2018/5/26 1:48 『バシリヤン通り』

 聖バシル大の最寄りから数駅離れたアパート街、通称『バシリヤン通り』。単身向けアパートが立ち並ぶこの通りには聖バシルの学生や聖バシルを目指す浪人生が数多あまた住んでいる。もちろんあおもその一人だ。


 蒼の住むアパートの斜め向かいに建つ民家。『江川』の表札がかかったその民家の二階で、一組の男女が熱い夜を過ごしていた。

「ねー⁉︎ヤっバいでしょ、コレ‼︎久保田マサタカ‼︎」

「こんな症例アリなのか……?現実的にこの症状から死因を同定できるのかな……。ああもう、参考論文を提示してくれよ!」

その男女とは、無論蒼と初音である。32型の小さな液晶テレビに映し出されるサスペンスドラマの録画を、二人で肩を寄せ合って見つめている。

 階段を上る足音。

「初音?」

毅然きぜんとしたノックののち、ドアが開く。

「ママはもう寝ますからね。静かにしてちょうだい」

「はーい」

初音は母のていした苦言くげんに、振り返りもせずに答えた。

「申し訳ありません、お母さん。こんな遅くまで居座ってしまって」

蒼がすかさず初音の母に会釈えしゃくする。

「あら、まっ……。いいのよ亜川おしかわくん、そんな遠慮えんりょしなくたって」

初音の母は露骨に表情を緩めた。

「じゃ、おやすみ」

 部屋のドアが閉まる。

「やだねー、あの人」

「……娘がオシカワジュエリーの孫息子を家に招き入れたんだもの。そりゃあんな顔にもなるさ」

蒼がため息をつく。人は自分の利益のためならどこまでもあくどくなれるものだ。

「はーっ、やんなっちゃうよ。ウチの人生はアンタがマウント取るための手札じゃねーっつうの」

初音が伸びをすると、盛大に腹の虫が鳴った。

「……何か買ってこようか?」

「ウチも行く!そこのファミマでしょ」


 草木も眠る丑三つ時。星のない空の下で『ファミリアマート』の看板が煌々こうこうと光っている。

「何買おっかな~」

初音は路上で立ち止まり、スマホの画面をスクロールしている。

「何してるの?」

「情報収集。スキャッターでバズってるファミマ限定商品とか探してんのよぅ」

「そう。先に行ってるよ」

「おけおけー」

蒼は初音を置いて店内に入った。

 「いらっしゃいませー」

「イラシャイマセー」

低音域アルト声のショートヘアの店員が放ったあいさつを東南アジア系の店員が復唱する。蒼も時々この店で買い物をするが、深夜帯はいつ来てもこの二人がレジに入っている。

 入口近くの見切り品、パウチ菓子、スイーツ、アイス……。店内を一通り見終わったが、初音は一向に入ってくる気配がない。

「遅いな……」

不審に思った蒼が店を飛び出す。

「アリガトゴザイマシター」

片言のあいさつは、もはや蒼には聞こえなかった。早鐘はやがねを打つ心臓が過剰供給する血液の轟音ごうおんが、蒼の聴覚ちょうかくを圧迫していた。


 初音が、喰われている。


 体高だけでも三メートルはあろうかという犬ようの怪異が、初音の体を棒切れでも咥えるかのように咀嚼そしゃくしていた。

 嚙み口から噴き出した血液と臓物ぞうもつは、しかし路面へと飛び散る前に霧消むしょうする。怪異の牙が触れている箇所かしょを起点として初音の肉体は光の粒子に分解されていた。そしてその光の粒子は怪異の身体へと吸い込まれていく。怪異は地面に落ちたスマホの光にもコンビニかられる照明にも照らされず、純然たる暗がりとしてそこにいた。

 初音がとめどなく涙を流して髪を振り乱している。身をよじって抜け出そうとしているのだろうが、すでに腹部が失われ上半身と下半身が分離している状態だ。これでは抜け出せるはずもない。

「(ウチの身体どうなってるの⁉︎なんで身体が動かないの⁉︎ねえ、お願い助けてよ!)」

悲鳴が声になる事はない。すでに肺の一部が喰われていて、声帯を振動しんどうさせるための空気が供給きょうきゅうできなくなっている。

「(あつい、さむい、いきできない、たすけて、しにたくないしにたくないしにたくない)」

初音の顔から力が抜けていく。顔面の筋肉が弛緩しかんし体液がとめどなく流れ落ちる。そうなっても尚、蒼の視界には初音の断末魔だんまつまが映り続けていた。


 蒼はふと、友人に見せられた特撮ドラマを思い出した。怪物を目撃した市民はきぬを裂くような悲鳴を上げて逃げまどい、ヒーローは勇敢ゆうかんに怪物へと立ち向かって鮮やかに戦っていた。

 ところが、実際はそうでもないらしい。悲鳴はのどにつっかかり、足は大木のように重い。自分の身体を操作する指示系統しじけいとうが寸断され、感覚器官と思考だけが明瞭めいりょうに空転する。

 ああ、これではヒーローになどなれるはずもない。でも仕方がない。だって、ただ怪異が視えるだけで、別にビームが出せるわけでも聖剣的なアーティファクトに選ばれたわけでもない。視えたところで倒し方がわからないんじゃどうしようもない。


 怪異が初音の切れ端を飲み込んだ。後にはちりすら残らず、ただ初音のスマホだけが持ち主の不在を訴えていた。

 蒼の視線が怪異とかち合った。

(死ぬのか、僕は)

恐怖は鈍麻どんまし、ぼんやりとした諦観ていかんに変質していた。

 怪異が蒼に向かって突進する。蒼を喰らおうと牙を剥く。

 

 その時だった。

「『犬の首落とせ』、『初茜はつあかね』!」

よく通る低音域アルトの声。その声が聞こえた瞬間、怪異の首に炎の輪が走る。

「え……⁉︎」

怪異の首がずれて落ちるのを見て、ようやくそれが斬撃ざんげきだと気が付いた。

 月のない空に影が舞う。

「無事かい、少年!」

影は、着物と袴に脚絆きゃはんを合わせた狩装束かりしょうぞくの女だった。女は自らの身長よりも長い刀身の日本刀を背面で構え、軽々と夜の空に舞っていた。日本刀の刀身は、まるでまだ鍛造たんぞうの最中であるかの如く赤く燃えていた。

「用心して帰るんだよ」

蒼が口を開く前に女は夜の中に跳び去っていった。

(あの人、もしかしてファミマの……?)

蒼には確信めいた予感があった。

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