第70話

「でも、こうして再び逢えたのだから、後のことを考えるのはやめよう。今は、今のことだけを考えさせて欲しい……」




甘えるように言われ、背後から顎をすくわれる。




そこでようやく、桜子は自分が絶体絶命に陥っていることに気がついた。




「ちょっ、待っ……っ!!」




ひきつった声で目の前に迫る顔を押し退けようとする。




しかし、すっかり自分の世界に浸ってしまっている男には、それは肯定の言葉に変換されたらしい。




「ひ……っ!!」




顔が近づいてくる。




抵抗しようにも不自然な格好ゆえ、身体が言うことを聞かない。




……嗚呼、今日は厄日だ。




零に逆らい、千鶴子に連れ出され、華族の夜会に出席。




更には見知らぬ男に人違いされ、唇を奪われそうになっている始末。




何が哀しくて、こんな状況に陥らねばならないのか。




「待っ……」




必死に抵抗し、懸命に叫ぼうとする。




しかし、恐怖と焦りでかすれた声しか出ない。




人目のない場所に来てしまったことを今更ながら後悔するが、後の祭り。




男の熱を押し返しながらも、じわりと涙が滲む。




誰か。




「助け……っ」




思わずこぼれた言葉に応えるかのように―――次の瞬間、ゴスッ、と不穏な音が響いた。

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