路傍の黄花撰集

二六イサカ

悪霊になった私

 死んだら全ての痛みや苦しみから解放される。


 そう思っていたのに、これはどういうことなのか? 


 月に一度きりの満月の夜、あの子は私に会いに来ます。どういう理屈かは知らないけれど、満月の夜だと、誰でも私の姿が見られるからです。


 10月に始めて喋ってからというもの、あの子は欠かさず毎月やって来ます。冬の夜など人が出歩く時間ではないだろうに、それでもあの子はやって来ます。


 ちゃんと着込んではいるものの、鼻も、耳も、頬も真っ赤です。夜の校舎は、当然暖房などつきません。


 私の姿を認めると、震える口でにっこりと素敵な笑みを浮かべ、私の名前を嬉しそうに呼びます。


 そんなあの子の姿を見る度に、もう動かなくなって久しい私の心臓は痛みます。このままでは、あの子は感冒になってしまうかもしれません。


 死者の私には、どうやってもあの子の身体を温める事は出来ません。抱き締めてあげる事も、上着をかけてやることも出来ないのです。


 どうして死んでまで、私はこんな辛い思いをしなければならないのでしょう?


「見るに耐えないから帰りなさい」と私が言っても、あの子はどこ吹く風。


「加奈子さんが思ってる以上に暖かいんですよ。良い時代でしょ?」と来たもんです。


 そればかりか「加奈子さんは寒くないんですか?」と頓珍漢な事を聞いてきます。


「幽霊に熱いも寒いもあるもんですか」と答えると、相手は「それならよかった!」と安堵したように微笑みます。


「加奈子さんは長袖にタイツだけど、それでもやっぱり寒いんじゃないかって心配で心配で」と、あの子は話を聞きません。


 性格なのか時代が悪いのか、私はついムッとなって言ってやりました。


「私がこんな格好なのは、死ぬ時に少しでも綺麗でいたかったからよ。傷を見せたくなかったの。おかげでマトモな姿の幽霊にはなれたけど、中身はグロよ。一度見たら、きっと死ぬまで頭から離れないわ。どう? 見せてあげましょうか?」


 でもあの子は怖気付くどころか、眉を顰めると、私の実体のない腕に両手を添えます。


「痛かったですか? あっ、バカな質問でごめんなさい。でも、どうしても気になっちゃって」とあの子は言いました。


「ちょっとだけ、ね。すぐには死ねなかったから」と私は答えました。


 今でも覚えております。


 地面に激突した時はそれはそれは痛かったのですが、これで全てに片がつくのだと思うと安堵の方が勝りました。それに幸い、すぐに眠ることが出来ましたし。


 でも幽霊になって70年も経てば、肉体の痛みなどはさほど気にならなくなります。それより苦労したのは、いつまで経っても心が休まらぬ事です。


 私は一体全体、人が死んだらこんな事になるなんて思いもしませんでした。いや、全員が全員こうなる訳ではないのでしょう。もしそうなら、もっと沢山の同類を見かけてもいい筈ですから。


 やはり人が言うように、未練とか心残りがあったのが悪かったのでしょうか。我ながら、ジメジメとした性格です。


 死んだ後、私の死を悲しむ沢山の人を見ました。両親に親戚、友人や先生、可愛がってもらった近所の人達、勤労先の仲間や上官。そして、千代。


 私が幽霊になって成仏も出来ない理由は恐らくそこにあるのかもしれません。私は、死んだことをすぐに後悔し始めました。


 でも、誰がこうなる事を予想出来たでしょう? 死ねば全て許されると思っていたのです。


 千代と、その婚約者に向けたあのどす黒い、泥のような、到底考えることを許されないような気持ちから解放されると思っていたのです。


 そもそも、逃げたいという思いがマズかったのでしょうか。あの戦争のお陰で、私は神様なんてものは存在しないんだと思うようになりました。


 だけど、やっぱり神様はいるのかもしれません。でないとこの責苦の説明がつきませんから。

 

 私はきっと、罰を受けているのだと思います。


 そう考えるとこの状況にも納得がいくのです。私はこうして永遠に、己の罪を反省し続けなければならないのでしょう。


 時代が経って、この学校も変わりました。年々生徒は声が大きくなり、早口になり、動きが鬱陶しくなっていきます。スカートは短くなり、足は長くなりました。


 最近の若い子達は、少しばかり生意気ではないでしょうか?


