第50話

「零を助けてくれたのは桜子さんだから、貴女にも知る権利があるわ」




そう言った千鶴子はいつもの無邪気な表情ではなく、『侯爵夫人』としての顔をしていた。




美しくも聡明な、藤ノ宮侯爵夫人。




桜子が見ることはない、華族という表の顔。




それを見て、今まで共に笑っていた千鶴子が急に遠くに感じた。




やはり自分とは違うのだと、『身分』という壁を思い出す。




(……わかっていたはずよ)




本来、この繋がりはあり得ないのだと。




千鶴子の気紛れが自分をここに居させるだけで、自らが選ばれたわけではないのだと。




(わかっていたはずじゃないの)




それなのに、どうしてこんなにも寂しいのだろう。




「……そんなに、ひどい傷なのですか?」




落ち込みそうになる気持ちを無理矢理引き上げ、桜子はそう尋ねた。




「いいえ、命に別状はないの。後遺症も残らないだろうってお医者様もおっしゃっているわ。……ただ、私が心配で縛り付けているだけなのよ」




それは、母親としては当たり前の想いであった。




そして、幼い頃に母を亡くした桜子には、その気遣いは羨ましいものであった。




「陸軍に入って昇進して、その上華族で将来を約束されていて、順風満帆な人生を歩んでいるはずなのにどうしてかしら?」




すべてにおいて満たされているはずの侯爵夫人の表情は、何故か暗く翳っていた。




桜子を見ているようでまったく別の場所を見つめながら、千鶴子は独り言のように呟いた。




「あの子は笑わなくなりましたの。あの子が軍人になってからこの方、わたくしはあの子の笑った顔を見ていないわ―――」

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