第18話 自分探し
行きたくはないけれど自分を何とかする為には行った方がよい。今はカウンセリングに行くしか術がない。、恵理子やカウンセラーに頼るしかなかったのだ。
「朝ごはんは?」
「いらない。」
そう言うと良夫は、
パジャマのままお気に入りの子供のころから使っている十五年物の薄汚れた毛布を抱え、着替えを抱えて、恵理子の車の後部座席に乗り込んだ。森の家に着くまでの一時間、寝ていた。
「よっちゃん着いたよ。」
声をかけても返事は無かった。
「森の家に着いたよ。」
起き上がろうとしない良夫に業を煮やしていけないと思いつつ言ってしまうのだ。
「行かないの?帰る?」
「行くよ。行ったらええんやろ。」
良夫は不貞腐れた態度で起き上がり、面倒くさそうに持ってきていた服に着替えた。
駐車場から森の家に行くまでに良夫はいつも自分を軌道修正し、よそ行きの態度に変身しカウンセラーにもきちんと応対した。森の家では良夫の担当は村上さんという五十代の細身の美しい女性だった。恵理子は初めからお世話になっている井上さんが担当してくれた。カウンセリングを受けた方がよくても本人が行かない場合も多いし、行っても殆どカウンセリングできない事もあるのだそうだ。
カウンセリングをしたくないという子供には、無理強いはせず、箱庭療法やゲームやトランプをするのだと言う。良夫も最初は一時間カウンセラーとトランプをしたそうだ。「今日はどうだった?」と、聞く恵理子に「トランプして一時間二千円。」と、吐き捨てるように言った。しかし、ひと月、ふた月と時が経つにつれ良夫の態度は徐々に変わっていった。
良夫は、出かける時は、この世の終わりのような顔をしていたが、一時間のカウンセリングが終わると、溜まっているドロドロしたものを吐き出したようなすっきりした晴れやかな顔をして機嫌がよくなった。カウンセリングが終わると大抵「腹減ったー。」と、言うので、近くのスーパーの一階にある有名なたこ焼き店でたこ焼きを買ってやるのが常となった。
恵理子はカウンセリングに行くのが楽しみだった。母親であり、妻であり、嫁であり、店の経営者であり、娘でもある。何役も演じていると疲れる。一人っ子で我慢強くない恵理子は、実母芙美子に悩みを打ち明けていたが、母親目線で説教をする事も良くあった。それに比べて、カウンセラーは話を聞くのが上手で、森の家に行くと、さび付いた心の扉がするりと開いて、心の中からモヤモヤしたものが煙のように出て行った。
森の家は、知り合いの家を借りているらしく、昔はおばあさんが一人で暮らしていたそうだ。部屋数は少なく、庭に面した十畳ほどの広い座敷と廊下を挟んだ反対側の四畳半畳程の小さな部屋、その横の台所、トイレという間取りで手狭だった。カウンセリングができる部屋は二部屋しかなく、三畳の台所を事務所代わりに使っていた。良夫はいつも大きな座敷でカウンセリングを受け、恵理子は四畳半の部屋で受けた。四畳半の部屋には箱庭療法で使う箱庭や箱庭に置く人形や建物などのおもちゃが壁に取り付けられた棚に所狭しと並んでいた。小さな机と迎え合わせに椅子が二つ置いてあり。カウンセラーと向かい合わせに座った。窓も小さく、閉鎖的な部屋だったが、この部屋に入ると落ち着いた。良夫が押入れを好きなのがわかる気がした。
恵理子は箱庭をする事はなかったが、箱庭で使う沢山のおもちゃを見るのが楽しかった。箱庭療法とは、心理療法で言葉を使って自分の思いをうまく表現したり伝えたりする事が苦手なケースに、子供の非言語的な心理療法として発展してきたらしい。成人にも有効だそうだ。箱庭は砂が入った水色の木箱の中に、自由におもちゃを並べて砂も自由に模様をつけたり、山にしたり、谷にしたり出来る。さらに砂を木箱の底まで除くと、箱の底が水色に塗られていて水があるように見える。箱の中に一つの世界を作る子供の頃のおままごとのようなものだ。年齢、性別を問わず誰でも出来ると言う。ただ、あくまでも治療・心理療法の一環なので行うかどうかは臨床心理士が同席して決める。箱庭療法は、セラピストが見守る中、クライエントが自発的に、砂の入った箱の中にミニチュア玩具を置き、また砂自体を使って、自由に何かを表現したり、遊ぶことを通して行う心理療法なのだ。箱庭を自由に表現できるように玩具を沢山集めていると井上さんが言った。
