第39話

「あの、奥様……先日は、ご子息様にお世話になりました……」




自ら墓穴に足を突っ込む真似をせずとも、このままうやむやにしても良かったのかもしれない。




だが、それではいつまで経ってもすっきりしないままだ。




虎の穴に飛び込むつもりで口を開く。




だが、桜子の言葉に千鶴子はしばらく考え込み、それから思い出したように声をあげた。




「そう言えば、そんなこともあったわね」



「……はぁ」



「無口で無愛想な子だけど許してね。昔は可愛かったのに、いつの間にあんな怖い顔をするようになってしまって……」




憂い顔で溜め息を吐く千鶴子を見つめ、桜子は首を捻った。




(もしかして……知らないの?)




千鶴子の様子に変わったところはなく、白木も何も言わなかった。




つまり、桜子に殴られたことを零は誰にも言っていない、ということになる。




……だが、そのようなことがあるのだろうか。




腐っても華族で軍人。




女に殴られたとなれば、何に賭けてでも何らかのことを仕掛けてくると思っていたが……。




予想外のことに唖然とする桜子の前に、いつの間に取り出してきたのか針の道具といくつかの反物を置き、千鶴子がきらきらと目を輝かせていた。




「教えてくださるかしら、桜子先生?」




拒否、という選択肢は最初から存在しない。




だが、それ以上にこちらを見つめる千鶴子がひどく楽しげで桜子は恐る恐る頷く。裁縫は、得意だ。




針と布を手に取り、桜子は腹を据えた。




もう、なるようになれ。





―――そうして、このことがきっかけとなり、藤ノ宮侯爵夫人に気に入られた桜子はこの後、度々屋敷に招かれることとなった。

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