蟻の巣

ガラドンドン

蟻の巣

幼い頃から、蟻が怖かった。


気づけば何処にでもいる、小さい存在。夥しく死骸や食物に群がる群体。

そいつらを、生命と呼ぶのが何故か自分には憚られた。


蟻を好きな人間には憤られるだろうが。

それらに命と言う物を感じられない。営みと言う物を感じられない。

無機物的に動き、勝手に増殖するそれらは。勝手に何処からか入り込み。或いは、やって来るそれらは。

幼い頃の自分には、命というより、動く汚れとか、黒い埃のような存在で。何よりも、余りに身近に、何処にでもいるのが気色悪くて。

もし現れれば極力、自分の視界に入れないまま抹消をしたかった。



両親と共に、一軒家に住んでいた頃だ。物心が漸くついて、少しは色々な事を記憶出来るようになって来ていた年齢だったと思う。その分、幼心の想像力も豊かだった。


自分は、暖かい二階の寝室で昼寝を取っていた。窓を開けた、風通しの良い部屋の中で。丁度昼ご飯後の、眠くなる時間の頃だ。

母が焼いてくれたホットケーキに、メイプルシロップをたっぷり掛けて。母に微笑まれながら、自分はお腹いっぱいにそれを食べて満たされていた。


満腹になった自分は当然眠くなってしまって。

手と口に、甘いホットケーキの余韻を残して。緩やかに訪れた眠気をそのままに、穏やかに眠っていたのだ。


安らかな時間。危険なものなどあろうはずも無く、気ままに寝転がれる、暖かな場所。

安全な、脅かされない揺り籠のようなものだったのに。


なんだか、手の平の先がむず痒いような感触で目が覚めた。変な夢を見た訳でも無く、意識が完全に覚醒した訳でも無い。

一度。目を閉じながら、手の先を掻く。何度か擦れば痒みは紛れて、また深く微睡もうとする。

なのに、また痒みが戻って来る。戻ってくるだけでなく、痒みが増して、場所が増える。手の先から、手首、腕へと増えて行く。

掻いているのに増えるのだ。むず痒さが、手の先から大量に増えて、此方へと近づいて来るような。

我慢が出来なくて目を開いた。まだ眠く、重たい瞼を明滅させながら手の先を見る。


蠢いていた。何匹もの黒い小さな蟻が。


自分の手を伝って、口へと向かって。自分の小さな手の先。腕の先。ホットケーキに掛けたメイプルシロップの、甘い香りを追って。手腕に黒い斑点の模様を作って這っていた。

それらは、自分の手に残る甘さを舐りながら動いているのだ。向かう先は自分の口の中。少しづつ。群れを成して。甘い香りがより濃い自分の口元へと、向かって来ているのだと。幼い心にも理解出来てしまった。


