第32話

 その夜、僕は富岡が住む都内のタワーマンションに招待された。

 食事は高級レストランの出前。酒は僕がウイスキーを買ってきた。一本で四千円もするそれなりのシングルモルトだ。だけどそれも棚に並ぶ何十万もする酒を見たあとでは少し恥ずかしくなる。

 タワーマンションから見る景色は綺麗だった。街全体が足下に広がる。きっとこの景色に金持ちはカネを出すんだろう。

「まるで成功者だな」と僕が皮肉めいて言うと、富岡は苦笑した。

「賃貸だよ」

「それでも高いだろ。月にいくらするんだ?」

「思ってるより安いよ。三、四十万くらいだったか」

 三十万。普通の会社員の月収だ。それだけのカネを住む場所に回せるのならやっぱり成功者だろう。うちなんて月四万だけど、それでも毎月の支払いにはげんなりしてる。

「タワマンなんて正直興味なかったんだけどな。女の子にはウケがいいんだ」

「へえ。やっぱ会社の社長ってモテるんだな。なのにまだ独身でいるのか?」

「カネができたのなんてここ最近なんだ。もっと遊ばせろよ」

 富岡はそう言ってカプレーゼを頬張った。

 まあそれもそうか。こいつは独立してから必死に働いてきたんだ。順調に業績が伸びてからじゃないと遊ぶ暇なんてない。

 それにしても羨ましい。俺なんて最近女の子を部屋に呼んだこともないのに。

 女からしてみれば稼ぎがある男の方が魅力的に映るのは仕方ない。誰もが貧しい上にいつ仕事がなくなるか分からないフリーライターより実業家を選ぶだろう。

 まあ俺もわりと好き勝手やってるんだ。もう結婚は半ば諦めてる。だからこそ実家に帰るのが億劫なんだけど。孫の顔が見たいと言われても男一人じゃどうしようもない。

 昔はあまりパッとしなかった富岡が今じゃ随分格好よく見える。

 立ち居振る舞いから自信があるのがよく分かった。これもカネの力なんだろう。

 そう思うとやっぱり羨ましくなる一方、僕は僕の信念を突き通したいという意地もあった。

 それを手放せばそれこそ先がない。

 昔のことを語りながら飲み食いし、酒も食事も減ってくると話題はあの事件のことになった。

「にしてもよかったよ。あのリストに俺の情報が載ってなくて。個人情報なんて本当にどこからでも漏れるんだな」

「運営会社はなんて?」

「どこから漏れたか分からないって。あとは今後はないように精進するだとかお決まりの文言が並んでたよ。だけどあそこはもうダメだろうな。普通のSNSならまだしもVIP専用なんだ。金持ちは自分の安全のためにカネを出すような奴ばかりだ。逆に言えば安全が守れないのならタダでもやらねえよ」

「タダのコンテンツは情報を売られてるって言うからな」

「そうそう。それが分かっててやるならいいけど、資産を守るってことから見ればやらない方がいい。それにしてもびびったよ。あの報道が出た時は。俺もダウンロードして必死になってリストをチェックして、それでも数が多いから困ってると名前検索できるサイトを作った奴がいたんだ。そこに検索欄に自分の名前を入れた時は最近で一番怖かったかもな。もし載ってたらお前をぶっ飛ばすつもりだった」

「まあ。殴られても文句は言えないな。僕もしまったって思ったからさ」

 友達を作るのは大変だが、失うのは一瞬だ。あの時は絶縁されることを覚悟した。

 富岡は楽しそうに笑い、そして酒を飲んで顔を赤くしながら苦笑した。

「にしてもあのイカレ野郎共はなんなんだ? 正義の味方のつもりかよ」

 それを聞いて僕は心の中で少し首を傾げた。彼らがイカレてるかと聞かれたらそうじゃない気もしたからだ。

「さあな。僕もまだあいつらがどこまで本気なのかは分からないよ」

「本気もなにももう殺っちゃってるんだろ? ユーチューバーも燃やしてたし。お前の記事にも書いてただろ。最恐集団とかなんとか。と言うか本当にあんなのが他にもいるのか?」

