第20話 なんでそんなにギターボコボコなの?

恵理子の問いかけに答えず良夫はギターを弾き続けた。食卓の椅子に腰かけて言った。

「もうすぐ、君の誕生日だから新しいギター

買ってあげよか?」

「いらん。」

 良夫はそっけなく即座に答えた。

「お兄ちゃんに連絡してギター屋に連れて行って貰おうや。」

「いらない。」

良夫は頑なだった。

「誕生日だから行ってみようよ。」

良夫はパソコンを買ってやろうと言っても「いらない。」と、言った。恵理子がしつこく食い下がると、諦めたように「いいよ。」と、言った。

  恵理子は良夫の気が変わらないうちに、その頃松山の大学へ行っていた兄和彦に連絡を取った。和彦は中学生からずっと吹奏楽を続けていて今も大学で交響楽団に入りトロンボーンを吹いていたので、楽器屋には詳しいだろうと思った。その週の日曜日、早速和彦と連絡を取って、松山市郊外のショッピングモールの中の大きな楽器店に行った。日曜日という事もあって、駐車場も一杯で人が多かった。良夫は楽器店に入ると、ずらりと壁に掛けられているエレキギターを目を輝かせて見ていた。

「試し弾きさせてもらったら?」

「いいのかな?」

「いいのじゃない?あの人も弾いているし。お店の人にきいてみよう。」

  店には所々にアンプと椅子がおいてありギターを弾いている人がいた。

 「すみません。」

  恵理子は、店の従業員らしきエプロンをかけた若い男性に声をかけた。

 「ギター弾いてみたいのですけど、いいですか?」

 「良いですよ。」

  二十代くらいのお兄さんは快く応じてくれた。

 「どれが良いですか?」

  良夫は壁にかかった赤と白のエレキギターを指さした。値札には税込み一万円と書かれていた。

 「一万円は安すぎわ。ねえ?」

店のお兄さんに聞いた。

 「そうですね。中国制ですからね。ネックが曲がりますよね。」

 「僕も、一万円のは止めた方が良いと思う。」

  楽器を良く知っている和彦が言った。恵理子と和彦の忠告が聞こえているのか、いないのか返事をせず、良夫は一万円のギターを愛おしそうに膝に抱えると弦をつま弾いた。

 「俺、これが欲しい。」

 「買うのだったらもうちょっといいのにしたら?今じゃなくてもまた来たらいいじゃない。」

 「俺は今欲しいんや。」

  良夫が強く自己主張するのは珍しかった。良夫は赤と白の中国産のギターを放そうとしなったが、和彦と楽器屋のお兄さんの説得でアンプも入れて十万円のギターセットを買う事にした。恵理子は持ち合わせがなかったのでローンで買ってやった。ローンの手続きをしている間、良夫はギターをケースに入れて貰い、背中にしょって、アンプとその他の備品が入った紙袋を、両手に持って嬉しそうだった。突然の予想外の十万円の出費は恵理子にとって痛かったが、久しぶりにこんなに喜んでいる良夫を見て、買ってやって良かったと思った。カブトムシのような姿でエレキギターを背負っている良夫に「なんか持ってあげよか?」と、言ったが、良夫は自分で持つと言った。子供のように喜ぶ良夫を見て恵理子は幸せな気持ちになった。それから今治に帰るまで良夫は車の後部座席で、ギターを大事そうに抱えて満足そうだった。

 その夜、恵理子が家に帰って事務仕事をしていると、階段を駆け下りる大きな音がして、良夫が事務所に勢いよく入ってきた。

「母さん、今日はありがとう。」

「どういたしまして。良かったね。気に入るのがあって。お母さんも肝が喜んでくれて嬉しいよ。」

 恵理子が微笑んで言うと、良夫が肩で息をしながら噴き出すように言った。

「俺、働いてギター代払いたい。どうしたらええか教えてくれ。」

 恵理子は、予想もしていなかった良夫の言葉に、もう一度聞き直した。

「何?働きたいの?」

「うん。」

 事務所の戸口に立っている良夫と恵理子の間の二メートル程の距離に流れる時間が一瞬止まった気がした。我に返った恵理子は、心のざわめきが伝わらない様に静かに答えた。

「森の家の井上さんに相談してみたらいいと思うよ。前から薦めてくれよったサポステが良いのじゃないかな。」

「うん。そこへ俺を連れて行ってくれ。」

 良夫が引きこもってからの十一年間これほど自分の感情をあらわにしたのは初めてだった。

「わかった。明日、井上さんに電話してみる。」

 良夫はほっとした表情で階段を上がって行った。恵理子は良夫の魂の雄叫びのような言葉に感動していた。良夫が引きこもって今年で十一年、三月で二十六歳を迎えようとしていた。最近、恵理子は今の状況を容認している感があった。良夫は、毎日自室で静かに過ごしていた。暴れるでもなく、特に精神に異常があるわけでもない。働いたり学校へ行かないだけで普通だった。

「あんたが死んだらどうするんで。」

と、言う人もいる。

「死んだ後の事まで知った事ではない。」と思うのだ。地球上の動物は、爬虫類や魚類は卵を産みっぱなし。哺乳類や鳥類も子供がエサを摂れるようになると巣立ちを促し、よほどの事がないと、二度と会うことはない。人間だけがいつまでも子供にとらわれている。

もし恵理子が死んで良夫が後を追ったとしても、どうしようもないと思うのだ。だから、このままずっと社会に出られなくても仕方がないと思っていた。だが、本人が自力で、社会復帰をしたいと言うなら話は別である。全力で協力してやるのが親の勤めだ。森の家の井上さんが言っていた。親にできる事は栄養と愛情を与えることだと。本人が助けを求めて来たら答えてやれるように準備をしておく必要がある。今がその時だと恵理子は思った。

 翌日早速井上さんに連絡を取った。

「小林です。」

「小林さん。お久しぶりです。」

「お久しぶりです。」

 懐かしい明るい声がした井上さんに連絡を取るのは相当久しぶりだった。良夫がカウンセリングに行かなくなってから七年経っていた。

「すみません。突然。」

「いいのですよ。皆さんお元気ですか?」

 恵理子が井上さんに電話をするのはいつも突然だったが、相変わらず井上さんは優しく答えてくれた。

「ええ、あれから主人は亡くなったのです。和彦は大学を卒業し、就職して三年になります。今度結婚するのですよ。」

「そうですか。それはおめでとうございます。私も嬉しいです。」

「今回は良夫の事なのです。」

「はい。」

「良夫が、働きたいと言い出したのです。」

 恵理子は昨日のいきさつを井上さんに話した。井上さんは大そう喜んで言った。

「そうですか。良かったですねえ。お母さんも長い間辛抱してよく見守って上げましたねえ。良夫君、エネルギーが溜まったのですね。就職の件は前にもご紹介しましたけれど、愛媛若者サポートステーションと言って国と愛媛県が共同で運営している就労支援センターがあるのです。」

 恵理子は井上さんに褒めてもらって嬉しかった。

「前にもご紹介頂きましたね。あの時は行けませんでした。」

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