★09:窓際の番犬
間違いのない人生を送ってきた。
名指しで招かれた上得意先からの戻り、莉子は部長に別室へ呼び出された。
「困るんだよ」
昇進の打診と信じて疑わなかった面談で、部長はそう切り出した。
「きみが優秀なのはわかってるよ、葛原くん。ただね」
続いて告げられたのは、散々ミスをカバーさせられた後輩女子の退職と、莉子の異動辞令であった。
あまりの衝撃に耳が遠のく。抗議の言葉を喉奥に絡みつけたまま、莉子は乾いた息を漏らした。
こんなのは、
「新人さん、いらっしゃーい!」
転属初日、至近距離でクラッカーを浴びて莉子は立ち尽くした。
「あの葛原くんがきてくれるなんて嬉しいなあ」
縁故採用と噂の新上司――
『許される人間』などというものが、この世に存在することを思い知った。
あの人のすることだから、なんだって?
莉子の人生には、些細な間違いすら許されなかった。
「もう一声、どうか清き一票を!」
芝居がかった口振りでビジョンを熱弁した部下に、有賀は両手の親指を立てて答えた。
「いいね最高! ぜんぶもってって!」
「座布団感覚で予算ばらまくのやめてもらっていいですか」
そんな調子だから稟議書が大喜利化するんですよ、と莉子は横から釘を刺した。
「楽しくていいと思うけどなあ」
有賀が喜んでも、上が差し戻す。その度に説明に赴き、書類を作り直すのは莉子なのだ。
「葛原くん! みてこの事業案。花丸あげちゃった」
「処理しておくので、こちらには押印していただけますか」
総務と経理を回って引き取り、訂正した申請書の束を、莉子は有賀の机に叩きつけた。
「来期の計画も立ててみたんだよ。でも」
有賀のPC画面には、無数の数式エラーを吐くExcelシートが表示されていた。
「なにもしてないのにデータ壊れた」
「もういいです後はやっておくので」
赤字まみれの目標数値など、一から練り直した方が早いことは明白だった。
「いつもごめんね、葛原くん」
鎮痛な面持ちで有賀は謝罪した。
「つぎはちゃんと頑張るよ」
それをやめろと言ってるんだ馬鹿め。最大限の努力で最小の成果すら産まない天才的な足手まとい。やることなすこと間違いばかりで、しかし許されてきた男。――大っ嫌い。
かつて、莉子は残業などしたことがなかった。
定時後のオフィスで眉間を揉みながら後始末をしていると、ろくに話したこともない同期がヤジを飛ばしてきた。
「窓際の番犬、今度はなにをやらかしたんだ?」
耐えがたい屈辱に、転職を決意した。
出世の望みを断たれたのであれば猶更、市場価値が高いうちに他社に移るのが最善だった。
転職サイトに職歴を記載する途中で、莉子の手は止まった。
現在の業務内容――おバカ上司の手綱に振り回されること。ふざけている。
葛原くん葛原くんといつものように莉子を呼びつけて、有賀は無邪気に尋ねた。
「どこがいい?」
有賀の指さす先にあるものは、めちゃくちゃな表計算でも誤字まみれの報告書でもなく、会社の組織図であった。
「半年で返せって言われてたけど、元の部門は嫌だよね」
束の間、莉子は言葉を失った。
「……私はハラスメントの人事処分で飛ばされたのでは?」
「葛原くん被害者でしょ?」
有賀は目を丸くして、莉子の知らない裏事情をさらりと明かした。
「得意先のセクハラで女子社員が退職して、葛原くんにまで辞められたらたまらないって――ほら僕、怒られるの得意だから」
有賀帯人は『許される人間』だと、社内の噂に疎い莉子ですら知っていた。彼の特技は頭を下げること。底なしの馬鹿と人の好さに毒気を抜かれる、こじれた顧客対応の
「私に、次の配属先を選べと?」
「みんな仲良しだから任せてよ」
有賀は胸を張った。さすが、コネクションと愛嬌で部門長の席に座る男である。
「葛原くんは優秀で可愛いから、どこにいっても大人気だろうなあ」
「セクハラって言葉の意味わかってますか、有賀さん」
正直に褒めただけなのにダメなの、とショックを受ける有賀に、莉子は初めて笑いかけた。
「――どこにもいきませんよ」
嫌いな男に借りを作ったまま去るなど、莉子のプライドが許さなかった。
頭を下げる人間には肩書きがある方が都合がいい。誰もがそう考えた結果、有賀は現在の地位にいる。
葛原莉子は一千万プレイヤーになる女、その早道は上司を出世させることだった。軽い神輿はどこまで高く上がるだろうか。有賀自身が望まずとも知ったことではない。私のような部下をもったことを後悔させてやる。
そんな非効率な復讐計画を練る私も、今さら私を手放す気でいる有賀も。
「え。辞めないでよ葛原くん!?」
まったく、なにもかもが間違っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます