第26話
そしてそれは深夜の一時に来た。
ずっと見つめていたスマートフォンが光り出す。僕はそれを取ると石丸さんの静かな声が聞こえた。
「……すぐにチェックアウトしてください。それが終わったら大通りの方まで歩いて、そこにある自販機でコーヒーを買って飲んでください」
「……分かりました」
なんでそんなことを言うかは分からないけど既に準備を追えていた僕はすぐに受付に向かった。
こんな夜中にチェックアウトなんてできるのか心配だった。でも言われた通り片言の英語で受付のスタッフに「チェックアウト。ビジネス」と言うとすんなり手続きをしてくれた。
あとはスーツケースを手に言われた通り自販機に向かうだけだ。
ただそれだけのことなのにドキドキした。辺りには誰もおらず、静かな都会が佇んでいる。昼間と比べ、夜の東京はゾッとするほど静かで、絶え間ない明かりがちょっとした暗闇さえも殺していた。
ガラガラと音を立てながら大通りに向かって歩いて行く。
言われた自販機はホテルから歩いて一分ちょっとの場所にあった。そこで財布を取り出しているとスマホが鳴った。
「はい」
「それ以上は喋らないでください」
ドキリとして僕は黙り込んだ。石丸さんは続ける。
「そのままなにを買うか悩んでいてください。決まったらスーツケースをすぐ横の路地に置いてください」
僕は言われた通りに自販機の前でなにを買うか悩み、微糖のコーヒーを選んだ。
すると横の路地で音がする。なんだろうと見ようとすると石丸さんが告げた。
「見ないで。そのまま買って飲んでください」
見ないでと言われても見えてしまった。
路地にいた石丸さんが大きなスーツケースを開け、その中に入る姿が。
意味が分からなかった。それでも今は従うしかない。
「飲み終わったらスーツケースを閉じて大通りに向かってください。そこに車を用意しています」
そう言われ、僕はコーヒーを飲んだ。甘いはずなのに味がしない。ただ口の中が少しべたついた。
飲み終わると震える手で缶をゴミ箱に入れ、スーツケースの元へ行き、蓋をロックして引っ張る。
重かったが引っ張れないほどじゃない。石丸さんは元々細身だし、五十キロ程度しかないんだろう。
キャスターがしっかりしているこのケースなら持つ角度さえ分かれば僕でもなんとか運べる。
僕は無我夢中でスーツケースを引っ張り、そして大通りに出た。
持っていたスマホにメッセージが受信される。
『そこに駐まっている個人タクシーに乗ってください』
指示に従い、僕は辺りを見回した。たしかに個人タクシーが一台駐まっている。運転手が外に出て煙草を吸っていた。
「あ、あの……」
声をかけてから気付いた。このスーツケースは重すぎる。運転手が持ち上げれば異常に気付くだろう。だけど一人だとトランクに乗せられない。
「はい。どこまで?」
運転手に尋ねられ、僕は慌てふためいた。
「あの、えっと、とりあえず新宿まで……」
頭に浮かんだ地名を言ってみたが、本当にそこでいいのかは分からない。いや、ダメだろう。人が少ないところの方が良いに決まっている。
「いや、やっぱり埼玉の方にお願いします」
「分かりました。じゃあお荷物積みますね」
「あ、いや、大丈夫です。自分で積みますから」
すると運転手は笑いながら近づいてきた。触られたら終わりだ。
そう思った僕に運転手は囁いた。
「大丈夫です。両端を持ってトランクの隅まで持ち上げればあとは押し出すだけですよ」
僕はハッとして顔を上げた。
この男は事情を知っているらしい。そうか。石丸さんが呼んだんだから当たり前か。
「どこで撮られてるか分からないし、なるべく早く入れちゃいましょう」
男はそう言うとトランクを開けた。そして立てたスーツケースを横に倒し、上の方を持った。
「ほら。早く」
そう促され、僕はスーツケースを持ち上げた。二人で持てば案外やれないことはない。トランクの高さまで上げればそこに引っかけ、あとは押すだけだ。
男はスーツケースのロックを外すとトランクを閉めた。
「開けとかないと窒息しちゃいますからね。じゃあ行きましょうか」
男はニヤリと笑うと運転席に乗った。僕は不安に思いながら後部座席に乗り込む。
ここまで来れば乗らないわけにはいかない。
運転手の男はこちらに振り向くと下卑た笑いを見せた。
「さあてお兄さん。行けるとこまで行きましょうか」
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