第54話

発せられた言葉の中身よりも、“零が話し掛けてきた”ということに桜子はひどく驚いた。




何が起こったのか上手く理解できないまま、呆然と言葉を返す。




「他に思いつかなくて……」



「まぁ、『ローレンシアン』よりはマシか」




視線を逸らしたまま零が呟くも、独り言なのかそれ以上は続かない。




そんな零の横顔を見つめ、桜子は改めて零の姿を見る。




軍服姿しか見たことのない桜子には、零の着流し姿はひどく新鮮に映った。




着物には黒に近い藍色に流水が描かれ、軍人である時よりは鋭さが削がれているような気がする。




あまりにまじまじと見つめていたせいか、読みかけらしい本を手にした零が怪訝そうな顔をした。




「……その猫を探していたんだろう。見つけたのならさっさと行け」




とりつく島もない態度は相変わらずだ。




そのまま踵を返そうとして、桜子はあ、と思い出す。




「あの……先程、軍の方がお見えになっていました」



「軍?」



「東雲さんという方です。門の前でお帰りになってしまいましたが……」



「東雲が?」




零はしばらく考え込んでいたが、やがて立ち上がった。




「……なるほど」




瞳に物騒な獣染みた光が横切り、消える。




「……おい」




鈴鳴を抱えて棒立ちになる桜子に視線を投げ、零はこちらに背を向けた。




しばらく妙な間が入り、やがて、ぼそりとした言葉が投げられた。




「……すまなかったな」



「え?」



「借りは返す」




そう告げて立ち去る零の姿を桜子は呆然と見送った。




今の謝罪が何に対してなのかを考えるよりも、『零に謝罪された』という事実が桜子を驚愕させる。




「な、何かしら……今の……」




"不気味"




これまでの零の態度を思えば、それだけしか思わない。




腕の中に大人しく収まる鈴鳴と目を合わせ、桜子は首を傾げた。

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