継承者の憂愁

 波が島を襲ってからしばらくして、アミは何の変哲もない暮らしを続けた。ユノはいつものようにアミに飛びつけるほど、元気になり(海に近づかなくなったが)、アミも祭祀に参加した。変わったことといえば、海面が少しだけ上昇したくらいだった。それでも、毎日が新たな発見と、楽しさで溢れていた。例えば、リンがルミックの脚の肉を少し分けてくれたことだ。狩りに成功した後の日、リンがアミの家に肉を持ってきた。

「それでね、ルミックがどーん!って木を倒して、動きが遅くなった時にピュッって矢を射ったら、うまく当たったの!」

 意気揚々に話すリンは、狩りをしているときとは似ても似つかないほど幼く見える。リンの腕前を疑う人がいるならば、狩りの様子を見せればあまりの変わりように口を噤み、逃げるように去っていく。アミも、リンに出会った頃は本当に同一人物か疑ったものだ。本人は運が良かったと言うが、実力も確かなものである。

「でも、ルミックの様子がちょっと変だったな。いつもより、ってい動きにうか…」

 そんな彼女は、やはり年頃の女の子、というべきか、恋焦がれている人がいるらしい。リンはその人を「彼」と呼び、アミによく話している。アミには、「彼」が誰であるのか大体想像がついていた。それほどまでに、普段のリンは単純な子なのだ。

「それで、彼にお肉をあげたら、えって驚いて、それから困ったみたいに笑ったの!」

 アミは、それは本当に困ってるのではないか、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。リンは「彼」にたくさん贈り物をしている。だが、それ以上に島の人たちにも配っているので、周りからは怪しまれずにいる。おかげでリンは、島の人気者だ。隣で歩いていると、四方八方からリンを呼ぶ声が聞こえ、アミはいつも顔が上げられなくなってしまうのだ。

「今日も来てくれたの?」

 そう言って顔を覗かせたのは、ユノだった。

「ユノちゃん!お邪魔してます。」

 ユノは、リンの話す狩りの話が好きだ。リンは手をぶんぶんと振り回しながら話すのだが、それが更に臨場感をもたらすため、ユノもアミも、その場にいるような雰囲気を味わえる。祭祀の一族にとって、血は穢れだ。狩りをするだけで、祀る神を怒らせる原因となってしまう。父は、リンが狩りの話をすることにあまりいい顔をしないが、時々リンの話に笑みがこぼれているのを見ると、父自身楽しんでいるのだろうと思う。


 三人で囲炉裏を囲い、リンの話に笑い転げているうちに、日が傾いて、夕日が家の中を照らし出した。今日は祭祀がある日だ。準備をしなければならない。

「私、今夜は祭祀があるから、そろそろ行くね。」

 ユノがすっと下を向いた。が、すぐに顔を上げて満面の笑みで、行ってらっしゃい、と言った。アミは、その言葉にどう返せばいいか分からず、行ってきます、とだけ言って奥の部屋に行った。


 祭祀には物がたくさん必要だ。まず、服を着替えなければならない。白い衣に腕を通し、白い帯で止める。長い髪は朱色と白の組紐でまとめ、低い位置で結んだ。首には、月を模した貝殻―月の欠片と呼ばれる―で出来た飾りを垂らして、数珠を腰に掛ける。それからアミは祭文を一読し、他には何も持たず、祭祀所である森の奥へ向かった。

 今夜は空腹に耐えきれるだろうか、という思いが頭をよぎった。早く祭祀を終わらせて、母の料理を食べたい、なんて祭祀の間に思っていたら、父や祖母に怒られてしまうだろう。


 祭祀場には、すでに森の木々の影が落ちており、アミは、この場だけ夜であるような錯覚を覚えた。始めはこの夜の暗さが怖かった。しかし、いざ祭祀が始まると、辺りが暗くないと、心が静まらない。慣れというのもあるのだろうが、それよりも、夜の森の静けさ、しんしんと降り注ぐ月の淡い光、さわさわと揺れる葉の音の全てが、アミの心に安心感をもたらしていた。澄んだ水のような、森の香りも好きだった。しかし、今日は森の香りが薄いような気がした。薄くはないのだろうが、別の香りが、森の中に漂っている。


 篝火のぱちぱちと踊る音は、唯一の光を感じさせる、細い糸だった。この音が消えてしまったとき、アミは闇の道に迷い込んでしまうだろう。

 祭祀はいつも通り、着々と進んでいった。舞女が、神楽鈴(多く鈴のついた、15センチほどの長さの棒)を自在に操り、衣をはためかせて舞った。白布で隠された顔は見えないが、暗い森の中で舞う少女は、まさに飛び去ろうとする白鳥を思わせた。しかし、その動きが時々乱れるのを、アミは見逃さなかった。ただ、誰もそれを咎める者はいなかった。

 舞女が、神楽鈴をゆっくり下ろすのが見えた。辺りはしんとして、風に揺れる若葉の音と、波が砕ける音が遥か遠くから聞こえていた。アミは、静かに冷たい空気を吸った後、祭文を読んだ。その声は森のあいだをこだまして、一拍置いて、再び聞こえてきた。それとは別に、小さな悲鳴が聞こえた。しかしアミは、何も聞かなかったふりをして、祭文を読み続けていたが、ふと辺りの雰囲気が変わったことに気が付き、顔を上げた。すると、祭祀に参加していた者全員が、呆然と海を眺めていた。何があったの、と聞く間もなく、島の多方向から鐘が鳴り響いた。そして――


 再び、波が襲ってきたことを、鐘が、島民が、波が、島全体が告げていた。

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月に願う者たち @monaca1siratama

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