第11話
それからしばらく彼と会うことはなかった。
会いたいならあの公園に行けばいいだけなのだが、変な負い目もあって行かなかった。
そうすると自分が臆病者のように思えた。
死ぬのは怖くないとか、もうなにも失うものはないだとか、たいそう威勢のいいことを言ったり思ったりしながらも、その実それはただの虚勢だったんじゃないかと気付かされる。
有り体に言うなら覚悟が足りなかった。
私は自分のことを善人だと思ったことはないが、悪人だと思ったこともない。
彼の言う通り死ねるのなら善も悪も関係ないはずだ。
無責任だが、死んだあとのことなど自分には関与できないし、悲しんだり迷惑をかける存在も私にはいないのだから。
だがそうは言っても私は根が小心者にできていた。
人に迷惑をかけない。そんな人生を送ってきた。
これだけ聞けば優しい人間だが、その本質は誰かに関与することが苦手な臆病者だ。
社会の片隅で目立たずに生きていることを肯定してるが、本当は勇気がないだけなんだろう。
自分は良くはないけど悪くもない。そのことに価値があると思い込みたいんだ。
実際は自分は他人に迷惑さえかけることができない器の小さな存在で、そんな者に社会は大した価値を感じない。だから不必要になれば躊躇なく切り捨てられる。
それが分かっていながらも、私はまだ腹を決められずにいた。
もう落ちるところまで落ちた。これ以上怖れることなどないはずなのに、未だに他人を怖れている。
その馬鹿馬鹿しさを頭では理解しながらも、この四十年余りの人生で染みついた習慣から逃れることはできずにいた。
改めて己を知った私がなにをしたかと言うと、結局いつもの日雇いだった。
コロナで増えた日雇い労働者だが、その仕事のつらさと不安定感を知ったのか、前よりは人が落ち着き、仕事が得られるようになっていた。
そのおかげでまたネットカフェで暮らしながら食事も取れるようになってきた。
そんな時、私は掛井さんと出会った。
日雇いで行った事務所移転の現場でだった。
机やロッカーなど重い物を運ばなければならないこの仕事はやりたがらない人が多く、体力さえあれば穴場だった。
私が社員の曖昧な指示に悩んでいると掛井さんが声をかけて、仕事のやり方や要領を教えてくれたのだ。
仕事が終わると私はお礼にカップ酒を一本奢った。すると掛井さんは嬉しそうにそれを啜った。
「簡単な仕事だけどなるべく丁寧にやらないとな。でないと次から仕事を回してもらえなくなる」
こんな場末でも掛井さんは仕事に誇りを持ってやっていた。
それが私にはどこか羨ましく思えた。
それから何度か同じ現場で会うと、そのたびに安酒を飲んだ。お金なんてないから居酒屋には入れない。
コンビニやスーパーで酒を買い、それを路上や公園で飲んで語った。
世代は違うが同じような生活をしている人と仲良くなったのは掛井さんが初めてだった。
掛井さんは私より上の五十代で日雇いとして暮らしているホームレスだった。
中学卒業から工場で働いていたが、海外移転に伴う経営の縮小であっけなくクビになったのが四十歳。それからは学歴もなく、手に職もない掛井さんはずっと定職につけなかった。履歴書を送ってもそのほとんどが面接さえさせてもらえなかったらしい。
バイトも見つからなくなり、アパートの家賃も滞納すると追い出され、そこからは日雇いをしながらホームレスとして生きている。
これだけ聞くと掛井さんはどうしようもない人間なのだが、本当のところはとても優しい人だった。
高校に行かなかったのは家が貧しく、兄弟も多かったから少しでも両親を助けたいという一心だった。
掛井さんが働いたおかげで三人の弟と一人の妹は大学まで行けたそうだ。
工場でも真面目に働き、誰かが用事で休みたいと言えば休日返上で仕事に出ていたらしい。
工場がなくなってからは再就職も試みたが、学歴もなく若くもない掛井さんを欲しがるところはなかった。
もし掛井さんに多少の運があれば日雇いなどしてなかったのかもしれない。
だがそれでも掛井さんは自分の力で生きていた。兄弟に迷惑はかけられない。他の人も同様だ。
できる限り自分で解決しよう。そういう人だから生活保護も受けずにこうやって暮らしている。
私は一度生活保護を受けてみたらと提案した。だが掛井さんはかぶりを振った。
「俺は独り身だしまだ動ける。そういうのは必要な人が受ければいい。なにより誰かにすがって生きたことがないんだ。やり方が分からないよ。あんたも分かるだろ?」
掛井さんの言うことは全て自分に当てはまった。
そう。生きていくだけならなんとかなるのだ。
だがそれは本当に生きているだけならだ。
路上で寝て、お腹が空けば炊き出しに並ぶ。仕事があれば働き、そのお金でたまにこうして安酒を飲む。
そして野垂れ死ぬまでそれを続ける。
そんな最低限の生活なら今でも十分可能だ。
他人から見れば悲しい一生だが、自分からすれば誇れるところもあったりした。
いつでも自分の足で立ってきた。誰にも頼らず生きてきた。そんな誇りが。
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