入り込まれて。舐られて、穴だらけになる。


そんな。言語化はされないまでも、酷い想像が頭へと浮かんだ。只の想像でも、その頃の歳の自分には余りにも恐ろしかった。

自分が食されているような、身体の中に入り込まれて行くような。気持ちの悪さが即座に沸き上がった。


直ぐに起き上がり、手や腕を払ったものの。中々一息には払いきれず、腕を登り上がって来る蟻に悲鳴を挙げた事を覚えている。

執拗に手で叩き落としても、身体を払っても、何処かに黒い点がまだ動いている。

手足が潰されて、シーツの上に転がった蟻達は。自分が安らかに眠る筈の上を、気色の悪い動きと体液のようなシミで汚して行く。


悲鳴を聞きつけた母が寝室へと上がって来るまで。自分は、身体に登っている蟻がいないか探しもがいていた。


もう体の何処にもついてはおらず。全てがシーツの上の黒い死骸、シミとなり、生きた物とは思えない動きを働かせていても。

見えない背中を。耳の裏を。髪の中を。蟻が気付けないいずこかに潜んで、むず痒させて来ているように思えて仕方が無かったのだ。


後から両親に訴えれば。

家の壁際を登って。やや古くなった窓の網戸から、甘い匂いを辿って入り込んで来たのでは無いか。と話された。

直ぐに網戸は直され、虫よけのスプレー等が撒かれたものの。自分はその部屋で安心して眠れる事は無くなってしまっていた。


或いは、眠っている間に。気付かない内に、口の中に入り込まれていたのでは無いか。等と気にして。暫く、口元に苦い味の残滓があるように思えてまでいた。

決してその時の口内の事等覚えてはいないのに。酷く気になってしまうのだ。

歯の上で潰して、飲み込んでしまっていたのではないか。

心の言語化が追いついていない曖昧な怖さの想像は、何処までも膨れ上がって行ってしまうのだ。

一度想像が始まると、自分の舌や歯の上を動いていたかもしれない蟻の姿まで想起されてしまって。

そんな事が想像される度に。幼い頃の自分は口元をゆすいで、水を吐いていた。



父と、軒先でアイスを食べていた時。

寝室での事件を、漸く気にしなくなった頃の話だ。


冷たく甘いソーダアイスを舌で舐めとりながら。適当な話を父と楽しんでいた。どのような話をしていたか等、最早忘れてしまったが。買って貰ったアイスが嬉しくて、しゃぶりついていた事は覚えている。


口に収まりきらず、暑い日差しにアイスが溶けて、地面に滴って行った。さして気にも止めずにいたが、甘い雫はアイスの棒を垂れて、手首にも足先にも掛かっていた。


別になんとは無しに、足元を見た。

ふと嫌な気でも感じたのかもしれない。すると予感の通りに、甘い溜まりに黒い小さな蟻らが集まっていた。

啜っていた。集っていた。喜んでいるようにも、何も感じていないようにも思えた。

そのどれでも気色悪くて、自分は嫌悪の声を上げた事を覚えている。

すぐさまに、過去にあった腕と、そして有りもしない口内の記憶が身体を這い尽くした。


黒い列は、近くの家の花壇から続い来ているようだった。虫の小ささには長い距離を、高々数滴の雫の為に、何十匹もの蟻らが。幾本もある手足をおぞおぞと進ませながら、求め来るのだ。


自分が食べていたものに、気色が悪く手足と触覚を蠢かす大量の小さい物が、群がって行く姿。先程まで、甘い、美味いと舌を這わせていたアイスが、途端に蟻を呼び込む、不吉なものに感じられたものだ。


