★26:梅子はどこに消えた?
「この中に犯人がいます」
金曜日。終業時刻の十五分前。
僕の目の前に一冊のファイルが置かれる。
それは事務所備え付けの従業者名簿であった。
「犯人。ですか? 桃子さん」
「小口現金が足りないの。業務中は桃子さんって呼ばないで」
二歳年上の上司は、腰に手を当て僕を見た。
ウチの部署の小口管理は桃子さんだったな、と思い出す。
週明けには月末が近く、経理に渡す書類を作っていたのだろう。
「犯人を捜せってことですかね」
「古河君、暇でしょう?」
「暇に見えます?」
パソコンのモニターに貼り付けた付箋に目を向ける。
確かに今日のタスクは終わっている。だが、定時退社準備という大事な業務が僕にはあった。
「私よりは暇じゃない?」
少なくとも探偵ごっこをしようとしている貴女のほうが暇じゃないですかね。
そんな言葉をかろうじて飲み込んだ。
「とりあえず今月は帳尻を合わせるってことにしませんか?」
彼女に巻き込まれたくない僕は、先延ばしを提案する。
我が社の小口現金は多くはない。出先でのコピー費用などの雑費が主である。故に不足金額は少額だろう。
「ダメよ。こういう小さな不正を見逃したら、後々大変なことになるのよ」
僕の案は一蹴される。
上司の真面目さは美徳だと思うが、発揮するのはせめて週明けにしてほしい。
「じゃあ当てはあるんですか?」
そう言いながら時計をチラ見する。定時まであと十二分。
「今月、小口を利用したのは」
上司は名簿を開いて指さした。彼女のグレージュ色のネイルが揺れる。
「多くないですか」
「少なくはないわね」
およそ名簿の三分の一である。その中には僕と彼女も含まれている。
「来月まで帰ってこないヤツが何人かいますね」
出張や入院だ。
今から調べてどうにかなるものじゃない、と言外に滲ませる。
「どうにかならない?」
どうにか諦めてほしい。
「さすがに今から聞いて回るのはちょっと」
ほら、桃子さんも帰りたいでしょう?
「今夜中でいいわよ。私が寝るまででいいし」
「帰るんかい」
「古河君と違って、私そういうの向いてないから」
ひらひらと手を振って、上司はムリムリと呟いた。
彼女はそう言うが、僕は探偵ではない。ただの会社員である。
されど定時まであと十分。渡されたタスクはこなさなければなるまい。
「小口の現物あります? 領収書も」
「偽装しないでよ?」
そういう疑いをかけるのなら僕に依頼しないで欲しい。
探偵が犯人なんてのは例外処理なのだから。
上司が付けた帳簿の数字と実際の現金を照会する。
「確かに足りないですね。五千円」
誤差が数百円程度であれば僕のポケットマネーを突っ込もうかと思っていたのだが。
レシート類の確認も終えたころには残り三分を切っていた。不味い。
「ところでこの『紫』や『梅』ってなんですか?」
帳簿の隅にメモ書きのように『梅:1』などが記載されていた。
「旧札と新札の数。混ざると数えにくいのよ」
「二千円札もちゃんと準備してる人初めて見ましたよ」
『紫』、こと紫式部は二千円札である。もちろん紫の欄にはゼロが並ぶ。
「でも旧札しかなかったですよ」
なのでとっても数えやすかった。
……いや、まて。まさか?
「そんなことないはずよ。梅子さんが一人いるはず」
桃子さんの顔を一度見つめてから時刻を確認する。残り一分。決着をつけようか。
「僕の憶測になるのですが」
こんな切り出し方じゃまるで探偵だ。笑いそうになる。
「貴女はうちの部署の小口の管理をしていた。帳簿もつけて毎月締めて経理に渡している。そして今年の夏から新紙幣が発行され管理が面倒だと感じていたはずだ」
少なくとも僕は新札の一万と千円を見間違えた覚えがある。
「だから私はメモを作ったわ」
それが梅やら紫である。
「秋口になり、新紙幣の流通は増えました。少なくともスーパーやコンビニではレジのアップデートが必須なレベルで。故に、この小口現金にも新紙幣が混在している蓋然性は高いはずだ。だが、実際には旧紙幣しか存在していない」
彼女の言う行方不明の梅子さん一人(五千円)を除いて。
「帳簿の管理に話を戻します。旧紙幣あるいは新紙幣しか存在しない状態であれば管理の煩雑さは低減されます。つまり、現在の小口現金の状況は桃子さんにとって理想的な状態である」
「ええ。だけど……」
僕の言葉に彼女は言い淀んだ。
「帳簿のメモは『梅:1』。そして桃子さん。貴女は『梅子さんが一人いるはず』と仰った」
簡単な話である。
僕は上司に微笑む。
「貴女は忘れているだけなんです」
「新紙幣と旧紙幣。交換していたんでしょう?」
確かに犯人はこの中にいた。
時計を見上げる。定刻から五分過ぎている。
「さぁ帰りましょう。桃子さん」
彼女の名前は古河桃子。二歳年上の上司であり、僕の相方でもある。
お馬鹿な上司だと思う。けれど、私の愛らしい人だ。
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