★12:成川研究室の芳しくない日常

 近頃、職場に不穏な空気が流れている。


 私、森なつきの勤めている国立大学法人N大学は中部地方にある旧帝国大学である。この地方のたいていの優秀な子が入学するし、先生たちもN大出身者が多い。うちの教授ボスもご多分にもれず、学部も大学院もN大だ。地元民の集まりが醸す妙な一体感のある平穏無害な愛すべき職場だったのに、最近ちょっとよろしくない。


「おはようございますぅ」


 来た。

 生成色の大きな帆布のトートバッグを小脇に抱え、研究室にピンク色のつむじ風が飛び込んでくる。

「おはようございます、桜山さん。今日もその、元気いっぱいですね」


 桜山さくらやましおり。もさもさした男子学生ばかりの成川研究室において、膝上二十センチのミニスカで跳ね回る、紅一点の修士課程マスター一年生。彼女が成川研に配属されてから、院生の出席率がやけに高い。

 私が成川研に秘書として採用されたときはそんなことなかったのに、なんて張り合う気持ちはこれっぽっちもないけれど、やっぱりわけぇ女のがいいかね、君たちは。


「森さん、先生ってもう出勤されてますかぁ?」

 もじもじしている院生たちを尻目に、栞は私に問いかける。

「もういらっしゃってますよ。今は実験室だと思います」

 私は相手が教員だろうと学生だろうと敬語で話すことにしている。それが大学という教育機関で働く者としてのささやかな矜持だ。

「じゃあ、わたしも行って驚かしちゃお。くふふ」

 たとえ相手がお花畑のお姫さまだとしてもだ。


 栞が研究室から出ていくと、一気に院生たちの気が緩むのが分かる。相手にされてないと分かっていてもそう﹅﹅なってしまうのは、つくづく可愛らしい生き物たちである。


 一方で、栞の存在にまったくどぎまぎしない層も一定数いるのがいかにも理系男子っぽくて趣深い。女体よりも素数の方が好き、という人種は思ったより多く存在するのだ。素数の部分は窒化ガリウムとかキラル触媒とか、分野によって入れ替えが可能。たいてい男子校出身者である。


 その最上位に君臨している人こそ、私の上司、成川なりかわ真一郎しんいちろう教授である。


 実は、栞がどれだけ頑張っても徒労に終わることは容易に想像がつく。実験に夢中になりすぎて、三日間飲まず食わずで貧血で倒れるような人が、今さら女に転ぶ﹅﹅とは思えない。

 栞のビジュアルが中途半端なアイドルよりも数倍かわいいので一般的な男子は色めきたっているが、成川教授は理系男子を突き抜けた研究バカなのだ。チャレンジ精神は認めるが、栞は選択を間違えたとしか言うほかない。


「そろそろウラをとるかあ」


 独りごちながら張本人がやってきた。その後ろを栞がにこにこ顔で着いてくる。

  油断したら腕でも絡ませかねない勢いで、成川教授の独り言を栞が拾う。

「推論を実証するのに、今の実験結果だけじゃ足りないってことですかぁ?」

「いや、結果を綺麗にまとめてくれる人がいた方が君たちも引用しやすいでしょう?」


 発言が微妙に噛み合っていない。ウラをとると言ったら、検証するとか根拠固めみたいなことだから、栞の方が意味は分かるけど。


「共同研究する時もウラがいた方がいいって教授会の資料に書いてあったでしょ?」

「先生、それウラじゃなくてURA(University Research Administrator)ですね。そういうご発言はあまり芳しくないのでご注意ください」

 資料に目を通しておいてよかった。成川教授が、教授会には出ているだけでほとんど話を聞いていないということがよく分かる。一事が万事、こういう人なのだ。


「先生ってほんとぅにかわいいですね」

 最適な角度を十分に把握している様子で、栞は小首を傾げてみせた。成川教授の向こう側に座っているドクター二年生がぽーっとなっているが、大丈夫、お前もかわいいぞ。


 成川教授に目を戻せば、なんと教授まで動きを止めて栞のことを見つめているではないか。まさか教授、嘘でしょう? それはちょっと本当に芳しくないですよ?


「桜山さんのかばんもかわいいね」

「え? あ、ありがとうございますぅ。進学祝いに両親が買ってくれたお気に入りのキャンバストートなんですぅ」

 普段、女性の、というか他人の外観に言及することなんて一切なかったのに。

「森さんもそう思わない? 桜山さんのかばん、よくない?」

 なぜ私にふる? そんな媚びる教授は見たくなかった。

「えぇえぇ、清楚な桜山さんにとってもお似合いで」

「いやいや、そうじゃなくて」

 は? と声にならない声で問い返す。

「カンバストートよくない? カンバスいくない?」

 何かを待つように少しだけ間を空けてから、どうぞ、とこちらに手のひらを見せる。


「⋯⋯かんばしくない」


 小さな声でいやいや答えると、成川教授は満面の笑みを浮かべた。

「じゃ、ちょっと図書館に行ってくるね」

 隣で栞がドン引いているのが見なくても分かる。


 ホント、うちの上司がおバカで困る。

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