アイスを通じて、蟻が自分の舌を這うような。細かな蟻が、自分の舌をびっしりと覆いつくして。喉元を這いずり下りてくるような錯覚を覚えた。

アイスの雫を嚥下する度に。蟻が喉元を降りて行き、腹で卵を産み、繁殖して。いつか自分が蟻の巣されていますような。


勿論そんな事は無いのに。その時の自分には、その嫌に明瞭に思わされた錯覚が。吐き気を催す程に強烈に感じられてしまった。


この話をしても。母にも、父にも。考えすぎだと、呆れて笑われたものだった。

我ながら、想像力の豊かな子どもだったのだろう。その自分を恨めしくも思ったし。何より、蟻等この世からいなくなってしまえば良いと。幼い憎悪を滾らせていた。


特に、じめじめとした空気が身体を重くしていくような夏は。目を地面に向ければ、蟻がそこにいそうで。

肉も何もかも柔らかく腐って。地面に落ちた、丸々と太った果実に、蟻がまた湧き出す。嫌な季節だった。


蟻の手足の一つでも捥いで。巣に水でも掛ければ。好奇心や喜々を持ち、弄んでいれば。悶え苦しむ様を見て、生きているとも思えたかもしれないが。

高々蟻の存在一つの実感の為に、そんな事をしようとも思わずに。何より視界に入れる気持ちの悪さが勝った為に。


いれば足先で払い飛ばし。極力視界に入れないようにして。


自分はその虫を。この世にいる、見れば目障りで、気色の悪い。命では無い何かとしか認識をしないようにしていた。


そいつらは生命では無くて。この世にいらなくて。働き蟻と言う言葉も、能無しの代名詞としか思えずにいた。

自分と同じ世界にいるとは、ちっとも思いたくはない。汚らしい穢れ物達。自分の生活の近くには、一切いて欲しくは無くて。

大人になってからもずっと。蟻が寄り来るような事が起こらないように、生きて来ていた。


──


そんな自分の目の前を今、蟻が行列をつくり進んでいっている。奴らはもう、自分の目玉の直ぐ先にまで来ている。


暑苦しい畳の部屋。手足を伸ばせば部屋の壁から壁についてしまうような大きさ。


開けっ放しの窓に、濃い粘り気のある空気の中で。自分は甘い酒臭を撒き散らしながら、黄色くなった布団に寝転んでいた。

アルコール度数の高い、甘味の強い酒をたらふくと浴びて。

酔っぱらいながら、文字通り体中、部屋中にも零し、撒いて。曖昧模糊とした頭を横に倒れ伏している。



気色の悪い動きをする、黒い群れがより近づいて来る。



大人になった自分の人生と言うのも、蟻の数程多い話だ。

両親に先立たれた自分は、学を身に付けられず。単純な肉体労働を、只々低賃金で繰り返す仕事に有り付いた。


肉体しか使う事の出来ない労働。肉体以外は求められていない働き。その中でも、特に劣悪な環境であった事は確かなのだろうが。

身体の資本は、無理ばかり求められる仕事にすり減り。

四十代にでもなれば、当然のように使い潰れた。手腕も足腰も。最早労働の中では勿論、生活の中でもまともに使いものにならない。

社会福祉なんてものを頼る事すら知らない自分には、最早何も無く。最後の最後の金で、安酒をたらふく買った。アルコールでぶくぶくと太った腹が、酒と気持ちの悪さで満たされていた。


汚れた布団の上で。潰れた蟻のように手足をもぞめかせるだけの物が、今の自分だった。



蟻が、顔を登り、鼻を登り。脚と触手を蠢かして、甘い香りを放つ自分の身体を貪ろうとする。



一度。上役と思える人間が、自分の労働する場に来た事があった。

身なりの綺麗なスーツを来て。輝くような時計やアクセサリーをつけた男だった。生命力に溢れた、腐臭とは無縁のような生き物。


今の環境で働く事が辛いと。改善される事は無いのかと。自分はそう伝えたいだけだった。辛さを知って欲しいだけだった。その男から何かを奪おう等とは、露程も思っていなかったのだ。


声を掛ける間も無く、男の嫌悪の目線が身体を貫いた。しっしと払われた手と共に。自分は近づく事も出来ずに、その男の付き人に追い払われた。

それだけ。自分がその男を見たのは、それだけだった。


あいつにとって、自分は蟻だったのだろう。

この世にいなくても良い存在。命ですら無い存在。いつかの自分が蟻に思っていた事と。同じだったのだろう。

自分の生きる世界の中で、醜く勝手に増えて、落とした甘味に群がる気色の悪い者共。

きっとあの男は。とても大きい、立派なに住んでいる筈だ。



蟻が。目玉に入り込んでくる。黒いシミが眼球の中でうぞめく。

かゆい、かゆい、身体中がかゆい。かゆみを掻いて、蟻を払う力すらもう自分には無い。

口内に入り込んだ一匹が歯で潰され、舌で流され。苦い味がする。

鼻の孔に入り込む、むずがゆいそいつらを。最早、くしゃみで弾き飛ばすだけの力も自分には残っていない。



何処までが夢で、何処までが現で、何が妄想で想像なのか。最早判別はつかない。

今口元に入り込み。鼻に入り込む悍ましい蟻の群れが。腐った脳が蔓延らせた幻覚なのか、真に肉体が貪られんとしているのかも。


狂笑が漏れていた。笑い声が蟻共を震わせていた。

土台の身体が震えていても、蟻達は口内へと進む動きを止めようとはしなかった。


自分の耳に入り込んでくるのを感じた。音がするのだ。進んで行く音が。鼓膜が破られていく音。脳が壊れていく音。甘い甘い脳を啄んで、巣穴へともって帰るのだ。


蟻共、蟻共よ。

自分を巣としてくれ。

自分を養分として。もっともっと増えるが良い。

そしていつか、あの男の家へとも入り込んで。大きい巣穴を穴だらけにして。

いつか、いつか。男の体内へとも喰い進み、死体となった後に、腐った肢体を解けさせてくれ。


そんな末期の夢を見た。声は舌を這う黒い群れに阻まれ消えて。嗤う為に開いた口からは、蟻が数匹零れ落ちた。ような気がした。



腐臭と、虫が増える暑い季節に。一人の男の、小さい惨めな巣の中で。


柔らかく腐った甘い肉と。

命ですら無くなったそれを貪り運び、増える。蟻共の行列が行進していた。

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