ダントツ

 ちっちゃい頃から身体を動かすのが大好きで、中でも走るのがダントツだった。


 上手く言葉に出来ないんだけど、心臓と、呼吸と、ゴウゴウって風以外なんの音もしないのがすごくいい。


 これから書くのは小5の時の話。その頃の私はマジで学年1早かった。男子も含めてだよ?


 同じクラスに、ちょっと変わった子がいたんだ。すんごく可愛いけど、あんまし笑わない子。


 いっつも上等そうな服を着てて、一度着た服は二度と着ないとか噂されてた。


 後で本人にその噂が本当かどうか確かめたら、「嘘よ。たまに2回着るから」だって。


 苗字は無辺山むべやまで、名前は瑠璃。


 私はその子に会って初めて『瑠璃』という言葉の読み方と意味を知った。てっきり、その子のためだけに作られた言葉なんだと思ってた。

 

 だってそんくらい瑠璃は凄かったから。近寄りがたいんじゃなく、ガチで近寄れなかった。


 瑠璃のお父さんはでっかい会社の社長さんだった。ちなみに、私のお父さんが働いてる会社でもある。


 そのせいか、学校の先生も瑠璃を特別扱いしてた。


 授業中に当てられることは少なかったし、重労働の給食当番に選ばれることもなかった。掃除はいっつも楽な箒だったし、席はいっつも最後列の日当たりのいい所。


 瑠璃のお家がどんだけ凄いのかは全然分かんなかったけど、そんだけ特別扱いをされてれば、流石に子供の私でも瑠璃のポジションがなんとなく分かった。


 ちなみに、裏ではみんな瑠璃のことを『姫』って呼んでた。だからか分かんないけど、少ないとかじゃなくて、瑠璃には友達が全くいなかった。


 私はよくお父さんに『社長のご息女に失礼のないようにしなさい。じゃないと、うちは終わりだからね…』って言われてたけど、多分、他の子達も同じように言われてたんじゃないかな。


