★09:窓際の番犬

 間違いのない人生を送ってきた。

 葛原くずはら莉子りこは、一千万プレイヤーになる女だ。馬鹿な男に人生を転がされた母とはちがう。最小限の努力で最大の成果を出す、理想的なビジネスパーソンのはずだった。

 名指しで招かれた上得意先からの戻り、莉子は部長に別室へ呼び出された。


「困るんだよ」

 昇進の打診と信じて疑わなかった面談で、部長はそう切り出した。

「きみが優秀なのはわかってるよ、葛原くん。ただね」

 続いて告げられたのは、散々ミスをカバーさせられた後輩女子の退職と、莉子の異動辞令であった。


 あまりの衝撃に耳が遠のく。抗議の言葉を喉奥に絡みつけたまま、莉子は乾いた息を漏らした。

 こんなのは、に決まっている。


「新人さん、いらっしゃーい!」

 転属初日、至近距離でクラッカーを浴びて莉子は立ち尽くした。

「あの葛原くんがきてくれるなんて嬉しいなあ」

 縁故採用と噂の新上司――有賀ありが帯人たいとは、四十手前とは思えない子供のようにはしゃいで言った。


 『許される人間』などというものが、この世に存在することを思い知った。

 あの人のすることだから、なんだって?

 莉子の人生には、些細な間違いすら許されなかった。


「もう一声、どうか清き一票を!」

 芝居がかった口振りでビジョンを熱弁した部下に、有賀は両手の親指を立てて答えた。

「いいね最高! ぜんぶもってって!」

「座布団感覚で予算ばらまくのやめてもらっていいですか」

 そんな調子だから稟議書が大喜利化するんですよ、と莉子は横から釘を刺した。

「楽しくていいと思うけどなあ」

 有賀が喜んでも、上が差し戻す。その度に説明に赴き、書類を作り直すのは莉子なのだ。


「葛原くん! みてこの事業案。花丸あげちゃった」

「処理しておくので、こちらには押印していただけますか」

 総務と経理を回って引き取り、訂正した申請書の束を、莉子は有賀の机に叩きつけた。

「来期の計画も立ててみたんだよ。でも」

 有賀のPC画面には、無数の数式エラーを吐くExcelシートが表示されていた。

「なにもしてないのにデータ壊れた」

「もういいです後はやっておくので」

 赤字まみれの目標数値など、一から練り直した方が早いことは明白だった。


「いつもごめんね、葛原くん」

 鎮痛な面持ちで有賀は謝罪した。

「つぎはちゃんと頑張るよ」

 それをやめろと言ってるんだ馬鹿め。最大限の努力で最小の成果すら産まない天才的な足手まとい。やることなすこと間違いばかりで、しかし許されてきた男。――大っ嫌い。


 かつて、莉子は残業などしたことがなかった。

 定時後のオフィスで眉間を揉みながら後始末をしていると、ろくに話したこともない同期がヤジを飛ばしてきた。

「窓際の番犬、今度はなにをやらかしたんだ?」

 耐えがたい屈辱に、転職を決意した。


 出世の望みを断たれたのであれば猶更、市場価値が高いうちに他社に移るのが最善だった。

 転職サイトに職歴を記載する途中で、莉子の手は止まった。

 現在の業務内容――おバカ上司の手綱に振り回されること。ふざけている。


 葛原くん葛原くんといつものように莉子を呼びつけて、有賀は無邪気に尋ねた。

「どこがいい?」

 有賀の指さす先にあるものは、めちゃくちゃな表計算でも誤字まみれの報告書でもなく、会社の組織図であった。

「半年で返せって言われてたけど、元の部門は嫌だよね」


 束の間、莉子は言葉を失った。

「……私はハラスメントの人事処分で飛ばされたのでは?」

「葛原くん被害者でしょ?」

 有賀は目を丸くして、莉子の知らない裏事情をさらりと明かした。

「得意先のセクハラで女子社員が退職して、葛原くんにまで辞められたらたまらないって――ほら僕、怒られるの得意だから」


 有賀帯人は『許される人間』だと、社内の噂に疎い莉子ですら知っていた。彼の特技は頭を下げること。底なしの馬鹿と人の好さに毒気を抜かれる、こじれた顧客対応の最終兵器スペシャリスト――。


 が、守っていたものは。


「私に、次の配属先を選べと?」

「みんな仲良しだから任せてよ」

 有賀は胸を張った。さすが、コネクションと愛嬌で部門長の席に座る男である。

「葛原くんは優秀で可愛いから、どこにいっても大人気だろうなあ」


「セクハラって言葉の意味わかってますか、有賀さん」

 正直に褒めただけなのにダメなの、とショックを受ける有賀に、莉子は初めて笑いかけた。

「――どこにもいきませんよ」

 嫌いな男に借りを作ったまま去るなど、莉子のプライドが許さなかった。


 頭を下げる人間には肩書きがある方が都合がいい。誰もがそう考えた結果、有賀は現在の地位にいる。

 葛原莉子は一千万プレイヤーになる女、その早道は上司を出世させることだった。軽い神輿はどこまで高く上がるだろうか。有賀自身が望まずとも知ったことではない。私のような部下をもったことを後悔させてやる。


 そんな非効率な復讐計画を練る私も、今さら私を手放す気でいる有賀も。

「え。辞めないでよ葛原くん!?」

 まったく、なにもかもが間違っている。

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