第8話
妙な女に絡まれるというアクシデントを切り抜けたヴォイドは下宿先まで戻ってきた。外殻兵士隊には仮眠室こそあれど宿舎が無いため、離れた場所で部屋を借りている。ヴォイドは食堂兼宿屋の一室を使わせてもらっているのだ。
店内は閑散としていて、昼食を摂っている人がまばらにいた。その横を通り抜けて階段を上がろうとする。だが受付に座っていた女将が立ち上がって声をかけてきた。
「ちょっと、ヴォイドさんよ。待っておくれ」
さっきと同じパターンか……と頭を痛めつつも、部屋を借りて食事まで出してもらっている身だ。逆らうことはできず、立ち止まる。女将は要件を尋ねるよりも早く、右手を差し出してきた。
「今月の家賃と食費、払っておくれ」
「あー……」
思わず視線が泳いでしまい、困り顔になる。
しかし女将の追求は弛まない。半眼になってヴォイドを睨んでくる。
「アンタが田舎から出稼ぎに来て立派に兵士をやってることは知ってるよ。けどね、こっちだって商売なんだ。タダ飯食らいに貸してやる部屋は無いよ」
(謹慎処分で二ヶ月は給料が入らない……なんて言える空気じゃないよな)
「女将さん、もう少し待ってくれ」
「なんでだい? 家賃よりも大事なものがあるのかい?」
あるに決まってるだろ、という反論は心の中に留めておく。
申し訳なさそうに肩を竦めていると女将は特大のため息を吐いた。
「はぁ、ちょっとなら待ってあげるよ」
「助かる……」
「そういえばあんた、『灰人』に襲われた聖女様の命をお救いになったんだってね?」
そのことは隊長から口止めされている。あの襲撃事件は教団の圧力によって無かったことにされていた。だから頷くわけにもいかず、誤魔化すしかない。
「なんで知ってるんだ、って顔してるね」
「そ、それは……」
「そりゃあれだけ信徒が集まってフォグ様の説教を聞いていたんだ。教団は口止めしたらしいけど、噂くらい広まるさね」
「迂闊に喋ると教団に睨まれるからやめた方がいいよ」
「噂なんてそんなもんさね。ま、聖女様を助けたのならボーナスくらいは出るだろ? 金が入ったらちゃんと払っておくれ。でなきゃ出て行ってもらうよ」
受付に戻った女将は暇そうに欠伸をした。
ヴォイドの肩はさらに重くなる。ボーナスどころか、しばらくは給料も貰えない。
(家賃よりもずっと大事なものがあるんだけどな……)
頭の中で貯金額を数えながら階段を登り、自室に戻った。
家具はベッドと机だけなのに狭い。その机の上には教団の配布する教典が置いてある。熱心な教徒である女将が置いたものだ。しかし、目を通したのは数回程度。ふと、聖女フォグの説教を思い出す。
「遥か昔。今日のような永遠の夜に閉ざされる前の時代のこと。このスフィアの空には『太陽』と呼ばれる無限のフォトンを生み出す球体が浮かんでいました」
確か、教典の最初の方にも同じことが書かれていた気がする。
ヴォイドにはそれがそんなに重要なことに思えない。
窓の外にはどこまでも黒い空が広がり、頼りなさそうに星が瞬いている。
「……」
無言のまま、壁に立てかけておいた鉄製の剣を手に取る。
刃が潰してあるので形だけ。何物をも斬ることは叶わない。
しかし、重さはガラスの剣と合わせてある。兵士が練習に使うための代物だ。
ヴォイドは足のスタンスを広げ、正眼に構えて息を止める。
「……ふっ!」
垂直に振り下ろす。身体は微動だにしない。狙った位置でピタリと剣が止まった。
動作を繰り返すうちに汗が出てくる。無心で剣を振るっていくうちに、余計な考えは霧散した。
少しずつ頭の中でイメージを膨らませる。
灰色の塵芥が集まって人の形を作る様子を。
敵の動きは緩慢だが、触れられたら死ぬ。伸ばしてきた手を掻い潜り、胴を両断する。あるいは腕を切り落とす。
しかし…… 何体もの『灰人』を斬り捨てていくと、見上げるほどの黒い犬のイメージが浮かんだ。
そいつはヴォイドを頭の上から押さえつけるように前脚を振り下ろしてくる。僅かな動作で回避して、叩きつけるように薙ぎ払う。ガラスの剣が前脚の半ばで止まる。全てはヴォイドの頭で作り上げたイメージだが、指先には重い反動を感じていた。
次の一撃を繰り出そうと身体を捻る。ふと、イメージの上にノイズが乗った。
視界の端に紅い瞳の女性がいる。目が合ったヴォイドはバランスを崩す。
「あ」
集中力が切れたせいでベッドにぶつかり、思い切り倒れ込んでしまった。
鉄製の剣は勢いよく吹っ飛び、窓ガラスを突き破る。煌めく破片が飛び散る様子がヴォイドの目にはよく見えた。
「何の音だい!?」
耳障りな音が止むと、階段の方から女将の大声が響く。
「なんだ!? なにか降ってきたぞ!?」
外からも悲鳴が響く。
窓ガラスを壊したことを隠せるわけもなく、不幸中の幸いか屋外に落ちた剣は誰にも当たらなかった。当然、ガラスは弁償するしかない。
この件で女将にしこたま怒られながらヴォイドは考えた。
とにかく金が必要だ、と。
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