第8話 魔法使いとの日々
それから毎日が楽しくなった。
薫子さんと出会った次の日から、放課後、帰宅してランドセルを置いて、本を持って、薫子さんの家へと走っていく日々が続いた。
この夢が覚めなければいい、と思うくらい薫子さんとの時間は楽しかった。
最初のころ「今度からチャイムのリズムを決めましょうか。そうしたら秀さんだってわかるもの」と言われて以来、決めたチャイムのリズムを鳴らしている。
提案されて「まるで秘密の呪文みたい」と思った。
今回もそのリズムで鳴らしてドキドキしながら待っていると、薫子さんが出てきた。
「来たわね。秀さん」
そう言ってにこりと笑った薫子さんを見て、私は嬉しくなる。私は上機嫌で玄関に上がる。もちろん靴をそろえて。
手を洗ってからリビングに行く。
通された部屋は最初の日とはまた印象が違う。日の光が入って、レースのカーテンがゆらゆら揺れているからだ。
部屋のあちこちに飾られている小さな花瓶や、古時計や、木製銅製さまざまな置物たちが光に照らされていて、夢のように綺麗だった。
薫子さんが台所に行っている間、手持ち無沙汰だった私は赤ワイン色のソファに座って、本を開いた。持ってきたのは「星の王子様」だ。
星の王子様には変な大人がたくさん出てくる。王子様は旅をしながらその様子を語る。なんだか、現実の大人をぎゅっと濃縮したら、こうなるんじゃないかと思える極端さが描かれていた。
私は夢中になって読み進めていると、がちゃりとドアが開いて、薫子さんが器用にお盆を持ちながら、やってくる。
お盆の上には毎回違うポットとティーカップが置かれていた。そして、小さなクロワッサン。
「これくらいなら晩御飯に支障ないと思うから」
そう言って差し出されたクロワッサンは、香ばしいにおいがして、表面がつやつやとしていて。とってもおいしそうだった。
それから薫子さんはポットを傾けてお茶を入れる。来るたび毎回違う香りがして、私はティーカップに鼻を近づけた。
「これ、白桃じゃないですね。なんだろう」
「あらそうよ。よくわかったわね!すごいわ」
薫子さんに褒められ、照れてしまう。でもなんのお茶かまでは、わからない。
「これはサクランボよ。今の季節にぴったりでしょう」
「サクランボ!」
私はそんな香りのお茶があるなんて知らなかったから、びっくりして繰り返してしまう。サクランボと言えば、ファミレスのメロンクリームソーダに乗ってるのを思い出した。
「サクランボって今の季節なんですか」
「そうよ、今くらいよ」
ほおお、と声が出た。なんでも知っている薫子さん。やっぱりすごい。お母さんはサクランボの季節を知っているだろうか。知っていても、私に教えてくれるだろうか。
ティーカップは赤いラインが入っていて、サクランボの色に合わせたのかなと思う。琥珀色のお茶は日の光が入ってきらきらとしているように見えた。
「いただきます」
「いたさきます」
二人で声を合わせて、お茶をいただく。果実特有の甘酸っぱい香りが口に広がった。
「前飲んだ白桃のも美味しかったけど、これもおいしいです」
「よかった!クロワッサンも食べてみて。おいしいのここは」
私は促されるままクロワッサンを手に取った。手で持ってもぱりぱりなのがわかる。そしてほんのり温かかった。
口に含むと、さくっと、ぱりぱりっと音がして、いつの食べるパンの十倍、バターの香りがした。それでいて生地自体が甘くて、私はわあと声を上げる。
「すっごくおいしい!家で食べるの、もっとへちゃってしてるのに!」
私がそう言いながらサクサクと食べると、薫子さんはふふと笑った。
「ああそれは、一回トースターで焼いたからね。焼くとぱりっとするから」
そんな豆知識があったのか。そのまま袋から出して終わりじゃないんだ。私は口の周りに着いたクロワッサンのかすを手で拭きとった。
「魔法みたいです。薫子さんは、本に出てくる魔法使いみたい」
私は本気でそう思っていた。クラスメイトは馬鹿にするだろうけど、魔法使いが実在したのだと、私は真面目に思うのだ。
「嬉しいわぁ」
そう言って薫子さんはにこにこしながら自身もクロワッサンを食べた。
私は少し、その様子が不思議だった。
「薫子さんって、私のこと馬鹿にしませんね」
私はクロワッサンを食べる薫子さんに言う。
すると薫子さんは、不思議そうに首を傾げた。
「ん?なにが?」
「魔法って言うと、普通の人は馬鹿にします」
「普通の人って、どんな?」
そう言われて、普通って言葉をあまり深く考えず使っていたことに気づく。
私は少し考えてから、あっと思いついた。
「星の王子様に出てくる、大人みたいな人たちです」
私は持ってきた本を手に持って、薫子さんに示した。
薫子さんはああなるほど、と本に目線をやる。
「もうだいぶ読んだのね」
「はい、面白くて」
昨日の夜、寝るまで読んだからだいぶ読み進めた。難しいことを簡単な言葉で伝えようとしている本だなと思う。私にもわかりやすい言葉が多かった。
「変な大人ばっかり出てくるものね、偉そうな王様とか、ルールを気にする人とか」
「でも、この世界にいっぱいこんな人いそう」
そう言うと薫子さんは「そうね」と頷いた。
「この本に出てる大人が普通をと思うなら、秀さんの思う普通は、少し苦しそうね」
薫子さんの言葉に、そうか、と気づく。
「確かに、そうかもしれません」
私の思う普通って、偉そうな王様とか、意味不明なルールを守ろうとする灯台守の人とかたくさんいて、楽しそうじゃない。私の普通は苦しいのだ。私の中の苦しさの何割かは、私が普通を苦しいものと思うことで、成り立ってしまっている気がする。
「薫子さんみたいな人がいっぱいいたら、きっと私は苦しくないと思います」
「私?」
薫子さんは「どういうこと?」と言って顔を近づけた。私は考えながら言葉を紡ぐ。
「薫子さんみたいに優しくて、好きなものを楽しむことのできる人がいっぱいだったら、私にとっての普通もだいぶちがったかもしれない」
素敵な部屋、素敵な紅茶、素敵な本に囲まれて、それらを選んでいる薫子さんは素敵だ。
私は薫子さんという大人がいることにずっと驚いている。お母さんやお兄ちゃん、学校の先生とはずいぶん違うのだ。
「普通、叱ったり、偉そうにしたり、真面目に生きるのが大人だと思うんです。でもそれってすごく窮屈です。素敵なものを素敵と言ったり、楽しんだりしたい。薫子さんみたいな大人に、私はなりたい」
私がそう言って薫子さんの目をまっすぐ見た。
薫子さんはどう思うだろう。若干の不安を覚えながら薫子さんを見ている薫子さんは目をウルウルさせ始めた。私はぎょっとし、何かまずいことを言ったのかと慌てる。
「薫子さん!? どうしたんですか!?」
「ああごめん、ちょっと、ちょっとね」
薫子さんは涙を拭きながら「うんそっか、そっか」と頷いていた。
「何か気に障りましたか? 私、わからなくて」
「違うの。私の事情よ。ちょっとグッときちゃって」
ぐっとくるほど褒めてしまったという事だろうか。薫子さんは私よりずいぶん大人なのに、急に私の言葉で泣くなんて、不思議だなと思った。
「秀さんの気持ちは分かったわ。ありがとう、そう言ってくれて」
薫子さんは笑顔を取り戻し、私をぎゅっと抱きしめた。
私も、ぎゅっと抱きしめ返す。
こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と思わずにはいられなかった。
そうして薫子さんと会って、1か月ほど時間がたっていた。
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