「そこのところを警察が否定してないってことは防犯カメラの映像にでも映ってるんだと思うけど。どちらにせよあんなことを一人じゃできないだろ。そうだったらとっくに捕まってるはずだ」

「どうだかな。警察も案外いい加減だぞ。まったく。公務員の奴らはカネばっかりかかるくせに使えないのばっかだよ。なにをするにも資料を出せ。あれ持ってこい。これ持ってこい。どうせ税金使うならまずシステム面をユーザー目線で変えろって言うんだよ」

「まあな」

「でも日本警察はまったくの無能ってことでもないだろうし、そのうち捕まるだろうな。だとしたらどんな奴だと思う?」

「さあ。案外普通の若者とかだろ」

「いや。あの声は結構おっさんだった。どうせ就職氷河期に内定貰えなかった冴えない奴だよ。自分の能力の低さを世間のせいにして逆恨みしてるんだ。いるよな。そういう奴。お前が稼げないのはお前が無能だからだよって。うちの社員でもいるけどさ。これが中々クビにできないんだよ。日本の制度って正社員を守ってるからな。だからみんな派遣を使う。もちろん優秀な社員は欲しい。でも一番イヤなのは無能な社員に無駄金使うことだ。採用はいつもギャンブルだよ。おまけに負ける可能性の方が高いから質が悪い」

 富岡は誰かを思い出しているようだった。たしかに経営者からすればそう考えるのも仕方ないのもしれない。払った金の分くらいは働いて成果を出してほしい。カネを出す側からすれば当然の要求だ。

 だけど世の中にはそんな使える人材だらけなわけがない。平均より低い人間はそれこそ大勢いるはずだ。

 僕は自分が彼らの側だと思っているし、そうじゃなくても彼らの側に立ちたいと思っている。

 でも経営者からすれば彼らは利益を最適化するための弊害でしかないのも確かだ。

 でもそれは利益の面から見ればであって、社会の面からは見ていない。

 社会にとって不利益な人間を排除していけば誰も残らなくなる。残るのは自分の意思を持たないロボットのような人間だけだ。

 その社会を僕は肯定したくはなかった。

「……随分悪人になったな」

「悪人? 俺がか?」

 富岡は目を丸くして自分を指差し、そしてムッとした。

「ふざけるなよ。こっちは食い扶持作ってやってるんだぞ? カネだって随分払ってる。そんな俺が悪人かよ」

「……そうだな。悪かった。でも優しさはないだろ」

「優しさねえ。それがありすぎる人から消えてくのがこの世界だよ。生き残るためには阿漕なこともやらないとダメだ。優しさなんてのは余裕だよ。だから優しい人間は大抵カネにも未来にも困ってない奴ばかりだ。生憎俺にはまだそれはないな。ぼーっとしてればあっと言う間に潰れて自己破産だ。そしたら終わりだよ。この国は失敗に不寛容だからな。再挑戦しようにも銀行はカネを貸してくれなくなるし、周りの目も冷たくなる。俺はそういうのをイヤって言うほど見てきた。落ち目はつらいぜ」

 富岡は家に置いてあった日本酒を開けて注ぎ、啜った。

「お前の言うことは分かるよ。でもそれは資本主義の話だろ?」

「それ以外になにがあるんだよ?」

「あるよ。資本主義は主義だ。社会の全てじゃない」

「理想論だな。たしかに全てじゃない。だけど世の中カネ中心に回ってるよ」

「それはお前がいる世界がであって、全世界じゃないだろ。カネがなくても人は幸せになれる。だってそうだろ? カネがなかった時代の人間は誰一人として幸せじゃなかったって言うのか?」

 富岡は眉をひそめた。

「お前はなにが言いたいんだ?」

「カネだけを尺度にするなってことを言いたいんだよ」

「……なるほどね。でも無理だな」

「なんでだよ?」

「カネが魅力的だからだ」

 僕は思わずうっと声を漏らしそうになった。納得してしまいそうになってしまう。

 富岡はどこか諦めたような笑みを浮かべ、窓の外を見つめた。

「カネはすごい。誰もがその魔力を知れば手を伸ばしたがる。それこそこの国で生きている全員がお世話になってるわけだからな。不必要な人間なんていないんだ。それのない生き方もあるだろうけど、ほとんど人間は山奥で自給自足なんてしたくない。電気も使いたいしネットも使いたい。清潔な水も飲みたいし、肉も魚も野菜も食いたい。頑丈な家に住んで、清潔な布団で寝たい。それを全部叶えてくれるのがカネだ。カネは全てじゃない? たしかにそうだ。でもこの社会の生活においてはほぼ全てだよ」

 富岡の言っていることは至極全うで、僕は思わず俯いた。

「……その通りだ。この国じゃなにをするにもカネがかかる。なにもしてなくても住民税を払わないといけない。でも僕が言いたいのは違う。量の話だよ。一人が独占してればよく思わない人間は必ず出てくるはずだ」

「なんだ。お前はあいつらと同じ考えってわけか」

 富岡は少しだが軽蔑するような目で僕を見た。僕はかぶりを振る。

「そこだけはだ。暴力はよくない。それこそ歯止めが利かなくなる。社会が崩壊すればカネもなにもないんだからな。でも今の世の中、金持ちがカネを持ちすぎているのも確かだろ? 一人の人間が生きていくのに何千億も必要なのか?」

「すごい額が出てきたな。俺はそんなに持ってないから分からないけど、たしかに不必要だろうな」

「だったら――」

「でも企業から見れば別だ。会社はカネ食い虫なんだよ。それこそ大企業は大変だ。何百、何千、何万って人数を雇って食わしていかないといけない。研究開発やら広告やらもカネがかかる」

「それは企業の話だろ?」

「企業なんてものは個人の夢で動いてるんだ。創業者か株主かは分からないが、誰かがこれをやりたいって言い出して、仲間を集めてそれをやる。言うなればサークルみたいなもんだよ。それが大きくなって利益を生めば企業だ。そして誰かになにかをしてもらうにはカネがいる。最初はみんなタダでやってても生活ができないなら辞めていくからな。そしてカネを払うには稼がないといけない。結局夢にはカネがかかるんだ。俺だってくれるならいくらでもほしい。そうすれば一部上場して世界規模で商売ができるんだからな」

「カネの量には限りがある。夢のためだろうが独占すれば行き渡らなくなるだろう。なんでそれが分からないんだ?」

「悲しい話だがそいつらが大事じゃないからだよ」

 富岡は嘆息してばつが悪そうに肩をすくめた。

「俺が大事なのは会社と社員だ。あと家族。それに友達だな。正直この世界がどうなろうとどうでもいい。俺だけじゃない。誰だってそうだよ。身内が、自分の周りが餓えてないならそれでいい。俺が多少カネを出してもアフリカの子供達は餓死するし、ホームレスはいなくならない。なら俺は自分で守れる範囲を守りたい。それだけだ。……それだけの男だよ」

「………………だとしても、僕は切り捨てたくない」

 僕は額に手を当てた。

 それを見て富岡はなんとも言えない顔になる。

「良い人はつらいだけだぞ?」

「そんなんじゃない。やりたいことをやってるだけだ」

 富岡はまたため息をついた。

「お前やあの集団の考えじゃ俺は悪人なんだな。たしかに俺は善人じゃない。でも社会的に見れば悪人じゃないはずだ。それこそ寝る間も惜しんで人一倍努力してきた。それをようやく成功されたら妬まれて、挙げ句殺しのターゲットにされる。そんなことってあるかよ」

 富岡は両手を広げて苦笑した。

 僕はたしかになと思いながらもまだ彼らを否定しきれないでいる。

「…………最後の一つだけ聞く。これでこの話は終わりだ」

「どうぞ」

「カネを手放すつもりはないのか?」

「ないね」富岡は言い切った。「俺はこれからもカネと共に生きていく。それしか生き方を知らないからな」

「……悲しいな」

「その悲しさもカネが癒やしてくれるさ」

 富岡は前を向いて光り輝く東京の街を見つめていた。

 僕は下を向きながら内心思う。

 今のお前は本当にあの頃より幸せなのかと。

 だけど言わない。言っても仕方がないからだ。それほど僕らは歳を取ってしまった。

 それからすぐ僕は富岡のマンションを後にした。

 次に会う約束はしなかった。

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