第89話

こちらに向かって走ってくる自動車がやけにゆっくりと見え、周囲の音の一切が途切れた。




何が起こっているのか理解出来ず、代わりに思い出すのはいつかの光景。




あれは確か、零と初めて出逢った時の―――。




『小娘。邪魔だ、どけ』




不意に思い出した零の言葉に無意識に足が後退し―――次の瞬間、すさまじい力で身体が後方へ引っ張られた。




「――――――っ!!」




鼻先を黒い自動車が通り過ぎた。




そのまま恐ろしい速度を保って通りの向こうへ消えるそれを、妙な既視感と共に見つめる。




そして肩と二の腕に加わる強い力に顔を歪め、はっと我に返った。




地面に腰をつき、両腕に仔猫を抱き締めたまま背後を振り返る。




途端、怒声が降ってきた。




「馬鹿か貴様は!!」




びくりと肩が跳ねた。




首を捻るようにして零を見上げれば、焦燥を浮かべた顔が見えた。




「どうして猫などの心配をする!?自分の身の安全の方が重要だろう!」




零の膝の間に埋まるようにして地面に座り込む桜子と、怒鳴る零。




……目立つことこの上ない。




しかし、ろくに回らない頭ではそこまで考えが及ばない。




腕の中に視線を落とせば、細い声で鳴く仔猫がいる。




(良かった……)




だが、ほっとしたのも束の間。




そこで緊張の糸が切れ、ふっと目の前が暗くなる。




一度と言わず、二度も死にかけたのだ。




それは思った以上に負担となり、零の言葉をどこか遠くで聞きながら、桜子の意識はゆっくりと闇へ落ちていった。

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