「私も早く死んで幽霊になりたいです。そしたらもうずっと、加奈子さんと一緒にいられるじゃないですか」


 あの子はこんな事も言いました。


 その時ばかりは、私も地獄の鬼のように怒りました。あの子の手首を掴んで、思いっきり寒くもしてやりました。


「幽霊になるっていうのは、こんな冷たさが永遠に続くって事なのよ」と言うと、流石のあの子も押し黙りました。


 本当に、最近の若い子達は愚かです。


 火山が噴火したみたいに大はしゃぎしたと思えば、次の瞬間には石みたいに静かになり、落ち込むのです。そして口を開けば、死にたい死にたい。


 私が言えた義理ではありませんが、どうして年頃の少女というものはこうまで死にたがるのでしょうか?


 私はこれまでに何度も、校内で死のうとする子達の邪魔をしてやりました。


 練炭の火を消し、ロープを切り、カッターを折り、ピストルの弾を抜き、身体を冷たくしたり重くしたりして飛び降りを断念させてやりました。


 邪魔をした中には、その後ロケットを開発する高名な科学者になったり、小児科医になって外国から勲章をもらった子もいます。


 ほら見たことか、と私は時々思います。だって、幽霊になるよりかよっぽど面白みのある人生ですもの。


 私がくどくどと説教をした後、あの子は「ごめんなさい」と言いました。


「本当にごめんなさい。その、無遠慮でした。加奈子さんの事を、まだちゃんと理解してなくて。二度と言いません、あんなこと。だから、その、許して下さい。嫌いにならないでください。加奈子さんに拒絶されたら私、それこそ生きていけません…」


 私は、本当に愚かです。


 あの子の言うことなんて気にせず、「早く家に帰りなさい。それでそのまま、私達は二度と会わないでおきましょう」と言えばいいのに。


 でも私は結局「バカね、このおたんちん。別に怒ってないし、嫌いでもなんでもないじゃない」としか言えないのです。


 私は多分、悪霊になってしまったのだと思います。


 私が強く否定しない限り、あの子は私の許へと通い続けるというのに。そうしている内に、あの子は体調を崩すかもしれません。


 周りから不審がられて友達を無くしたり、家族と揉めるかもしれません。夜の学校からの帰り道に襲われたり、車に轢かれるかもしれません。


 生きている人間が死んでいる人間と関わるなんて、どう考えてもろくな事ではない。それでも私は、いつまで経ってもあの子に強く言えないでいます。


 私はあの子を堕落させ、破滅させてしまうかもしれません。だのに私は、毎月毎月、満月の夜を指折り数えて待っているのです。


 待ちきれずに、昼間にあの子の様子を見に行く事もあります。


 たまに満月の夜でなくても私が見える人間がいるので、滅多に昼の校舎には入りません。それでも、私は行ってしまうのです。


 あの子は表情が豊かで、本当によく笑います。授業は真面目に受けるし、居眠りなんかもしません。友達もたくさんいて、先生との仲も良いようです。


 環境のせいか他の血筋が入ったせいなのか、あの子は千代とはそこまで似ていません。


 もしあの子が千代と瓜二つであったら、私は罪悪感の余り、あの子に声さえかけなかったでしょう。


 そうだ、そうでした。


 そもそも私があの子に声をかけなければ、こんな事にはならなかったのです。


 私が声をかけなければ、あの子は死者の戯言なんぞ聞く事もなく、幸せに、生者に囲まれた温かい生活を送ることが出来たのです。


 そう、そうなのです。


 私は結局、自分から望んであの子に近づいたのでした。やはり私は、私は悪霊です。神様に怒られてもまだ、私は懲りていないのです。


 私は、本当に弱い人間です。


 自暴自棄になって、死んで、それでも逃げきれず、永遠の責苦にあってもなお、私はまだ未練を捨てきれないのです。


 私は、満月の夜を待ちます。


 あの子は次にどんな話をしてくれるのだろう、どんな表情を見せてくれるのだろうなんてことを考えます。


 そんな事ばかり考えていると、私は自分の罪さえ忘れてしまいそうになるのです。


 ああ本当に、幽霊なんかにはなるもんじゃない。

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