 本を読むか、窓の外を1人ぼんやりと眺める。それが休み時間の時の瑠璃だった。


 ある体育の時間。その日はハードル走だった。


 私は自分の番を待つ間に、校庭の隅っこに置いてある冷水機に向かった。


 冷水機の近くにはベンチが何個かあって、その1つに瑠璃がちょこんて座ってた。体育の授業の免除。それも特別扱いの1つだった。


 私は気にせず冷水機のボタンを押して、水流の中に顔を突っ込んだ。


「足が早いのね」


 最初、空耳だと思った。水が耳に入ったかもしんないって。


 瑠璃の声なんて殆ど聞いたことなかったから、それがあの子の声だなんてミリも思わなかった。


 でも、もしかしたらって私は顔を上げた。


 それで、目が合っちゃった。


 本当に瑠璃のようにキラキラした目(我ながら上手くない?)が、汗と土まみれの私を見てたんだ。


「へ?」って私は言った。思い返すとダサいなぁ。


「足が早いのね、って言ったの」そう言われてようやく、私はさっきのが幻聴じゃないって知った。


「ありがと」

「カッコよかったわ。魚みたい」


「ああ、うん…?」

「ねえ、ハードルに足が当たった時って痛くないの?」


「わかんない。走るのに夢中で」

「そう。ありがと、教えてくれて」


 ルールとしては、静かにその場を去るのが正解だったんだと思う。


 ほら、女王に「下がれ」って言われて、鎧をガチャガチャ言わせながら帰ってく騎士みたいに。


 でも、私はやらなかった。


 ちゃんと頭に酸素がいってなかったんだと思う。もしくは、軽い熱中症だったか。それか、瑠璃がもっと話して欲しそうに見えたから。


「無辺山さんは走んないの?」


 私がそう聞いたら、瑠璃は眠たげな目をちょっと見開いた。後で聞いたら、質問されて驚いたんだってさ。


「走りたいけど、走れないの」

「なんで?」


「私にも分からない。でも、ママが激しい運動はダメだって」

「どこか悪いの?」


「元気よ。でも、怪我をするかもしれないからって」

「ふうん。無辺山さんは走りたくないの?」


「やってみたいとは思う。でも、ハードルに足をぶつけるのは痛そう」

「ああ、そっか」


 グラウンドに視線を戻したら、順番はもうすぐだった。私は瑠璃に言った。


「ごめん、もう行くね」


 それで終わればいいのに、なんでか私は「無辺山さんの分まで走るから、見ててね」と余計な分を付け足してしまった。


 その日2回目のハードルはいい感じだった。勿論クラスで1番早かったし、ハードルに一切足も触れなかった。


 走り終わって息を整えながら、私はなんとなく瑠璃の方を見遣った。


 また目が合っちゃった、気がした。遠いけど、瑠璃は笑っているように見えた。


 なんでか分からないけど、その時私は嬉しくて嬉しくてたまんなかった。まあ、今なら理由が分かるんだけど。


 その時から私は瑠璃を意識するようになった。


 ほら、男子がさ、好きな女子の前で張り切る奴。キモーって思うけど、私も同類なので救いようがない。


 走る時以外でも、屋外だったらキックベース、ドッジボール、縄跳び、鬼ごっこ。屋内だったらバドミントンに、バレーに、バスケ。


 瑠璃を楽しませるために私は結構頑張った。お陰で色んなスポーツが得意になった。


 それが良かったのか、ある日の席替えで私は瑠璃の隣になった。


 これは偶然じゃないなってその時から思ってたけど、後で聞いてみたら、やっぱり先生に直談判をしたらしい。


 直談判っていうか、多分瑠璃が「やって」って言って、先生が「はい…」って感じなんだろうけど。


 中身入れ替わった?って思うほど、瑠璃はよく喋った。


「どうして走るのが好きになったの?」

「本は読む?」

「家にいる時は何をしてるの?」

「鼻水って脳みそだと思う?」

「犬って臭くない?」

「大人にも子供の頃ってあったのかな?」

「あの男子、さっき鼻をほじってた」

「夏場のアスファルトで卵焼きって作れると思う?」


 先生とかクラスメイトは、私が瑠璃と当たり前のように会話するのをビックリしながら見ていた。多分「アイツ、勇気あるなぁ…」とか考えてたんだろな。


 私はただただ楽しかった。『姫』と友達であることに、誇りも感じてた。


 ある昼休み。その日、私達は図書室にいた。私は本は全然読まない。本を読んでる瑠璃を見るだけ。


 瑠璃は突然本を置くと、私の目を見て言った。


「私、家出したいの」

「へ?」って私は答えた。相変わらず、ダサいなぁ。


「決めた、家出する。もう嫌、あんな家大っ嫌い」

「え? 綺麗なトイレも、おもちゃも、ゲームも、お菓子も全部揃ってるのに?」


「全部なんかじゃない! 足りない、1番大事なものが足りないの!」

「なに、それ?」


「好きなことが出来ない。用意されたものしかないの。自由、自由がないの」

「自由…」


 私は頭が悪いから、瑠璃の言ったことが全然理解出来なかった。だから代わりに、お金持ち特有の我儘かなって思うことにした。


 バカ、私のバカめ。バカバカバカ…。


「私が家出したら、ついてきてくれる?」


 そんなんだから、そこで正しい受け答えをすることが出来なかった。私は怖がってた。


 今更になってお父さんの忠告を思い出して、不味いことになったって考えてたのを覚えてる。ホントに不味いのは、自分の頭だってのに。


 答えを直接聞く前から、私の慌てっぷりを見て瑠璃は察した。


「ごめん、忘れて」そう言って、瑠璃は本を取り上げた。


「友達だと思ってた」


 本を開く前に言ったそんな小さな呟きが、私の心をズタズタに切り裂いた。口が震えて、その場では何も言えなかった。


 今でもたまにその時のことを夢に見る。すんごく辛いけど、忘れちゃいけないことだとも思う。


 次の席替えで、私は瑠璃の隣じゃなくなった。


 本当にショックで、そこでようやく私は瑠璃に向けていた気持ちの重さを知った。


 大切ななんとかは無くなってからようやく気づく。小5にして、それが本当の話だってことに気付かされた。


 人生の中で、その頃が今の所暫定で1番辛かった。一生冬の気分。


 大好きなスポーツにも身が入らなかった。だって、喜んでくれる人がいないから。


 瑠璃はあからさまに私を避けた。それに気づく度、私は心も体も重くなった。


 瑠璃と仲良くなる前に自分がどんな生活をしてたのか、そんなのとっくに忘れちゃってた。


 ある日の下校時間、正門前に巨大なリムジンが止まってた。黒光りした、カブトムシみたいな感じ。ちょっと違うかも。


 それは瑠璃のお迎えだった。いつもじゃないけどたまに来てたから、別に誰も驚かなかった。


 私はちょうど、スーツ姿のデカい3人の大人に付き添われながら瑠璃が車に乗ろうとする所に出会した。


 元々、私達は住む世界が違った。


『姫』とほんの少しでも友達ごっこが出来たことが特別だったんだ。私がリムジンを見ながらそんなことを思ってると、瑠璃は足を止めた。


「お嬢様、どうしました?」スーツの1人がそう言った。


 瑠璃は黙ったまま、停まってるリムジンを見てた。どうせ関係ないからと、私はさりげなく横を通ろうとした。


 その時「杏奈あんな!」って呼ぶ声がした。ちな、それが私の名前ね。


 空耳かなって思ったけど、聞き覚えがあったので私は声の方を見た。


 目が合っちゃった。


 ガラス玉みたく綺麗な2つの目が、涙で輝いていた。震える口で瑠璃は言った。


「助けて! 私を連れてって!」


 正直、その時の細かい気持ちとかはあんまよく覚えてない。


 とにかく私はランドセルを前に掛け直すと、瑠璃に近づいてった。瑠璃はゾンビみたく、両腕を前に出して待ってた。


 私が地面に膝をついて姿勢を低くすると、瑠璃はすぐに背中に飛び乗ってきた。3人のスーツ達は、困惑したように私達を見下げてた。


「あー…」


 私は何かを言おうとしたけど、思いつかなかったので、もうそのまま走り去ることにした。ビュン!