恵理子は箱庭療法での審理解析を学びたいと思い、本を買ってみたがさっぱり分からなかった。二週間溜まったストレスを箱庭の玩具に囲まれた部屋で井上さんに吐き出すと、子供や夫や芙美子にグチを言わずに済んだ。
カウンセリングに通い始めて一年程経った頃、森の家主催で過去の不登校経験者の発表や父兄の交流会があった。良夫は一年前から学校へ行くことは一度もなかったので家族以外と接触するのは森の家のカウンセラーの村上さんや井上さんだけだった。この日恵理子が半ば強引に誘い、松山にあるコミニティセンターに良夫を連れて行った。三十人程の森の家のスタッフやカウンセリングを受けている子供や家族が来ていた。イベントは午後一時からで恵理子は良夫と自分の弁当を持って十二時半頃に会場に到着した。会が始まる前に弁当を食べようと良夫に言ったが、人が沢山いるところは苦手なようで、こめかみから汗を流して要らないと言った。
「お母さんお腹が空いたから食べるよ。」
良夫は「好きにしたら。」と、言う顔でうつむいて固まっていた。そこへ良夫の担当の村上さんが現れた。
「良夫君来てくれたの。ありがとう。お弁当食べないの?私お腹ペコペコなの一緒に食べよ。」
そう言って村上さんは良夫を連れて人があまりいない壁の近くの席に移った。恵理子は仕方なく一人で弁当を食べていた。すると森の家のスタッフらしき女性が声を掛けてきた。
「こんにちは。あっちでみんなで一緒に食べませんか?」
顔を上げると、髪を肩まで伸ばし、眼鏡をかけた恵理子くらいの年齢の女性が立っていた。
「ありがとうございます。」
さすが不登校の会の集まりだけの事はある。子供だけではなく親にも気遣いが行き届いている。恵理子は食べかけの弁当箱をもって、スタッフの輪の中に加わった。恵理子は商売をしている割に人と交わるのが苦手だった。だから友達も殆どいなかった。良夫の対人恐怖症は遺伝かもしれない。
「この会に来られるのは初めてですか?」
「はい。息子は学校に行かなくなってから引きこもっていて、人が沢山いる所は苦手なので来たく無かったみたいなのです。私は興味があって、今日は無理やり連れて来たのです。緊張しているみたいで、ご飯も食べないのですよ。村上さんがいてくれて助かりました。」
「そうですか。ここにいるスタッフはみんな不登校の親経験者なのですよ。」
「そうですか。」
「息子さんが来られなくてもお母さんだけでもまた来て下さいね。」
初対面でもカウンセリングのプロと話すと、とても楽だ。時々良夫を気にして見ていたが、村上さんが来てくれたおかげで良夫は弁当を食べていた。昼食後、不登校経験者とその家族の講演があって、結局最後まで会場にいた。良夫は退屈そうだったが、途中で帰るとは言わなかった。
会場の出口で、宇和島からの参加者が持ってきてくれた大きな段ボール箱に入ったいりこを配っていた。恵理子と良夫は、ビニール袋にいっぱい入ったいりこを帰りの車の中で食べながら帰った。南予産のいりこはおいしかった。三時に会場を出て家に着いたのは四時過ぎだった。一日中家にいて寝ているか、本を読んでいるかゲームをしている良夫を外に連れて行ってやりたかったが、良夫は迷惑そうだった。この会は三か月に一回程開催されていたが、結局この時行ったのが最初で最後だった。
その後一年間森の家に親子で通った。十五歳を迎え、これからの進路を考えなければいけない節目の時期を迎えた。高校進学かそれ以外の進路を選ぶか森の家で話し合った。井上さんは今治にある私立高校に不登校に対応しているクラスがあるのでそこへ行ったらどうかとか、通信教育を受けてみたらどうか等と提案してくれたが、良夫は嫌だと言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます