第35話

びくりと身体を強張らせた桜子を俾倪する。




その瞳が更に冷たく凍るのを目の当たりし、桜子の顔から血の気が完全に失せる。




冷気とも殺気ともつかぬ空気に肌が粟立ち、そのまま気が遠くなりかけていた頃、ようやく零が口を開く。




「……帰れ。ここまでで十分だろう」



「……え?」




一瞬何を言われたのかわからず、硬直する。




その間にも零はさっさと踵を返し、来た道を戻って行ってしまった。




夕闇に染まった後ろ姿を呆然としながら見つめ、桜子は思わずよろけるように後ずさる。




未だに痺れたような痛みの残る掌を見つめ、更に血の気が引く。




「わ……私……」




自分の行動を振り返り、青くなる。




生まれて初めて人を殴ったのだ。




それも華族を―――軍人を。




いくら頭に血が昇っていたからって、あまりに冷静さを欠き過ぎていた。




どうにかしないと取り返しがつかなくなる。




頭ではそう思うが、思うだけで具体的なことは何ひとつ思い浮かばない。




今更になって足元から震えが込み上げ、桜子はただ立ち竦む。




「……どうしよう……」




呆然と唇からこぼれ落ちた言葉は、途方に暮れる桜子を嘲笑うかのように赤い夕闇の中に溶け、消えた。

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