「捕まってて!」


 足を必死に動かしながら、私は背中の瑠璃にそう叫んだ。返事は聞こえなかったけど、私の首元に回された腕の力が強くなった。


「なんだアレ!」

「ヤバいヤバい!」

「あの子なんであんなに速いんだよ!」


 後ろからはスーツ達のそんな声が聞こえた。でも、振り返る余裕はなかった。


 いつもはすぐにゴウゴウって風の音が強くなるのに、その時はドタバタいう大人の足音が中々消えなかった。


 それでも私は、結構頑張った。


 一度した後悔をまたやりたくはなかった。瑠璃の身体は骨張っていて軽かったし、その感触を感じれば感じるほど、私は頑張る気になれた。


 何度も何度も風を引き裂いてやった。


 何度も曲がり角を曲がって街路樹を抜けてやった。


 びっくりした顔の通行人を何人も置き去りにしてやった。


 標識も建物も人も車も、全部色だけになって視界から消えて行った。私は体感で半日は走ったつもりだったけど、本当は5分ぐらいだったらしい。


 人を1人背負っての全力疾走は思った以上にキツくて、近くにあった公園のベンチに瑠璃を降ろすと、私は地面に大の字になった。


 ゼエゼエって犬みたいになってる私を、瑠璃は覗き込んだ。


「大丈夫?」

「ダメかも。死ぬかもしれない」


「嫌! 死んじゃ嫌…!」


 そこまで悪い気分じゃなかった。だって、やり直せた気がしたから。


 これでもう、いつ死んでも良いって思った。


 ネタバレになってごめんなんだけど、私は死ななかった。休んでいる間に、私達はスーツ達に囲まれちゃった。


「お嬢様。本当に勘弁してください…」


 瑠璃は大人しくスーツに従った。顔色がよっぽど悪かったのか、私はそのまま一緒に車に乗せられた。


 大豪邸の一室で休ませてもらってる間中、外からは大口論が聞こえてた。瑠璃と、お相手は瑠璃のお母さん。


 口論って言っても瑠璃が一方的に相手をやっつけてるような感じ。最後の方なんて、お母さんは泣き声しか聞こえなかった。


 後でちょっと冷静になってみて、ヤバいことしたって震えた。社長の大事な1人娘を、失敗とはいえ私が誘拐しちゃったんだから。


 だけどその後なんの音沙汰もなかったし、お父さんもクビにならずに済んだ。


 ほんのちょっとだけど、瑠璃は体育の授業に参加出来るようにもなった。体力がないからすぐに休んでたけど。


 席替えで、私はまた瑠璃の隣になった。


 席替えがあった日の国語の時間に、瑠璃は教科書を忘れたって言って私達の机をくっつけた。


 瑠璃は2人の姿が教壇から隠れるように教科書を立てると、小声で言った。


「すごく痛かった」

「なにが?」


「おぶられて走った時。風がビュービュー吹いてて、耳が飛ばされるかと思った。あと、口を開けてたらすごく中が乾いた」

「そっか」


「でも、でもね、すごく気持ちよかった。ありがとう」

「よかった。あのね、走りたくなったらまた言って。いつでも無辺山さんをおぶってあげるから」


「瑠璃」

「ごめん。瑠璃ちゃん」


「瑠璃」

「ごめん。瑠璃」


「ねえ、私達って友達ね?」

「うん。だと良いなって、私は思う」


「そう。だったら家に呼ぶのって普通よね? 

「多分」


「じゃあ今日の放課後、うちに来て」

「いいの? 私、瑠璃のお父さんとお母さんに嫌われてない?」


「そんなことない。もしそうだとしても、私が2人にガツンと言ってあげるから。私が杏奈を守ってあげる」

「ありがと。でも、私も守るよ。瑠璃を守る。いつでもどこでも、瑠璃の為に走ってもあげるし」


「嬉しい。それ、本当ね?」

「うん。だって、その、私は、アレだから」


「アレ?」

「アレだよ、アレ。ええと、そうだ! 騎士。私は騎士だから」


 思い出すだけで顔から火が出る。もっと他にいい台詞があったんじゃないかって今でも悩んでる。


 でも瑠璃的にはアレが1番効いたらしい。だったら少しはあの時の私を褒めてもいいかもしれない。


 こんな感じで身体を動かすのが大好きな理由が増えた。


 中でも、ダントツで走るのが。

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