る坂の横を抜けて、藁の柵で固められた拝殿風の建物と出会した。

 その建物はまるで関所のように立ち塞がっており、見張りはいないけど入り口の所に篝火が置かれている。女の子はどこへ行ったのかと視界を振り回すと、藁の柵をくぐり抜けるように穴が掘られていた。いくら私でも潜れないし、土を掘っている時間なんてない。

 拝殿の木造ドアに飛び付き、中から人の声が聞こえて来ないことを確認してから拝殿の中へ入った。

 その最初の部屋にはひな人形のような祭壇が置かれ、神饌のようなものが並べられたひな壇の最上段には藁人形が鎮座している。照明の行灯はどれも消されていて、懐中電灯が無ければ何も見えない闇の中にドアが二つある。

 私は左のドアを選んで隙間から中を覗き込んだ。すると、その部屋は二つの行灯が灯されていて、四角い部屋の天井にも壁にも一部の床にも結婚を描いた絵馬がビッシリと飾られていた。絵馬は異様なものじゃないのに、こうして犇めくとそう見えてしまうから不思議だ。しかも描かれているのは人間と人形の姿だ。

 その光景に私は圧倒されてしまい、奥にあるドアのことを忘れていた。そのドアが、ガタタ、と微かに動いた瞬間に現実へ戻れた私は急いで入り口に逃げ込んだ。

 確実に誰かが向こうの部屋にいた。危うく出会すところだった現実に両膝が笑うけど、それを叩いて無理矢理歩く。

 今度は反対側のドアを開けた。その先は人影も気配もないL字の廊下で、そのまま角を曲がって奥にあるドアに耳を押し付けた。今度は誰の声も気配も物音も聞こえて来ないから、静かにドアを開けた。

 そこは拝殿の裏で、木造の僅かな階段を飛び降りた私は湖の中心に浮かぶ久流邸を照らしあげる篝火と小舟が並ぶ桟橋を見た。あの女の子はあそこにいるんだろうか……空も……。

 幸いにも桟橋に見張りの姿は無く、篝火で浮かび上がる久流邸にも例の船着き場に見張りの影は無い。今なら小舟で乗り込めるかもしれない、というか今しかないかもしれない。私は私に頷いて一気に走り出し――。

「ギャッ!!」

 背後から、バァン、と木が砕けるような音と断末魔みたいな悲痛の叫びが響いた。その不吉な音に首根っこを掴まれた私は振り返らされ――。

「ゆっ……ゆるして、ゆるし――」

 地べたを這いながら命乞いする野良着の村人へ辰さんは刀を振り上げた。

「辰さん……止めて!!」

 反射的に飛び出した懇願は届かず、辰さんの狂刃は村人を斬り裂いた。刀は嫌な音と血飛沫を散らして宙に弧を描いた。ビチャビチャと地面に染み込んだ血の中で辰さんは血走った瞳を見開いたまま私を見た。

「辰……さん?」

 目の前で繰り広げられた光景は現実じゃない。ただの過去映像でもあるけど、この村に囚われた幽霊たちが永遠にその映像を繰り返す地獄の光景だ。

 その永遠の地獄を繰り返す辰さんに呼びかけたけど、もう聞く耳を持たない怨霊と化しているのか、躊躇う素振りもないまま刀を連れて迫って来た。

 辰さんの遺骨を見つけることも、絹さんの手紙を見つけることも出来ないまま私は踵を返すと桟橋へ走り、繋がれていない小舟に飛び乗った。バシャン、と大きく揺れたけど小舟は転覆せずに私を受け入れてくれた。そのまま船尾の櫓をがむしゃらに動かして桟橋を離れた。

 殺気を連れて桟橋の手前まで来た辰さんだけど、ジャンプしても私に届かないとみたのか、それ以上追いかけては来なかった。

 今更になって暴れ始めた心臓を押さえながら、私は桟橋で仁王立ちの辰さんを警戒しつつ久流邸の船着きへ意識を向けた。

 篝火のおかげで迷うことはなく、私は無茶させた櫓に感謝しつつ小さな船着きへ飛び乗った。この入り方はTaoさんたちと同じだけど、今は廃墟じゃないから引き戸も壊れていない。

 耳を押し付けて人の気配を確認してから引き戸を開けた。今の時間は江戸時代だから、まだ死形婚も人形も製作していないのだろう。箪笥とか長持とかが置かれているだけで怪しいものは無い。

 警報状態の胸を押さえながら、奥の引き戸へ手をかけた――。


 今は儀式の途中……何人も贄座に入ることは赦されん……。


 背後から呼び止めるような声が聞こえた。明確に幽霊の気配が漂い、引き戸が動かなくなった。

「儀式……女性を強姦して湖に投げ捨てるのが儀式ですか……」

 私は振り返り、入って来た場所に立つ白拍子姿の久流夜琉を見据えた。


 あれはやむを得ぬことだ……飢饉と疫病への恐怖……男も女も限界が近付いていた……。


「それで村の有力な男たちのためにガス抜き道具として使ったわけですか……。絹さんは死ぬのが怖かったのに……村のために……辰さんのためだからと覚悟して贄になることを受け入れたんですよ?! それだのに……あんたも同じ女でしょ?! 自分の身体を好き勝手にされる恐怖……集団で嬲られる恐怖はわかるでしょ!?」


 それでも……村を守るためなら……鬼にでも羅刹にでもなろう……そなたも同じだろうに……。


「同じじゃない……! 私は……」


 では……そなたなら村を滅ぼすのだな……? 一人の尊い犠牲で……村が生き残れるのなら……長は決断しなくてはならん……。


「…………」


 それに……夜朱の神懸かりは藁将様の大御心であらせられる……我らに異を唱えることなど赦されぬのだ……。


「尊い犠牲……」

 今と昔の価値観は違う。他民族を殺すのがステータスだったり、奴隷を持つのが当たり前だったり、植民地が当然、虐殺するのが普通、今じゃ目と耳を覆いたくなることが当たり前だった時代を、出来事を、今の価値観で紛糾するのはお門違いなのかもしれないけど、それでも言わずにはいられない……だって絹さんの心を感じたんだから……。

 全身の毛が逆立ち、目の前にいる久流夜琉への憎しみが足下から噴き上がった来た。

「絹さんの犠牲を尊いと言うのなら……どうして辰さんを殺したの……!」


 あれは気が触れた……畜生腹の片割れに邪な慕情を抱いたゆえに儂らへ斬り掛かったのだ……。


「違う……! 辰さんは絹さんが強姦された後に贄にされたことを知ったの……!」


 まさか……。


「絹さんへの所業がガス抜きだと言うなら……辰さんの復讐もガス抜き……! 絹さんも辰さんも成仏出来るわけないじゃない!」

 この一件が藁将村を没落へ導いた根源だ。さらに今になっても終わらない死の連鎖を呼び寄せている。この村はもう消えなくちゃいけない。忌まわしい記憶と共に……!

「私の邪魔をしないで……! 忌まわしい亡霊は消えろ!!」

 拒絶の気を全身から吐き出した瞬間、久流夜琉の影は吹き飛ばされたように散り散りになった。それと同時に気配は消え、引き戸が微かに動いた。私はそれを見逃さず、何が待ち構えていても止めないと覚悟した足取りを連れて引き戸を退けた。

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