2018/5/25 13:15 聖バシル大学交流ホール

 聖バシル大学は国内有数の名門私立大学――特に医学部の名門として有名で、医学部進学者の実に99%が医師国家試験に現役合格している。亜川おしかわあおもその医学部生の一人だった。

 穏やかな初夏の午後、蒼は交流ホールに置かれたフリーピアノを奏でていた。ホールを横切る女子学生や女性教員が足を止めて蒼の演奏を見物しているが、見物客の目当ては演奏そのものではなく彼の端正たんせいはかなげな横顔だ。

「お、シューマンの『』。やってんねー、ソーくん」

未だ女子高生のテンションが抜けきっていないような少女が、鍵盤と向き合う蒼の背中を叩こうとおもむろに振りかぶる。

「『』だよ」

少女の手のひらが打ち込まれる前に蒼は背後に振り返った。

「もう少し古典芸術に関する教養を深めたほうがいいんじゃないかな、江川初音はつねさん」

呆れた顔で吐き捨てる蒼を見て、初音はニヤリと口角を上げる。

「キミこそ、もうちょっと名作文学に親しんだほうがいいのでは~?」

初音が手に持った文庫本をヒラヒラと揺らす。

「というワケで、コレ。プレゼントフォーユー」

「『宮沢賢治傑作選』……?」

カバーのない古びた文庫本だった。

オフブック古本屋で値段つかないって言われちったからさー、あげるよ。あ、ついでにラーメン食ってオフブックいかない?今日は午後講義ないし」

初音の話にはどうも脈絡みゃくらくというものが存在しない。出会った当初から全然成長していないように感じる。

 同じ医学部の同期ではあるが、蒼と初音の共通項はほとんどない。出身地も境遇も全然違う。ただ入学最初の講義でたまたま隣の席になり、その講義でたまたま蒼が初音に筆記用具を貸して、そこから初音は妙に蒼になついている。……というか、初音が二年弱の間一方的に蒼をかまい倒しているのであった。

 初音が背負っていたリュックからカップ麺と割り箸を取り出した。

「何それ」

「何って、カプヌ」

「かぷぬ」

蒼が耳慣れない単語をおうむ返しする。

「え、まさか知らんの?」

「……名前だけなら」

「まじかー!じゃ、今日がソーくんのカプヌ記念日だね」

初音が蒼の腕を引き、ホールの端にあるテーブルに座らせる。

「ちょっと、江川さん⁉︎」

困惑する蒼の目の前に、初音がコンビニでもらえるような割り箸を置く。

「ソーくんは箸と席見ててよ。ウチ、購買でお湯入れてくっから」

「いや、食べるとは一言も言ってないんだけど……」

蒼が言い切る前に初音はホールを飛び出していった。


 数分後。

「いっただっきまーす!」

「……いただきます」

蒼と初音は向かい合って座り、湯気が立つカップヌードルと相対していた。

 蒼の手元にはオーソドックスなカップヌードル。そして初音の手元には、ヘルシー志向を売り文句としているフレーバーのカップヌードルが二個。

「塩分・カロリー過多」

「大丈夫、塩分カットのやつだから。それにほら、ウチって食べ盛りみたいなところあるし〜?」

「一般的に十九歳の女性は『食べ盛り』には該当がいとうしないと思うけど……」

「ほらほら、早く食べな!伸びちゃうから、ネッ!」

初音が身を乗り出し、苦言をていする蒼の手元にカップヌードルを押し込む。

 移動式の長テーブルが並んだエリアは学生たちのいこいの場だ。喧噪けんそうに耳を澄ますと、様々な学年・学部の学生たちの会話が聞こえてくる。

「レポート終わんねー」「単位マジ足りないわ」「わかるー」「留年すっかも」「いや早いてw」

どれも蒼にはわずらわしい雑談だ。

「ソーくんはさぁ、なんで医学部に入ったの?」

初音が切り出す。

「模試でB判定で、家から通学できないくらいには遠くて、親とか親戚しんせきが知ってるくらいには有名だったから」

「……そっかぁ(え、それだけ?人助けしたいとかじゃなくて?)」

初音の発する言葉が本心とズレる。蒼にはそれが文字通り視て取れた。


 亜川蒼の視界には、常人には見えないものが映り込んでいる。いわゆる『霊感がある』人が見るような怪異かいいはもちろんだが、特筆すべきは人間の心が視える、という事。

 例えば、人の動き。人が動こうとする時まず「動こう」という意識が一瞬先行する。蒼にはその意識が矢印のように伸びて視える。

 あるいは、人の本心。人は思っている事を全て口に出すわけではない。蒼は(その人の顔を注視ちゅうししている時だけだが)人が考えている事が、テレビの字幕機能のように視認しにんできる。

 とはいえ、蒼自身はこの能力をあまり悪いものだとは思っていない。……もちろん、視界を占有せんゆうするおびただしい異形の怪異に目をつぶれるなら、という大前提ではあるが。


 視《み》えたその人の内心を参考に会話を修正するのが、蒼なりの処世術だ。

「……だけど。医学部で勉強しているうちに、やっぱり人の役に立ちたいという思いは出てきたかな」

蒼が初音に目配せする。

「江川さんみたいな人に触発しょくはつされて、ね」

初音はサッとほおを赤らめ、カップヌードルをかき込んだ。

 「そっ、そういやさぁ!ソーくんは、もう専攻せんこう決めた⁉」

初音が唐突とうとつに切り出す。

「専攻?」

「いや、専攻っていうか……。あるじゃん、『内科に行きたい』とか、『小児科の先生になりたい』とか」

昼食を終えた蒼が空容器を置く。

「無いの?ソーくんは。ちな、ウチは婦人科かなー。この前子宮頸がん検診行ったんだけどさー、担当した医者がキショいオッサンで、なんかヤだなーってなって。どうせやってもらえるんなら女の先生がいいよねーって思ってさ」

「うーん……」

初音が空になった容器と割り箸を一か所にまとめる。

「……なるべく人間と関わらないところに行きたいな」

「ふーん。じゃ、臨床りんしょうじゃなくて法医学とか?」

初音がゴミをゴミ箱に投げ入れ、くるりとターンする。

「いーじゃんいーじゃん!『UDIラボの亜川おしかわです』!ってか~?」

初音の発言を聞いた蒼が首をかしげる。

「UDIラボ……?聞いた事がないね、外資かどこかの新規事業?」

「えー?見てないの『アンナチュラル』。米津玄師の『Lemon』のやつ」

「テレビ、ニュースくらいしか見ないから」

「えー⁉マジで?じゃ今度一緒に見ようよ」

蒼の耳元に初音が顔を近づける。

「……ウチに録画したのあるからさ」

しかし、蒼の頭部は初音の想定していたところにはなかった。

「あり~?」

蒼の姿はホールの玄関にあった。

「行こうよ。そのオフブックってお店」

「え、ちょ、待ってよソーく~ん!」

テーブルに置いていたプチプラのバッグを取り、初音は小走りで蒼を追いかけた。

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