第9話 バレた

気温もぐんぐん高くなっていって、最近は半そでで過ごすことも増えた。薫子さんが用意するお茶も、水出しのお茶の時もあった。それはそれでまた、のど越しが爽やかでおいしい。

その日もお茶をいただいて、十九時前にはお暇した。玄関先まで薫子さんが見送ってくれて、またねと手を振り、階段をかけていく。

しかし、三号棟を出たとき、思いもよらない人と出くわした。


「なにしてるの?秀」


お母さんだった。まだ帰ってくる時間じゃないのに、仁王立ちで一号棟の前にいた。その顔はとても険しく、怒っていることがすぐわかった。私は体の温度が急に下がっていく感じがした。


「なんで」そう言うと、お母さんの眉間は一層濃いしわが刻まれた。


「何ではこっちのセリフよ。秀、あんたどこ行ってたの。図書館じゃないでしょ」


それはまるで尋問のようだった。お母さんの口調はかなり怒っていて、震えあがりそうな私は、なんて言うのが一番怒られないか、頭をフル回転させるが、なかなかいい言葉が出てこない。黙っている間にお母さんが言葉を続ける。


「お母さんに嘘ついてたの?」


「……黙ってただけだよ。友だちの家に居たの」


間違ってはない。薫子さんは友達だ。

しかしお母さんは納得しなかった。


「嘘つくのはやめて」


お母さんは切り捨てるように言葉を吐いた。お母さんの中ではもう何かが決まっているようで、私の言葉はもう届かない。

嘘じゃないのに。薫子さんは年が離れているけど、私の友達だ。

そう言いたいけれど、言って聞いてくれるのかな、と思うと言葉が出ない。お母さんは大きなため息をつく。


「ご近所さんから聞いたの。あんた、三号棟の女の人の家を出入りしているんだってね」


責めるようなお母さんの声に、それの何がいけないことなの、と下を向きながら思った。本を持つ手に力が入った。


話したらお母さんはわかってくれたの?薫子さんのこと。

今更どうしようもないけれど、話せばよかったのかな。

私は全然そうとは思えない。


私は黙ったまま、ただお母さんの怒りの言葉を聞いていた。

いつもならすぐ謝って許しを請うのだけれど、今日の私はお母さんの想像通りのいい子にはなれなかった。お母さんは顎で三号棟のほうをしゃくった。


「あそこ、女の人が一人で暮らしてるのよね?知らない人の家に行っちゃだめじゃない。何が図書館よ。嘘ついて。秀、あんた自分のしたことわかってる?」


至極真っ当なことを言っているようだったが、今の私には響かなかった。


「わからない、何も悪いことしてない」


下を向いて小さい声で答えた。かろうじて出た言葉はそれだけだった。

答えたのにもかかわらず、お母さんはそんな私の言葉を気にも留めてない様子で、話し続けた。私の文句など、聞く耳はないらしい。


「お母さんが怒られるのよ?その人に迷惑かけてるって。これだからひとり親はって言われるの。だいたいあんたは普段から……」

「ひとり親なのは本当でしょ」


長々と話すお母さんの言葉を遮って、つい、口に出してしまった。

悪いことじゃないけど、責めるように言ってしまって後悔したが、もう遅い。

前を見ると、お母さんは顔を真っ赤にしていた。そして、顔を引きつらせて一層ヒステリックな声を上げる。


「口答えするなんてやっぱりその人のところに行ってるからでしょ!気楽な独身の私の気持ちなんてわかんないのよ。子供もいないのに好きな時だけ餌やって、迷惑なのよ」


お母さんはもう私に言っている様子はなく、ずんずんと三号棟のほうへ歩き出した。


「お母さん!待って!」

「家で待ってなさい」


私はお母さんを追いかけて三号棟へ走った。速足のお母さんに縋り付いてみたけれど、意に返さずずんずんと歩いて行った。


まずい、まずいまずい!

このままじゃ、私の居場所が壊される!私はお母さんの腕を引っ張って、大きく叫んだ。


「お母さん!話を聞いて!」


しかし、お母さんは足を止めてくれない。それどころかずんずん先へ進んでいって、もう薫子さんの家の前だ。


「嘘ついたあんたの話を、なんでお母さんが聞かなくちゃいけないわけ!?」


お母さんはそう言って、乱暴にチャイムを鳴らした。それどころか、ドンドン!と拳でドアを叩く。私の居場所が乱暴にこじ開けられる音がした。


「牧本秀の母ですが!いらっしゃいますか!?」


攻撃するような言い方でお母さんは叫んだ。するとドアが開き「はいはい」と言いながら薫子さんが顔を見せる。


「お待たせしました。あら秀さん、こちらはお母さん?」


私のほうを見て薫子さんは話す。まるで「あなたのペースには巻き込まれませんよ」と言っているように、私は見えた。

それにお母さんは腹立ったのか、ぎろりと薫子さんを睨みつける。


「うちの子を勝手に家に入れているそうですが、やめてもらっていいですか?」

「お母さん!やめて!」


お母さんは薫子さんに向かって言い放った。

お母さんは私のことを見もしない。薫子さんは私から視線を外し、お母さんの微笑みかけた。


「そちらもご迷惑でしょう」

「とんでもない!」薫子さんは大げさに体をのけぞらせた。


「秀さんはいい子で、迷惑なんかじゃないですよ」


私のほうをちらりと薫子さんは見て、言った。この様子では私にも向けられた言葉なのだろう。私は安心したけれど、それよりもお母さんの様子が気になって仕方がない。薫子さんの態度は、今のお母さんには火に油だ。

案の定お母さんはさらにイライラした様子を見せた。


「そちらが大丈夫でもこちらが大丈夫じゃないんです!近所で噂になってしまいますんで。ひとり親だと行き届いてないとか」


今のお母さんの心の声が聞こえてきそうだった。

実際あなたもそう思ってるんでしょ?と言いたいのだ。なんでこんな大人の都合に振り回されないといけないんだ。薫子さんは困ったように笑う。


「そんなことは……」

「とにかく、もう今後はここには来させませんので!」


お母さんは薫子さんの言葉を遮り、私の手を掴んで、薫子さんの前から立ち去った。私はその場で半ば強引に連れていかれ、薫子さんのほうを見ると、薫子さんは何とも言えない悲しい顔をしていた。


(ごめん、薫子さん、迷惑かけてごめん)


そう一言、薫子さんに言いたいけれど、そう口にする前にお母さんに引っ張られて、階段を下りて行ってしまった。

そしてそのまま私はお母さんに家まで引きずられた。その最中お母さんに何度も「はなして!」と言ったけれど、お母さんは無言のままだった。次に口を開いたのは家に入ってカギをガチャリと閉めた後だった。


「もうあの家に行ったらだめだからね」

「なんで!?何も悪いことしてない!」

「口答えしない!」


お母さんはさらに大きな声を出した。

そして「ご飯になったら呼ぶから、部屋に行ってなさい」とだけ言って、そのまま台所に行ってしまった。私は、もう頭が真っ白になって、部屋に行って、本を握りしめたまま、泣いた。

なんで、と何度も思ったし。

お母さんひどい、とも思った。

けれどこうなる前に何も手を打たなかった私のふがいなさに涙が出た。


(どうすればよかったんだろう?)

(薫子さんにもう会えないの?)

(そんなのいやだ。でもお母さんが…)


考えても答えが出ないし、涙は次から次へと出てくるし、私は顔をぐちゃぐちゃにしながらそのまま畳の上へと倒れた。そして、その日は風呂にも入らずご飯も食べず、そのまま泣き疲れて寝てしまった。

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