★14:おバカ上司と田中君
キーンコーン。カーンコーン。
駅前のからくり時計が13時を知らせるため、扉の中から現れた人形と共に鐘を鳴らす。
からくり時計を見上げながら、ビジネススーツに身を包んだショートカットの女性が、バッグから取り出したスマホの通話口に薄ピンクのルージュで覆われた可愛い唇を向ける。
「ねえ田中、もしかしたらだけど。待ち合わせの時間を間違えてない? もう13時だよ」
「私もすでに到着しているのですけど……もしかして、西口にいませんか、主任」
ピンクの唇が一瞬止まる。
「え? え、だって待ち合わせは
「いえ、
長いまつ毛に覆われた目が一気に丸くなる。
「あわわわ」
スマホをバッグに戻しつつ、上りエスカレーターをハイヒールで全力で駆け上がるビジネススーツの女性に、下りエスカレーターを並んで降りる人たちが不思議そうな顔で振り返る──
「ぜーはー、ぜーはー。なんで西口に東デパートなんか作るのよ、ねえ」
両手を両肘にあてがい、苦しそうに深呼吸を繰り返す女性。
「そんな巧妙なトラップ仕掛けられたら、普通は間違えるよね」
彼女は、すこし涙目になって背の高い彼を見上げると、若い男性社員に必死に同意を求める。彼はどう返事をしていいのか考えつつ、背の低い彼女に合わせるように屈んでから無言でハンカチを渡す。
今日はお客様に向けての大事なプレゼンテーションの日。緊張で昨日の夜から心臓がバクバクしていた新人の彼は、大先輩である主任女性のあられもない姿を見て、ちょっとホッとしたのか、ふっーと肩の力が抜けるのを感じた。
経験豊富な主任でも緊張するんだものな。そうだよ、新人のオレが緊張して当然なんだ。ああ、なんか、今日のプレゼン頑張れそうかも。
◆
配属先の営業所で嫌みな営業所長に目をつけられて、初日からネチネチと責められた新人の田中君。
「なんだい君。新人なのに定時の出社かい? 僕が新人の頃はね、1時間以上は前に来て、全員の机に拭き掃除なんかしたんだがね」
「えー、そうなんですかー? 私が初めて来たときは、営業所の場所がわからなくて遅刻しちゃったのに、所長さん何も言わなかったですよね」
そんな所長のいじめを、持ち前のボケでまぜ返す主任のおおらかさに、ひと目でキュンとしてしまい、この人に一生付いていくと思い込む。
そんな新人田中の行動を温かく見守る営業所の仲間たち。新人田中がどこまで主任のおおらかなボケに耐えられるのか、いつ現実に気が付き目を覚ますのか、彼らはこっそりと噂する。
「さすがに半年もすれば、主任のボケに気が付くだろ?」
「いやいや、田中の目を見てみろよ、アイツの目は完全にハートマークだぜ」
「そうよー、アバタもえくぼだから、このまま突っ走るかもだわ」
「俺は、半年と見た」
「あ、オレ、3か月。逆張りで」
「愛の力は強いから、アタシは1年ね」
◆
「良かったよ田中、きょうのプレゼン。お客様も大変喜んでくれてたし」
バッグを後ろ手に持って、ハイヒールで軽やかに歩く主任。
「あともう一押しで契約取れそうな感触だよ」
主任の後を、忠犬のように嬉しそうに歩く長身の田中。
「いやあ、主任の強力なフォローがあったおかげですよ。それに、待ち合わせの時のトラブルで思いッきり肩の力が抜けたのも大きいし」
ちらりと後ろを振り返る主任。
「う……それは営業所の皆には言わないでね。や、く、そ、く、だよ」
無事にやり切った、燃え尽きた、そんな幸せに包まれた、客先プレゼン終わりの帰り道で盛り上がる二人。
くにゅう。
主任は、右のハイヒールに違和感を覚える。
「ああ、どうしよう。何かふんじゃった」
主任が声を上げる。
「しゅ、しゅにん。それ、犬の『
田中が主任のヒール部分を見て鼻をつまむ。主任は後ろを振り返ってヒール部分についている茶色い物体を見てから一瞬目を見開く。
しかし何かを思いついたのか、一息ついてから、ゆっくりと田中に向かって顔を上げる。
「気にしないで田中。ヒール部分だから、そのうち乾いて取れるよ」
田中がその返事に驚いていると、彼に向かってぐいぃっと親指を立てる。
「それよりもさ、『
田中の主任に対する愛は、こうしてますます深まっていく。
田中が主任沼から抜けるのはいつか? それともこのまま一生行っちゃうのか?
営業所の仲間たちによる賭け事案は、まだまだ終わらない。
(了)
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